病院は謎だらけ２
　― 高遠紀和子と新しい三人組 ―

　都筑　一郎

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プロローグ　　　　　　

　　主な登場人物

　　高遠 紀和子たかとおきわこ　　　病院病理部　臨床検査技師　本編の主人公
　　神 城 稜 一かみしろりょういち　　　　　同　　　病理医　『俺』
　　宮 崎　侑みおやざきゆう　　　　病理部に来ている外科医　新しい三人組のひとり
　　友 永 和 美ともながかずみ　　 　病院病理部　臨床検査技師　
　　小 平 佳 子こだいらけいこ　　　 臨床検査部技師　高遠紀和子の親友
　
　　石 田 逸 郎いしだいつお　　　 乳腺外科部長　　　外科医　
　　鬼 頭　剛　きとうたけし　　　整形外科部長　　　整形外科医
　　鎌 田 黎 子かまたれいこ　　　 小児科入院患者の母親


　
　　


　　 プロローグ

「きゃあ、ご免なさい」
　俺たちの後ろで高遠紀和子がけたたましい声を上げ、ついでガラガラガシャン
と派手な音が医師検鏡室に響き渡った。俺はまたかと気にも留めず顕微鏡を覗き
続けたが、一緒にディスカッション顕微鏡を見ていた宮崎侑みやざきゆうは驚いて後ろを振り
返り、床にばら撒かれたスライドガラスを見ると心配そうに紀和子を見やった。
「大丈夫、いつものことだ。心配するほどのことはない」
　俺が言うと宮崎が戸惑っている。紀和子の足元にはマッペから飛び出したスラ
イドガラスが散らばり、何枚かは割れているようだ。
「ご免なさい。ちょっと躓つまづいてしまって」
　そう言いながら慌てて散らばったスライドガラスを拾い集め始めると、宮崎も
顕微鏡を離れて一緒になってガラスを拾い集めはじめた。ところが紀和子はせっ
かくの協力を拒否している。

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プロローグ　　　　　　

「大丈夫です、先生。自分の不始末ですから自分で何とかします」
　なかなか面白い光景だ。手助けを拒否された宮崎はそれでも平然と床からスラ
イドガラスを拾ってマッペに戻しているし、紀和子は拒否しておきながらそれを
何も言わずに受け取っている。
　紀和子の巻き起こした騒動に、検鏡室の奥から河村さんと村田さんが心配そう
な表情でこちらを見てきたが、俺と宮崎が相手をしているのを見てまた検鏡作業
に戻っていった。
「何枚か割れてしまったみたいですね」
　宮崎の同情に紀和子がぼやいている。
「ああ、もうせっかく急いで染色したのに。神城先生、すみません。急いで作り
直します」

　高遠紀和子の子守役は高田馬場で撮ったモデルスタイルの素敵な写真と一緒に
宮崎に譲り渡したはずなのに、俺は相変わらずフォローをし続けている。以前と
違うのはもう一人が絡むことになって話が俄然がぜんややこしくなったことと、紀和子
のどじがやたらと増えたことぐらいだ。

　
　　
　病理部に来てからすでに半年以上経って、高遠は着々と実力をつけているはず
だった。ところがこの四月に宮崎侑という外科医が病理部にいわば出向して来て
以来、以前と同じように病理部を恐怖に陥れる悲鳴を挙げるようになったのだ。
これは大友流に言うと二人の前世に縁があったということなのだろう。
　前世に縁があろうとなかろうと、紀和子ももう子供じゃないのだからあっちに
躓いたり、こっちにぶつかったりして大事な顕微鏡標本を床にばら撒くのはやめ
てほしい。
　それより撒き散らされたその標本は、そもそも俺が見るべきものではないよう
な気がする。
「紀和子、それは俺の解剖例か？」
「あれ？　そうだと思うんですが違うんですか。この間、河村先生のを標本にし
ましたから、その次は四月初めの先生の症例じゃないんですか」
「たぶん違うな。俺のより先に宮崎先生の症例をやろうということになって、一
緒に切り出したんだ」
「ええ？　そうなんですか、宮崎先生。本当？」
「えーと、そうだと思います。先週、僕が自分が解剖に入った症例の標本を早く

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プロローグ　　　　　　

見たいと言ったら、神城先生が自分の順番を飛ばして先に切り出しを教えてくれ
たんです」
「ああ、だったら言ってくれればいいのに。そんなこと考えもしませんでした」
　そう言いながら紀和子は宮崎を恨めしそうに見上げた。しかし、宮崎に非はな
い。技師に渡す解剖例の切り出し標本には解剖番号と担当医師名を記入した依頼
票がつけられているはずだ。紀和子はそれに気が回らなかったか、思い込みで間
違えたのだ。
「それより番号を貼り間違えていないか、紀和子。間違えていたらインシデント
レポートだぞ」
「ああ、あれは嫌です。前にも一度出しましたけど凄く嫌な気分です。それから
先生、紀和子って呼ばないで下さい」
　この四月に外科から病理に来ることになった宮崎は、石田に嵌められて以来、
高遠を名前で呼んでいる。俺はそれ以前から名前で呼んでいたが、紀和子は時折、
思い出したように二人に文句を言ってくるのだ。
　インシデントだぞと脅されて高遠紀和子は慌ててスライドガラスの番号を見て
いる。その傍でスライドガラスを集めながら宮崎が番号を確かめた。

　
　　
「大丈夫ですよ、紀和子さん。この番号で間違いないです。よかったですね」
　高遠紀和子も自分でも確かめて安心している。
「ああよかった。でも、どうしてちゃんと合っているんでしょう。私はその前の
番号だと信じていたんですよ」
　ふうん、まあ、これはそれほどの難問でもない。せっかくだから疑問を解いて
やることにした。
「その謎の答えはこうだと思うね。紀和子は二回、間違えたに違いない。最初の
間違いで間違った番号になり、その後にもう一度間違えて正しい番号に戻ったん
だよ。復帰突然変異みたいなものだ」
「ああ、神城先生、ひどい。いくらなんでも二回も間違えません」
　隣では宮崎が可笑しそうに顔をゆがめている。
　散らばったスライドガラスを拾い集めた紀和子は、それじゃ割れていないのだ
けを先にと言ってマッペを宮崎に渡した。受け取った宮崎がスライドガラスの一
枚を顕微鏡のステージに乗せて接眼レンズを覗き込んだ。
　
　そこに隣の事務コーナーから大友さんが顔を出した。

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プロローグ　　　　　　

「大丈夫なの？　今、インシデントがどうのって神城先生の声が聞こえてきたん
だけど」
「心配しなくても大丈夫だよ、大友さん。紀和子は間違いを二回やらかして、お
かげで元に戻ったみたいだ。正しい番号に戻ってしまったからにはインシデント
とは言えないだろう」
「違います、神城先生。これは間違えていなかったんです」
　紀和子は俺の講釈に異議を唱え、口を尖らせた。それでも大友さんはまだ心配
そうだ。
「高遠さん、最近また失敗が多いって武村さんが心配していたわよ」
　首をすくめた紀和子が答えた。
「すみません。右足が左足に躓いたんです」
「それならいいけど、それより重大ニュースがあるの」
　と声をひそめて話し始めた。
「今朝、附属病院の方でアクシデントがあったんですって。なんでも薬剤を取り
違えてしまって、別な人に抗癌剤を点滴したらしいわ。何とか命には別状なさそ
うだけれど、今、院長や学部長を交えて善後策を考えているらしいわ」

　
　　
　大友さんはこれが言いたくて顔を出したのか。昼休みは済んでいるから皆んな
に披露ひろうする機会を見計らっていたのだろう。
「どこでミスが起きたのか、その詮索で今は大変らしいわ」
　部屋の奥のほうから村田さんが顔を出し、珍しくこちらの話に加わってきた。
「その話、さっき私も同期の人から聞きました。なんか患者さんが怒っていて、
それが大変なんだそうです」
　大友さんはしばらくその話題を一人で話し続けていたが、宮崎は顕微鏡を覗き
込んだままだ。その話題には興味を示さず、熱心に覗き込んでいると思ったらぼ
そりと呟いた。
「綺麗きれいですね、この標本。いいバランスで染められています。自分でも薄切と染
色をやってみたいな」
　大友さんはじろりと宮崎を見たが、彼はそもそも大友さんが病理部のヌシだと
は知らない。深々と溜息をついて大友さんは自分のコーナーに戻っていった。
　戻って行く大友さんを見送りながら俺はにやりとした。病理部のヌシの威力も
およばぬ相手がいるのはいいことだ。
　病理のヌシのことはともかく、宮崎の基礎病理の教育として標本を自分で作る

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プロローグ　　　　　　

のはいい考えだ。
「いいんじゃないか、勉強になるよ。それじゃ切片作成と染色の教育係は高遠に
任せることにしよう」
　せっかく俺が指名したのに紀和子は顔を背けた。
「嫌です。あんな大口を開けて私を笑ったんですよ。あんな馬鹿笑いをする人に
私の秘術は教えません。それに人を気安く名前で呼ぶなんて失礼です。どうして
も私に教えさせたいんなら、業務命令にしてください。それでしたら、泣く泣く
教えます」
　俺の提案を高遠はけんもほろろに断ったが、これは断っているというより、実
は教えると言っているようにも聞こえる。まったく面倒な奴だ。覗いていた顕微
鏡から身体を起こして宮崎がぼやいた。
「なんだか、紀和子さんに随分嫌われてしまったみたいです。先生、機嫌を直し
てもらう方法はないですか？」
　ほう、高遠紀和子の機嫌をとりたいとは、宮崎も奇特きとくな奴だ。
「女の機嫌をとる方法はいろいろあるみたいだが、俺が知っているのは福砂屋の
五三焼きのカステラか華正楼かせいろうの月餅だな。ああ、もう一つあった。名古屋で買う

　
　　
両口屋是清の和菓子だ。残念ながらこんな上品なものが紀和子の曲がった臍に有
効かどうか俺は知らないけれど」
　宮崎は懸命に笑いをこらえている。高遠が俺を振り向いて文句を言いそうな顔
をしたが、別な思いに取って代わられたようだ。
「先生の奥さんて好みが随分渋いですね。どうして先生と結婚したんですか？」
　これはまた、いきなり核心に迫ってきたな。なかなか嫌味な奴だ。こんな高遠
紀和子の機嫌を取りたいとは宮崎も見上げた根性だが、まあ、いい。いましばら
くは高遠と宮崎の二人の掛け合いを楽しむこととしよう。

　　

　
　　
　病院は謎だらけ
　第四話　サイフォニング

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第四話　サイフォニング

　１　 依　頼

　その日の夕方、高遠紀和子が俺の部屋に顔を出した。
「先生、宮崎先生が標本を一緒に見て欲しいって言ってます」
　病理の勉強をしたいと、四月から外科から病理に来ている宮崎の指導医は俺が
引き受けているから、一緒に顕微鏡を見るのはいつものことだ。ちがうのは高遠
がわざわざ呼びに来たことだ。医師検鏡室に行くと、宮崎がディスカッション顕
微鏡の前でスライドガラスを何枚か用意して待っていた。
「先生、すみません。呼び立ててしまって」　
「それはいいけれど、何を一緒に見て欲しいって？」
「今朝の標本です。河村先生が、興味があるならって譲ってくれた症例です」
　そう言って宮崎がセットされていたスライドガラスを取り替えた。
　俺が宮崎の脇に座ると高遠も向かいの接眼レンズの前に座った。顕微鏡の中に
は周りを脂肪組織に取り巻かれ、真ん中にヘマトキシリンに紺色に染まった細胞

　
　　
が集まっている。核が大きくてもちろん正常の細胞ではないし、かといって胃癌
や乳癌でもない。河村先生も初心者に随分と難しい症例を渡したものだ。
「これはどこから採取した組織だ？」
「右の乳腺だそうです」
　なるほどそういうことか。宮崎は石田を慕っていて、将来は乳腺外科を専門に
したいと言っているから河村先生もそれに応じたのだ。
「それで、宮崎先生の考えは？」
「リンパ腫じゃないかと思うんですが、どうでしょう」
「紀和子は？」　
「ええ？　私にはわかりません」
　高遠にはしばらく前に別の症例のリンパ腫を見せながら教えたばかりだから、
分からないとは思えない。こいつも意外と遠慮深いところがあるなと思ったら宮
崎が不審気ふしんげな顔をした。
「あれ、紀和子さん、さっき、僕に教えてくれたじゃないですか。リンパ節の構
造はないし、正常のリンパ球に比べて核が大きすぎるって」
「ああ、駄目です。ばらさないで下さい」

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第四話　サイフォニング

「何だ、紀和子。偉そうに宮崎に教えているんだ」
「だって宮崎先生って、見たとたんリンパ腫だって言うから凄いと思ったのに、
その根拠を言えないんです。だからこの間、神城先生が私に教えてくれたのをそ
のまま伝えたんです」
　宮崎が見ている標本の症例の経緯を簡単に説明してくれた。
「この人は乳腺外科で二週間ほど前に一度、針生検をしたんですが、そのときは
腫瘤の端っこから組織が取れたらしく、リンパ腫疑いどまりで病理の確定診断が
出ていません。それで確定診断のために切除生検してきたんです」
「それじゃ、正解にたどり着いたんだ。後は免疫染色をオーダーして、リンパ腫
のどのタイプか決めればいい」

　宮崎侑がリンパ腫の専門書を参考にしながらどんな免疫染色ができるかと紀和
子にたずね、それに大概の抗体は用意してあると答えている。大口を開けて笑っ
た宮崎を恨みがましく非難した割に仲良くやっている。二人で熱心に検討してい
るところに、ペタリペタリとサンダルの足音が聞こえて来た。もちろん石田が現
れたのだ。　

　
　　
「皆さんおそろいだね。宮崎先生の臨床病理学事始めか。ずいぶん豪勢な顔ぶれ
の教師陣だな。どう、神城先生、宮崎はモノになりそう？」
　医師検鏡室に現われた石田はいつものしわがれ声で聞いてきた。サングラスで
ほとんど顔の隠れた高遠紀和子の写真を顎のラインだけで見分けた宮崎の才能に
俺は掛けるが、石田に答えた。
「モノになるかならないかは紀和子の機嫌をうまく取れるかどうかに掛かってい
るね」
　俺が評価を下すと高遠が即座に反応した。
「私とは関係ありません。宮崎先生の才能と努力しだいです。あんなに大口開け
て人を笑ったりしなければ、お医者さんてみんな頭がいいんですから、モノにな
ると思います」
　おやおや、やはり根に持っているようだが宮崎を見るとけろりとしている。
「この間、神城先生から紀和子さんの機嫌のとり方を教えてもらいましたから大
丈夫です」
「いやいや、宮崎先生は余裕だね」
　石田は相変わらずからからと笑っている。

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第四話　サイフォニング

　どうやら石田はしばらく腰を落ち着けそうだと察して、高遠はお茶を入れに立
った。それじゃと言って石田があいた椅子に座ってディスカッション顕微鏡を覗
き込んだ。
「ああ、湯山ゆやまさんか。これはやはりリンパ腫だな。マンモグラフィーの画像もい
つも見るのとは違っていたし、針生検ではリンパ腫疑いだったからな。この症例
は誰が担当するの？」
「僕が河村先生から譲ってもらいました」
　宮崎が答えると石田が喜んだ。
「それならちょうどいい。珍しいから今度の横浜乳腺で発表をするといいよ」
　横浜乳腺というのは乳癌研究会のことだ。そこで症例報告をしろと言っている
のだ。そこにお茶とお菓子を用意した高遠が部屋に戻ってきた。
「石田先生、来週ならもっと素敵なお菓子があるかもしれませんが、今はこのク
ッキーだけです」
　顕微鏡の前では宮崎がしてやったりと嬉しそうな顔をした。
「やりました。これで、学会発表の第一関門を突破です。免疫染色も自分でやっ
て出そうと思います」


　　
「凄い、病理を始めて一ヶ月で学会発表ですか。私なんかもう半年も過ぎたのに
まだ何も発表していません」
　高遠は態度を一変させて今度は尊敬の目で見ている。なんとも忙しいやつだ。
宮崎は外科医になってもう五年目だから既に何処かの研究会か学会で何回も発表
をしているだろうが、高遠は病理を始めて半年だ。そう慌てるな、検査技師や細
胞診の学会や地方会もあるから、そのうち嫌というほど発表させてやるさ。
　それより石田はなにか魂胆があって病理部に現れたに違いない。
「それで、なんでわざわざ病理まで足を運んだんだ？」
　気楽そうな表情でクッキーを頬張ほおばっていた石田が急に改まった口調になった。
「高遠さん、凄いね。とうとう外の病院から調査の依頼だよ」
「え、調査って何の調査ですか」
「病院のミステリーを調べて欲しいという依頼ですよ」
　それを聞いたとたんに高遠が文字通り身を乗り出した。
「ミステリーですか。どんなミステリーなんですか」
　高遠はみごとに石田の罠に嵌はまっている。
「いやね、私の同期生で親父さんの病院を引き継いだのがいるんだが、その松山

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第四話　サイフォニング

という同期の奴に昨日呼び出されたんだ。重要な相談があるってね」
「何か事件があったんですか」
「いや、事件か事故かはまだ分からないが、どうも抗癌剤の急速投与をやったみ
たいだよ。しかし事故は続くものだね」
　もちろん昨日の大学附属病院での事故のことだ。
「それで、石田先生、事故ってどんな……」
　といったところで、言葉を切った高遠があわてて自分のおなかを抑えた。石田
も宮崎も怪訝けげんな顔をしている。俺にだって何も聞こえなかったが仕草があからさ
まに物語っている。
「ああ、駄目です、神城先生。言わないで」
　石田は笑い出し、宮崎はにこにこしている。
「そういう時間だね、話の続きは夕飯を食いながらにしよう。宮崎先生も一緒に
来るだろう」
「僕もいいんですか。それなら喜んで行きます。そっちのほうが面白そうです」
　俺たちは揃って夕飯を食いに酔来軒に行くことになった。石田は着替えに部屋
に戻り、高遠も地下のロッカールームに向かうことになった。病理部を出るとき

　
　　
高遠は俺に恨めしそうな視線を向け、脇にいた宮崎が紀和子を慰なぐさめた。
「紀和子さん、気にすることないですよ。僕もよくおなかが鳴ります」
　高遠紀和子がぱっと頬を染めた。
「もう、宮崎先生までひどい。そういうことってレディーに向って口にしないの
が紳士です」
　そう言い残して部屋を出て行った。今度は乙女ではなくてレディーか。

　四人は酔来軒の二階の奥の部屋にいた。
　ビールで乾杯したあと、石田は昨晩の湘南松山病院の院長との会食の様子を話
してくれた。
「さすがは院長先生だ。呼び出された横浜崎陽軒のレストランで高級中華料理を
食べながら、病院の深刻な話を聞いたよ。事故も事故だが病院の内部事情も随分
と問題らしい」
　その湘南松山病院は石田の同期生の父親が開業医から始めて一代で築き上げた
ものだ。湘南の町の一角で百五十床ほどの中堅病院に発展させたが、数年前に脳
梗塞で倒れて一度は回復したものの、昨年の冬にまた倒れ、結局この三月に亡く

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第四話　サイフォニング

なり、その後を息子の松山俊樹が引き継いだのだ。生前、父親は何とか病院を二
百床にしたいと言い続けていたが自分では果たせず、息子にその事業を託したと
いう。石田の話では病院を引き継ぐのが 必定ひつじよう となった数年前から、息子も何か
と病院の経営に関係していた。
「もともとは松山は私と同じで外科医なんだが、しばらく前からその当時勤めて
いた湘南市立病院で癌の化学療法を始めていて、親父さんの病院を手伝うように
なったとき松山病院にもそれを導入することにしたんだ。百五十床ぐらいの病院
で本格的な癌の手術は無理だからね。それより手術が出来ないような進行癌や再
発癌の患者を引き取って化学療法をやることに活路を求めたんだね」
「それで具体的にはどんな事故だったんだ」
　聞くと石田がまあ、慌てるなと言いながら話を続けた。
「それが抗癌剤の投与中の患者がショック状態に陥って、一時は危険な状態にな
って大騒ぎになったというんだ。患者のほうは何とか落ち着いたが、今度は別の
問題が持ち上がった。抗癌剤が予定より急速に点滴されたことは直ぐ分かったん
だが、なんでそうなったのかと騒ぎはそちらに移って、てんやわんやだそうだ」
　石田の奇妙な言い方に高遠が怪訝な顔をした。

　
　　
「それって普通じゃないんですか？　原因を突き止めないとまずいです」
　石田が応じた。
「事故の原因を突き止めるというならそのとおりですよ。当たり前なんだが原因
究明ではなくて、責任追及というか犯人探しになっているんだ」
　高遠が眼鏡の奥の眼を見開いて石田に聞き返した。
「犯人探しですか？　原因の追究じゃなくて」
　高遠紀和子の言うことはいつでもストレートで分かりやすい。石田は相変わら
ずにこにこしている。
「そう、医療事故として調査しようというんじゃなくて、病院の中の主導権争い
だね。新しい院長は引き継いでまだ間もないから病院を 掌握しようあくし切れていない。
前院長時代からの病院の実力者である事務長がチャンスと考えたんだろう。新院
長を取り込んでおいて病院のもう一つの勢力を押さえ込もうとしているんだ」
　まったくどこまで行っても人間の社会ではこの手の話が付き纏う。
「もう一つの勢力って、何ですか」
　いろいろと雑学的知識は人一倍あるが、勤め始めて二年の高遠には病院内の政
治力学の事情にはさすがに疎うといようだ。

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第四話　サイフォニング

「紀和子、病院で探偵をやるならこれを知らないでは務まらないぞ」
「ええ？　神城先生。どういうことですか」
　口を尖らせている高遠の脇で今まで静かに料理を口に運んでいた宮崎が口をは
さんだ。
「病院では看護師は一大勢力ですからね。看護師さんの機嫌を損ねたら医者も仕
事が出来ないです」
　この三月までは病院勤めだったから、宮崎もその辺の事情はよく知っている。
石田が話を続けた。
「そういうことだ。医者は病院では絶対者という事になっているんだが、手術を
別にすれば実行部隊は看護師さんだからね。彼女達が臍を曲げては病院は動かな
い。ところが事務部門がその上に立っていることがしばしばだし、そうなろうと
していざこざが起きることもざらだからね。松山病院の事務長は先代の院長と一
緒に病院を作り上げた人で、病院拡大のためになりふり構わないケチ振りと力技
を発揮し続けていたらしいだ。それが看護師軍団との以前から衝突の原因なんだ」
　石田は院長から聞いてきた事故の様子も伝えてくれた。
「患者は食道癌の再発で、胸部リンパ節と肺に転移しているんだ。二年前に手術

　
　　
していて、術後の多発肺転移だから手術の適応がない。それで化学療法というこ
とになった。今週は第一クールの三週目で、これまでは何も問題はなかったそう
だ。それが一昨日の午後、院長が緊急呼び出しで病棟に行ったら、大騒ぎの真っ
最中だった。患者はショック状態で、抗癌剤の点滴中にこんなことは初めてだっ
た院長は正直、慌てたと言っていたよ。それでもとにかく抗癌剤は二種類とも止
め、生食の点滴と利尿剤、それにアドレナリンの注射でどうやら落ち着いたとい
うことだ」
「その松山病院の院長って化学療法の専門家じゃないんですか？　松山先生です
よね」
　宮崎も院長を知っているようだ。
「ああ、そうだよ。ただ、専門家って言っているけど腫瘍の化学療法を始めてそ
れほど年季が入っているわけでもないんだ。もとは外科医だからね」
「でも良かったです。患者さん、大丈夫ですよね」
　高遠の気持ちは患者に向いていて心配しているけれど、石田のこの様子なら大
丈夫なのだろう。
「点滴と利尿剤で薬を速く体の外に出すよりないですね。食道癌だと ５-ＦＵ と

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第四話　サイフォニング

シスプラチンですか。腎臓のダメージが心配ですけど」
　宮崎が心配すると石田が頷いた。
「宮崎先生、その通りだよ。患者は歳も歳だし、低用量の化学療法でやっていた
ということだ。どっちにしろショック状態だから、やることは決まっている。輸
液とあとは血圧維持のためにアドレナリンを投与するくらいだ。腎臓が保つかど
うかは誰にもわからないね」

「事故の状況は把握できているのか？」
　聞いてみると問題があるらしい。
「松山の話だとその日の午後は原因の追求どころじゃなかったそうだ」
「でも、先生、それじゃ証拠がなくなります」
　証拠とはいかにも高遠らしい。
「高遠さん、私も同じ事を考えましたよ。これでも一応三人組の一人だからね。
院長は処置がすんだあと夕方に善後策を検討するための緊急の幹部会を開いたと
言うんだ。ところが聞くと事務長が担当の看護師が何かドジを踏んだんだろうと
責めて、それがきっかけで副看護師長と事務長が非難合戦を始めたらしい」

　
　　
「それじゃ調査委員会は立ち上げられなかったのか」
　石田はその通りだという。
「翌日になったら事務長が自分で勝手に看護師から聞き取りを始めて、それがい
かにも乱暴で独善的だったんだ。それに気づいた副看護師長が怒って混乱に拍車
がかかってっしまったということだ。院長が事務長と副看護師長の間に入って混
乱を収めようとしているところだ。関係した医師と看護師から聞き取るのはさす
がに副看護師長に任せて、松山はとにかく調査委員会を立ち上げることにしたそ
うだ。それが昨日の午後のことだ」
　石田が続けた。
「それに副看護師長は既に事故のときの道具類をちゃんと確保しているというこ
とだった。彼女なら大丈夫だろう」
　石田はその副看護師長を知っているような口ぶりだ。高遠が聞いた。
「あれ、石田先生はその看護師さんを知っているんですか？」
「ああ、彼女は永井さんというんだ。うちの大学病院の本院に長いこと勤めてい
たんで、良く知っているんだ」
　事故の原因究明は調査委員会次第ということだが、話を聞いていた限りでは頼

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第四話　サイフォニング

りなさそうだ。石田が俺の懸念けねんに応えた。
「神城先生、心配の通りだよ。永井さんは信頼していいが、病院の事情を考える
と調査は難航が必至だ。それで松山は俺を呼び出したんだ」
　なるほど院長は愚痴を言うために石田を呼び出したわけではない。
　宮崎はさっき少し口をはさんだだけで、その後はまた話を聞きながら黙って料
理に専念していたが、また口を開いた。
「そうすると院長が石田先生に事故の調査を依頼してきたんですね」
「大当たりだよ、宮崎先生。すごいね、高遠さん並みだね」
　急に名前を出された高遠が間抜け面をしている。
「ええ？　石田先生、私並みってなんですか」
　相変わらず紀和子は面白い。賢い女とひどく間抜けな女が同居しているという
か、行ったり来たりしている。
「石田、訂正したほうがいいよ。紀和子並みでは宮崎先生に悪いよ」
　俺が言うと相変わらずきょとんとしている高遠紀和子を前に石田と宮崎が笑い
出した。
「いえ、僕は紀和子さん並みなら光栄です」

　
　　
　ここまで来てやっと高遠は気がついたようだ。しかしこれでは喜ぶわけにもい
かず、憮然ぶぜんとしている。
「それで松山が私に調査を引き受けてくれと言って来たんだ」
　内部対立を抱え込んでいることもあって調査に外部委員ということか。
「じゃあ、引き受けたんだな。高級シウマイ料理で買収されたのか」
　俺の憎まれ口に石田がからからと笑い声を上げ、しわがれ声で否定した。
「買収はひどいな、神城先生。私と松山は同期生の上におなじ外科の医局員だ。
相談に乗るのは当然だよ。どっちが金を出すかはお互いの 懐具合ふところぐあい によるんだ。
とにかく」
　そう言って石田がにっこりと笑顔を高遠に向けた。
「調査は条件付で引き受けたましたよ、高遠さん」
　高遠は無邪気に喜んだ。
「外部調査委員ですか。凄いです、石田先生。どんな条件をつけたんですか？」
「委員は引き受けるけれど、調査は私が委嘱した何人かと一緒にやるのを認める
という条件を出したんですよ。松山は神城先生と高遠さんの活躍も知っていたま
したよ」

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第四話　サイフォニング

　夕方にふらりと病理部に現れて一緒に飯を食おうと誘うからにはこのくらいの
ことはあるのだろうと予想はしていた。調査は三人組と聞いて、俺はともかく高
遠は喜んでいる。
「ミステリーに取り組むのは久しぶりです。腕が鳴ります。どこから調査を始め
ましょうか、石田先生」
「まあまあ高遠さん、そんなに慌てないで。本格的調査は来週の月曜日からで、
それまでは予備的な調査をすると言ってあるんですよ」
　高遠はまたも怪訝な顔をしている。宮崎が頷いた。
「そう言えば、石田先生、この週末はオーストラリアでしたね。環太平洋乳癌学
会に呼ばれているんじゃなかったですか」
「そうなんだ。だから、月曜日に帰ってくるまでは私以外の三人で予備調査をし
て欲しいんだ」
　張り切って調査を始めようとしていた高遠は不満顔だ。
「ああ、石田先生、ずるいです。自分だけオーストラリアですか。私もオースト
ラリアがいいです」

　
　　
「石田、いいさ。のんびりして来いよ。帰ってくるまでにけりを着けておいてや
るから」
　俺が言うと高遠もまた、調査に気が向いたようだ。
「そうです。先生が戻ってくる前に解決しておきます。その代わり、お土産は高
くつきますよ」
　宮崎はというと残念そうな表情だ。
「僕は喜んでお手伝いしますが、この週末は当直の仕事があります。でも何とか
して紀和子さんの活劇を見られるようにします」
　高遠紀和子は宮崎の申し出に活劇なんかやりませんと怖い顔をして見せたが、
とにかく俺たちは抗癌剤の急速投与の事故の調査を引き受けることになった。

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第四話　サイフォニング

　２　副看護師長

　木曜日の晩、湘南松山病院の副看護師長が俺たちに会うために横浜に出向いて
来ることになった。石田はその朝にオーストラリアに向けて発たっていったが、事
故の状況を出来るだけ分かるようにと、横浜で会って話を聞けるように手はずを
整えてくれたのだ。
　前日の夕刻、石田から副看護師長が横浜に出て来ると聞いた俺はカンファラン
ス室に顔を出した。そこにいた高遠と宮崎に永井看護師長と会うチャンスが出来
たと告げると、高遠は眼を輝かせた。
「やっと調査が始まりますね。どこで会うんですか？」
　俺は横浜の洒落た食事どころにまるで通じていないし、松山病院の院長ほどの
財力もない。
「困っているんだ。どこか安くてうまいところを知らないか」
「それなら鉄板焼きの店にしましょう。横浜の駅ビルのレストラン街のお店で、

　
　　
とても美味しいって聞きました。そこにしましょう」
　鉄板焼き？　俺はどんな料理でも喜んで食べるが、鉄板焼きとお好み焼きは食
わないことにしている。
「あれはやめよう。あれは料理のうちに入らない」
「ええ、どうしてですか？　この間、佳子ちゃんがそこでデートして、とても美
味しかったって言っていました。だから行ってみたいんです」
「美味しかったのは隣にいた男のせいじゃないか」
「ああ、もう先生はそうやって身も蓋もない事を言うんだから」
　隣で俺たちのやり取りを聞いて笑っていた宮崎がもっと現実的な問題があると
いう。
「鉄板焼きはやめたほうがいいです、紀和子さん。あそこはカウンター席ですか
ら、隣の客に話が筒抜けです」
　自分は予定があって参加できないけれど、と断わりながら宮崎が代わりに横浜
駅前の店を教えてくれた。
「駅ビルじゃないですけれど、横浜の駅前に小さな個室のある料理屋を知ってい
ます」

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第四話　サイフォニング

　
　宮崎の推薦した大津屋の予約は高遠がしてくれた。急だからどうかなと思った
が、幸いに席は空いていた。夕方になると宮崎は教室カンファランスのために医
学部附属病院に出かけて行った。
　宮崎が出かけた後、俺も高遠と一緒に病理部を出た。病院の玄関のホールで待
っていると、深いレンガ色のチェック模様のスカートに上着姿の高遠がやってき
た。いつもよりお洒落のようだ。背の高い高遠は普段からヒールの高い靴は履か
ず、今日も黒いパンプスを履いている。ふむ、大いに結構。若い女性はこれくら
いお洒落をしてくれたほうがいい。どうせなら普段もこういう姿をもっと見せて
欲しいが、病理部ではいつも白衣姿だ。

　大津屋は横浜駅西口から少し歩いたところにあるビルの三階の一角を占めてい
た。案内された突き当たりの小部屋で待っていると、まもなくきびきびとした中
年の女性が現れた。松山病院の永井貴子ながいたかこ看護師だ。
　部屋に案内されたその女性を奥に通し、席についたのを見届けて俺と高遠も腰
を下ろした。

　
　　
「遠いところを呼び立てて、恐縮です」
　初対面なので俺はそう言って挨拶し、名前を名乗って隣の高遠を紹介した。
「こちらこそ、なにか厄介ごとに巻き込んでしまったみたいで、申し訳けありま
せん。湘南松山病院の永井です」
　そう言って可愛いナース帽に赤十字のマークの入った名刺を俺たち二人に差し
出してきた。永井貴子と名前が印刷されている。俺も紀和子も名詞なんか持って
いない。俺達の素振りに、永井貴子はにっこりと魅惑的な笑みを浮かべた。
「どうぞ気にしないで。それは看護師のリクルートのときに必要なので持ってい
るだけなんです。石田先生からお二人のことはいろいろ聞いています。私の方も
つまらないことに気を使わなくて大丈夫です」
　いろいろ聞いているというのが気になるが、とりあえずビールで乾杯をした。
永井看護師はみごとな飲みっぷりだ。うまそうにビールを飲み干した後、つくづ
くと言った。
「若い頃、横浜の大学附属病院に勤めていて、随分と石田先生と飲みに行ったの
よ。ほとんど徹夜で飲んだこともあるわ」
　石田は永井看護師が附属病院に勤めていたとは言っていたが、飲み友達だった

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第四話　サイフォニング

言ってなかったぞ。
「その石田先生も結婚して子供が出来て、今は横浜中央病院の乳腺外科部長ね。
私はすっかり取り残されてしまったわ」
　若い頃を思い出したのか、永井さんは不思議な表情をした。なるほど、こうい
う表情を遠くを見ているというのか。
「神城先生のこともそれから、高遠さんっていったかしら、そちらのお嬢さんの
ことも石田先生から聞いたわ。病院の事件を必ず解決してくれるから最大漏らさ
ず話すようにって言われたわ」
　石田が信頼していいと言っていたが、永井さんの信頼も相当なものだ。俺とは
違って高遠は何か別のところに反応している。永井看護師はちらりと高遠に視線
を走らせ、陽気な声を上げた。
「今日は少し早く病院を出て、結構楽しんで来たのよ。最近、私も横浜に来るこ
とがなかったから気晴らしになったわ。ほら」
　そう言って永井さんは自分の脇に置いてあるデパートの買い物袋を示した。

　料理が届き、永井さんが嬉しそうに箸を伸ばした。

　
　　
「やはりこっちのほうが美味しいわ。時々、横浜に出てきて石田先生にご馳走し
てもらおうかしら」
　俺と高遠も一緒に料理を楽しみ、少し落ち着いたところでようやく肝心な話題
に移った。永井さんはバッグからクリアファイルを取り出し、その中からホッチ
キスで留められた何枚かのコピーを取り出して俺たちに渡してくれた。
「石田先生からは関係のある看護師や医師から聴き取った結果を含めて、事故の
あった日の事を最大漏らさずあなたたちに伝えて欲しいって言われているわ。こ
こにメモを書いてきているけど、石田先生はとにかくどんな事でも書き出してく
れって。随分書き出せたと思うんだけど、西脇さんのところがまだあやふやなの
よ。あの子、事故のあと事務長に呼び出されて締め上げられて、すっかり怯おびえて
しまっているのよ。今日はまだ仕事を休んでいるわ」
　高遠が眉をひそめている。

　渡されたＡ４の用紙に記されたメモを高遠と一緒に見た。問題の日の白井さん
の事故に関係しそうな事項をこと細かに読みやすい字で要領よく記してある。大
雑把にその日の事故にまつわることだけを抜き出しておこう。

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第四話　サイフォニング

　午前八時半　　　当直帯看護師から引継ぎ
　　　　　　　　　西脇にしわき看護師、担当患者の与薬よやくリストのミスを見つけ、薬局に
　　　　　　　　　疑義照会
　同九時半　　　　担当患者に朝の与薬、その後に白井さんの抗癌剤点滴の予備
　　　　　　　　　薬の投与と生食の点滴を開始
　同十一時　　　　５-ＦＵの点滴バッグ交換
　同十二時　　　　昼食の配膳と下膳
　午後一時　　　　シスプラチン投与開始
　　　　　　　　　午後一時半ごろ白井さんの点滴リザーバーが緩んでいるのが
　　　　　　　　　見つかり、主治医の院長と研修医がリザーバーを再留置
　同一時半頃　　　抗癌剤の点滴再開　
　同二時前　　　　スタッフステーションのアラームが鳴り、ショック状態になっ
　　　　　　　　　ている白井さんが発見される
　同二時頃　　　　院長が研修医と病棟に呼ばれ、ショックに対する救命措置を
　　　　　　　　　開始

　
　　
　同二時二十分頃　内科部長が呼ばれ、白井さんに利尿薬を追加
　同五時頃　　　　患者はショックから立ち直り、状態は安定

　実際には事細かに実施した投薬の手順が記されていて、到底ついていけそうに
ない。
「こう書き出されると大変ですね、抗癌剤治療っていうのは。私みたいに毎日毎
日、ただ顕微鏡を見ているのとは大違いだ」
　俺がメモをざっと眺めたところであっさり音ねをあげたのをみて、永井さんが苦
笑している。
「私が看護師をはじめた頃はもちろんこんなじゃなかったわ。もっと薬の数も少
なかったし、点滴も簡単だったのよ。凄い勢いで薬も増えたし、最近ではジェネ
リックなんてのもあるし、与薬の手順も複雑になって、気がついて見たらこうい
うことになっていたというわけ」
　俺のとなりでは高遠が溜息をついている。
「看護師さんは大変だって知っていたつもりですけど、これを見ると到底、私に
はできそうもないです。薬だけじゃなくて患者さんのいろいろなケアをしなくて

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第四話　サイフォニング

はいけないんでしょう？」
「そうよ。私は十年、二十年と時間をかけて身につければ良かったんだけれど、
今の若い看護師さんは学校を出て、二、三年でこれを間違えずにやれって急かさ
れるわけ。可哀そうだわ」
　嘆いていてもしょうがない。とにかく検討始めた。
　朝から昼ごろにかけてのルーチンの仕事はとくに問題なさそうだ。いつものと
おりでなかったのは白井さんを担当している西脇看護師が、別の患者の与薬リス
トの薬に足りないものを見つけたことだと永井さんが教えてくれた。
「それは西脇さんのヒットね。彼女が量の少なすぎる薬に気付いて疑義紹介を薬
局にしてくれたおかげで、間抜けな医師の入力ミスが分かったんだから」
　副看護師長の話を聞いて高遠が感心した。
「西脇さん、偉いです。私なんか間違えてばかりで、いつもみんなに援たすけられて
います。それから朝の食事や与薬がすんでから抗癌剤の点滴の準備をするんです
ね」
「そうだわね、朝食が済んで、食後に必要な与薬をして、そのあとの九時から白
井さんの抗癌剤の予備点滴の開始ね。吐き気止めの薬やら、生食の点滴を始める

　
　　
の。それと ５-ＦＵ の交換が十一時にあるわ。それで午後の一時になったらシス
プラチンの点滴を始めるという手筈なの。だから化学療法の患者が入院すると病
棟の看護師はてんてこ舞いというわけよ」　
「お昼ごろにリザーバーの留めなおしをしていますね。これはどういうことをし
たんですか？」
　このことはメモには簡単に記載してあるだけだ。
「それは研修医の青田先生から聞いたんだけど、実はまだ西脇さんの話を聞けて
いないわ。青田先生の話では、点滴のリザーバーが緩んでいるから留めなおして
欲しいって連絡がきて、院長と一緒に病棟に駆けつけたって言っていたわ。院長
がやって見ろというので、彼が留め直ししたのよ。ほんの十分ぐらいで済んだら
しいわ」
「でも、永井さん、このときはもう ５-ＦＵ の点滴が始まっていますよね。緩ん
だままで大丈夫だったんですか？」
　高遠が疑問を口にした。
「リザーバーって皮下に埋め込むから、それが緩むことはあるんだけど、完全に
外れるわけでもないし、点滴が出来なくなるわけでもないわ。細かいことは西脇

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第四話　サイフォニング

さんに聞かないと分からないわね」
　当然ながら調査するからには関係者の話を聞き取るのは必須だ。高遠がすっか
り探偵モードになっている。
「これは是非、西脇さんにはやく元気になってもらって、彼女の話を聞くことに
しましょう」
　次にメモにまとめてあるのは患者がショックに陥った後の対応のことだ。永井
さんからの聞き取りは探偵モードになっている高遠紀和子に任せる事にした。
「スタッフステーションのアラームが鳴ったのが事故に気付くきっかけだったんで
すね」
「そうよ。脈拍と血圧をモニターしていて、頻脈になったり、血圧が下がるとア
ラームが鳴るようになっているの。アラームに気づいた西脇さんが急いで病室に
見に行ったら、白井さんの様子がおかしいので病棟看護師長を呼んだのよ。直ぐ
に二人で主治医の院長と研修医の青田先生に連絡したの」
「それが二時ごろですね」
「正確には十三時五十五分ね。モニターの記録を確認したわ」
　高遠がさらに尋ねた。

　
　　
「院長先生は直ぐに来たんですか？」
「病棟師長の話では数分後ね。その間に西脇さんに救命セットの準備をさせたの。
師長の話では青田先生が先に現れて、院長はその少し後に来たと言っているわ。
私もちょうどそのときに駆けつけたのよ」
「患者さんを見た院長はどう判断したんですか？」
「病棟師長の話では、院長はこれはショック症状だと言って、とにかく抗癌剤の
点滴は両方とも停止して、生食せいしよく とアドレナリンの注射をしなくちゃと言って、
西脇さんが用意した生食を点滴し始めたのよ。そのとき、院長が慌てて、クラン
プをかけずに点滴を止めようとしたから、それに気付いた病棟師長がクランプを
かけて、両方のポンプを止めたの」
　メモには抗癌剤の点滴を生食に切り替えたあと、アドレナリンのワンショット
注射をしたと記してある。
「そのとき、研修医がシリンジポンプが空になっているのに気付いて、院長にそ
のことを伝えているの。院長もそれを確認して、『ポンプの故障か』って口にし
ているわ」
「そのあとに院長が内科部長を呼んでいますね。これはどうしてですか？」

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第四話　サイフォニング

　高遠が尋ねると永井さんが溜息を漏らした。
「それはね、院長はもともと外科医だから抗癌剤の使い方は勉強しているけど、
やはり少し不安だったらしいのよ。それで手抜かりがないか確認してもらったん
だと思う。まあ、誠実な対応ではあるわね。内科部長はシスプラチンの影響があ
るかもしれないからって利尿剤を追加したけど、ショックに対する処置はとくに
問題ないって言っていたわ」
「あの、基本的なことなんですけど」
　と高遠が聞き取りを続けた。
「白井さんの抗癌剤は５-ＦＵ とシスプラチンと聞きましたけど、どういうルー
トで点滴したんですか」
「うちは食道癌には主にその二剤の低用量化学療法でやっているのよ。白井さん
は５-ＦＵを点滴バッグから、シスプラチンは側管からね。５-ＦＵは２００ミリ
グラムを生食に混ぜて輸液ポンプを使って点滴していたわ。シスプラチンの方は
５ミリグラムを５０ミリリットルのシリンジポンプを使って４時間かけて投与ね。
５-ＦＵ の交換は午前中に済ませて、シスプラチンの投与は午後一番にすること
にしているわ」

　
　　
　高遠は副看護師長の話に頷いている。
「５-ＦＵの持続点滴というと、文字通り夜も点滴しているんですか？」
「ええ、そうよ。うちのレジメンでは５投２休だから月曜日から５日間、文字通
り連続して点滴ね。途中で点滴バッグを交換しながら夜中も点滴なのよ」
「この患者さん、化学療法は今回が初めてですね。何週目ですか」
「ええ、第一クールの三週目だから、前とその前の週に同じ事を問題なくやって
るわ」

　永井さんはしばらく黙って料理に箸を伸ばし、カップに残っていたビールを空
けた。俺が空いたカップにビールを注ぐと、有りがとう、と受け取ってそれを豪
快に飲んだ。それから事故のことではなく、やおら事務長の乱暴な聞き取りの顛
末を話し始めた。永井さんにとってはそちらの方が余ほど気にかかっている様子
だ。
「それなのに、杉田事務長は何も分からないくせに西脇さんを呼び出して、何か
間違いをしたろうって決め付けて責めたのよ。まずは薬剤を間違えたんじゃない
かって。薬は薬局が確認しているわ。そんなことはないって分かっているのよ。

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第四話　サイフォニング

その次はシリンジを間違えて押したんだろうって。ポンプに接続してあるから押
す必要なんかないわ。西脇さんは、そんなことはないって、いくら言っても聞き
入れてらえなかったって、泣いて戻ってきて、それで事務長が勝手に看護師に聞
き取り調査をしているって気がついたのよ。可愛そうに。私がもっと早く気がつ
くべきだった。彼女はうまくケアしないと立ち直れないわ」
　高遠が静かになってしまった。聞き取りは一休みのようだから、俺もやり取り
に参加することにした。
「看護師を一人前にするのにどれだけの努力をしているか知らないんだろう」
「知らないわけはないんです。もう病院に何十年も勤めているんですから。そう
ではなくて、給料が上がる前にやめてくれたほうが好都合だって思っているに違
いないんです。どっちにしろ、事務長に直ぐに馬鹿な聞き取りをやめるように怒
鳴り込んだのよ。さすがに私の剣幕に驚いて、院長のところに一緒に行って押し
問答したんです。事務長は看護師をひとり辞めさせれば済む問題だってひどいこ
とを言うし、私はもし彼女をやめさせるなら私も一緒に辞めるって脅したら、院
長もやっと事務長が聞き取りするのをやめさてくれたのよ。聞き取りは私と庶務
係長がやることになったんです」

　
　　
「凄いです。永井さん、勇気があります」
　確かにこの人は酒に強いだけではなさそうだ。高遠はすっかり副看護師長を尊
敬して、探偵モードに戻って聞きとりを再開した。
「院長が駆けつけた時、５-ＦＵ とシスプラチンは残っていたんですか？　石田
先生には簡単に聞いていますけど」
「連絡が入って私も直ぐに駆けつけたけれど、直ぐには気がつかなかったわね。
とてもそれどころじゃなかったんだから。院長が生食の点滴をはじめるときに外
した ５-ＦＵ が残っているのは後から気がついたわ。そのときはシスプラチンの
ことは残念ながら考えもしなかった。それから院長に呼ばれた内科部長が生食の
点滴とアドレナリンだけじゃなくて利尿剤も打って、少し落ち着いたところで患
者を個室に移したの。そのときに院長は ５-ＦＵ は残っていて、シスプラチンの
注射筒は空だと部長に言っていたわ。西脇さんもよく覚えていないって言ってい
たけれど、彼女に話を聞いたのは事務長にいじめられてすっかり怯えてしまった
後だから、あまり当てにはならないわね」
　永井さんが話を切ると高遠が話を引き取った。
「大変だったんですね。でも何とか持ちこたえたんでしょう？　良かったです」

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第四話　サイフォニング

　永井さんがにこりとした。
「何とかね。それで一段落したところで思い出したのよ。出来るだけ早く記録を
取って、写真を撮っておこうって」
「そのとき永井さんも確かめたんですね」
「そうよ。白井さんのいた部屋に戻って、とりあえず私物を個室に移すついでに
見たのよ。そしたらシスプラチンのシリンジが空になっていたわ。５-ＦＵ はま
だたっぷり残ったままというわけ。それから写真を何枚も撮ったの」

　どうやらこれで永井さんの話は終わりのようだった。いくつかその後の経過も
話してくれたが、それは石田が院長から聞いてきたのと同じだった。一息ついた
永井さんが意識を料理に戻した。ちょうど煮魚が出て来たところで、あいなめの
煮つけだった。味も素晴らしい。本格的な日本料理屋と遜色ない。違うのはさす
がに部屋は小さいし、窓の外に庭が見えるわけでもない。
　料理もそろそろ終わりになって、永井さんが怪しげな目つきになって言った。
「今度という今度は全面戦争なの。私が辞めるか、事務長がやめるかどちらかし
かないわ」

　
　　
　高遠がはっとして料理をつまもうとした箸を下ろし、永井さんを見つめた。
「永井さん、辞めないでください。永井さんが辞めたらきっと患者さんや他の看
護師さんが困ります。それに、永井さん、お母さんと二人なんでしょう？」
　高遠は何を根拠にそんな事を言っているのだ？　石田は永井さんが大学病院に
いたことがあるとは言っただけのはずだ。
　今まで厳しい顔つきだった永井さんが驚いた顔をして、それから優しい笑みを
浮べた。
「有難う、高遠さん。でも大丈夫よ。私くらいの経験の看護師なら仕事はいくら
でもあるわ。だから強気になれるの。今までも事務長とは何回も衝突したわ。事
務長は倹約一点張り。儲けは病院の拡大のためというのはまだいいとして、ファ
ミリー企業に溜め込んでいるのよ」
　高遠は理解できないようだから解説してやった。
「薬剤や医療機器をファミリー企業が仕入れてそれを病院に納入して、病院は赤
字すれすれ、儲もうけはそっちのファミリー企業に吸い上げられるというふうにして
いるんだろう。よくあるパターンだ」
「そのとおりよ。ファミリー企業を作ることを考えたのも事務長だというし、役

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第四話　サイフォニング

員も兼ねているのよ。前の院長にも随分言ったわ。私の言い分は分かる、俺もま
もなく引退だからそのとき一緒に事務長にもやめて貰って、二代目に引き継いだ
らもっと近代的な経営をしてもらうからって言っていたわ。それなのに、先に一
人で逝いっちゃった。それに大丈夫、私には結婚して立派になった弟が居るわ。す
ぐ近くに住んでいるから、お嫁さんが年中、姪っ子や甥っ子を連れて遊びに来て、
私の母親は休まる暇がないって嬉しそうにこぼしているのよ」　
　永井さんの話を聞いて高遠がほっとしている。

　最後に永井さんはハンドバッグからＵＳＢメモリーを取り出して俺に手渡して
くれた。
「これに事故の後の白井さんのベッドの周りの写真と、うちでやっている抗癌剤
治療のプロトコルが入っています。写真を撮ったのは少し時間が経ってからです
から、残念ながら事故直後のは写っていませんど。個室に移って点滴をしている
ときと、その後にもとの部屋に置いていった輸液バッグとシリンジポンプの写真
です。あまり意味がないかもしれないですけど、とにかく撮っておいたんです。
写真には簡単な説明をつけておきました」

　
　　

　３　ＵＳＢメモリー

　渡されたＵＳＢメモリーは高遠が持って帰った。受け取った途端に俺の手の中
のメモリーを見つめて、見たくてたまらないという顔をしたのだ。それならその
晩、それを調べて何か考えてくれるだろうと期待したのだ。
　翌日の金曜日、期待通りに寝不足の顔をした高遠が朝一番で俺の部屋に現れた。
「化学療法の点滴って随分ややこしいですけど、夕べ永井さんに聞いた話とこの
ファイルの写真では問題があるようには見えませんでした。でも一つか二つ、分
かったことがあります。コピーは取ってありますから、先生に元のを渡します。
ネットで正しい点滴のつなぎ方の記事も見ました。それをダウンロードしたファ
イルも入っています」
　よく働く奴だ。大いに結構だが、いくら若くてもやはり睡眠不足は隠せない。
「よし、それじゃ暇を作って見ておこう。それにコピーを宮崎にも渡して置こう。
そうしておけば、夕方に三人で一緒に調べられるだろう」

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第四話　サイフォニング

「あ、それは大丈夫です。宮崎先生にはもうコピーを渡してあります」
　紀和子は妙に手回しがいい。
「その寝不足顔を宮崎に見せてしまったのか。なにも言われなかったのか？」
「ああ、酷い、先生。彼は神城先生と違って紳士ですから、何も言いません」
　そう言って紀和子は俺に向かって顔をしかめて見せながら、ため息をついた。
「でも宮崎先生、今晩は横浜のホテルで研究会があるし、週末は伊豆半島のどこ
かにある病院で日当直です。帰りがけに虫を追い回してくるみたいです」
　へえ、宮崎の週末の予定を随分細かいことまで知っているじゃないか。
「何だ、それじゃこの週末は伊豆で楽しい採集三昧か。事故調査にはほとんど役
に立ちそうもないな」
　俺が言うと高遠はそんなことはないと、今度は宮崎をかばう。
「そうでもないみたいです、先生。日当直の病院は遠いところなので３人で順番
に行ってるんです。先輩から押し付けられて半年の約束で引き受けたって言って
ました。はじめはいやいやだったのが、その病院の近くにいい採集スポットを見
つけたから出かけるのが楽しくなったって言っています。秋になって採集出来な
くなる頃にはそこに行かなくなるので助かったって言ってました。ＵＳＢのファ

　
　　
イルは当直しながらゆっくり調べてくれるって言ってます」
「そうか、それならしょうがない。宮崎はいいことにして、とにかく今晩中に写
真を調べよう。夕飯は俺が奢るよ」
　途端に高遠が目を輝かせた。
「本当ですか？　それなら今度こそ鉄板焼きに行きましょう。この前のリベンジ
です」
「横浜の駅ビルの店か？　いいぞ、俺はどこでも。この机の上のコンピューター
とモニターを紀和子が持って、店に電気を使わせてくれると了解をとってくれる
のならね」
　紀和子が机の上のデスクトップを見た。
「あーあ、先生、貧乏臭いです。ノートパソコンくらい持っていなんですか」
　別に金がなくて持たないわけじゃない、というか俺も持っている。ただ、あん
なのを持ち歩いているとどこでも仕事が出来るじゃないか。仕事場を離れたら仕
事をしないに限る。

　高遠紀和子が戻って行ったあと自分の小部屋でＵＳＢ内の点滴の手技を解説し

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第四話　サイフォニング

たファイルを開いてみた。俺が医学生の頃、点滴はクレンメを使って文字通り滴
下する量を調節するだけだったから、簡単なものだった。今では点滴量を厳密に
コントロール出来るように輸液ポンプが開発されているし、少量の薬剤を患者に
投与する場合にはシリンジポンプが使われている。このポンプは正確にゆっくり
と移動するスライダーが注射器の内筒を押し込む仕掛けになっていて、大概は側
管から薬剤を数十分かけて送り込む場合に使う。抗癌剤などを注入するときには
これを使うのが普通だ。
　紀和子がインターネットからダウンロードしたファイルには癌の化学療法、つ
まり抗癌剤治療をする場合の薬剤と点滴のルートの解説も入っていた。白井さん
の治療に用いた ５-ＦＵ とシスプラチンはよく使われるプロトコルで、それを輸
液のルートのどこにセットするのかも説明してある。
　永井さんが用意してくれた写真も見たかったが午前中のうちに標本を見ておか
ないと、午後に宮崎の標本をダブルチェックをする時間がなくなる。ファイルを
見るのは諦めて、午前中は仕事に意識を集中した。
　午後には宮崎の見た標本のダブルチェックをして一段落したところで宮崎が聞
いてきた。

　
　　
「夕べの松山病院の永井さんの話しはどうでしたか。なにか新しいことはありま
したか」
「何だ、どうせ紀和子に聞いて知っているんだろう」
　宮崎が苦笑した。
「先生にかかるとかなわないですね。仕事が溜まり気味なんで、朝、早く病院に
来たんですけど紀和子さんが直ぐに現れました。僕にＵＳＢを渡してくれて、や
はり少し寝るって言って戻っていってしまって、話をするチャンスはなかったで
す。はいこれって渡してくれただけです。相変わらず嫌われています」
　あまりそうは見えないのだが、まあ、いい。夕べの永井副看護師長から聞いた
話をざっと伝えた。

　五月の連休を過ぎて日が長くなってきていたから、終業時刻を過ぎてもまだ窓
の外は明るい。そろそろ来る頃かなと思っていたら、期待していたより少し遅れ
て長身の私服姿の女が俺の小部屋に現れた。振り返ってみると見慣れた白衣姿で
はなく着替えの済んだ紀和子だった。その後ろには宮崎がくっついている。
「何だ紀和子、もう着替えているのか」

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第四話　サイフォニング

「だって、あの白衣、袖丈もズボン丈も短かくて格好悪いです」
　今までそんなこと気にしているようには見えなかったはずだが、と思って口を
開こうとしたら先手を取られた。
「あ、先生、言わなくてもいいです。どうせ白衣が短いんじゃなくて私の手が長
いんでしょう」
　最近は俺の手口を見透かされてしまって、先を越されることが多い。
「それに、宮崎先生は研究会に遅れて行くそうです」
　後ろから宮崎も付け加えた。
「病理標本を見るのに時間がかかってなかなか病院を出られなかったことにして
おきます。こっちのほうが面白そうなんで」
「それじゃ、直ぐに終わるからこれを見終わるまで待っていてくれ。それまでに
夕飯の出前を頼んでおいてくれ」
　高遠紀和子がわざとらしくにこりとした。
「先生、この出前じゃごまかされませんよ。ご馳走、忘れないで下さいね。まだ
ちゃんと覚えていますから。今晩はとにかく何か適当なものを三人前、頼んでお
きますね」

　
　　
　まったく紀和子も食い物の事を執念深くよく覚えている。
　俺が標本を見終わって、カンファランス室に向うとなにやら騒がしい。高遠と
宮崎のほかに何人かの技師が残っていて、中にいた友永さんが騒ぎの原因を教え
てくれた。
「先生、この間の附属病院の事故、覚えている？」
「ああ、患者を間違えて点滴したって話か」
「そうよ。あの事故は結局、経験の浅い看護師が先輩看護師にいつもいつも急か
されていて、うろたえて間違えたんだって。院長と担当医と総看護師長が今日の
午後、記者会見で頭下げたのよ。これから正式な事故調査をして報告することに
なったみたい」
　その話でカンファランス室は騒いでいたのか。間違えて点滴をしていいわけも
ないが、これだけ医療が複雑になってくると、直接患者に対応して薬を投与する
看護師にはますます負担がかかってくる。本当の対策なんて簡単なのだ。ちゃん
と人手を増やし、チェックをゆっくりと確認出来る余裕を取れるようにすればい
いだけだ。

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第四話　サイフォニング

　大学病院の事故の経過を友永さんから聞いているうちに頼んだ出前が届いた。
夕飯を終えると俺達三人はカンファランス室のコンピューターの前に移った。高
遠紀和子がＵＳＢメモリーを差し込んでコンピューターを操作し、俺と宮崎はそ
の後ろからモニターを覗き込んだ。
　写真は二十枚ほどあった。コンパクトカメラで撮影したのだろう。自動焦点の
はずだが、カメラに慣れていないのか何枚かの写真はあらぬところに焦点が合っ
ている。説明をつけてあると言っていたが、実際には何もついていないのがいく
つもあった。
　最初の何枚かは患者に装着された点滴の様子だった。スタンドのハンガーに輸
液バッグがつるしてあり、そこからチューブが伸びて輸液ポンプにつながってい
る。その先にぶら下っているのは三方コックとクレンメだ。輸液ポンプの反対側
にはスタンドの支柱を挟んでクランプが固定してあって、そこにセットされたシ
リンンジポンプは半分ほど隠れている。
「これは応急処置が済んだ時の写真だと説明がついています。そこに写っている
輸液ポンプは事故の時に使っていたものを応急処置に使ったと書いてあります。
反対側に写っているシリンジポンプは応急処置のときは使わず、注射器が外して

　
　　
あります」
　その次の数枚には投げ出された点滴バッグと５０ミリリットルのプラスチック
の注射筒がサイドテーブルの上にあり、その傍に輸液チューブとシリンジポンプ
が焦点から外れて写っていた。
「あ、これは患者さんが個室に移るときに不要なものをはずしたものだと書かれ
ています」
　コンピューターを操作しながら紀和子が写真についた説明を読んでくれた。次
のファイルを開くと、注射器と輸液バッグの大写しだった。注射器にはシスプラ
チンというシールが張ってあるが押し子が最後まで押し込まれ、中は空だった。
生理食塩水の輸液バッグには ５-ＦＵという略号と正式な名称が書かれてたシー
ルが貼ってあり、こちらは大半が残ったままだ。
「この残っている量で事故の起きた時刻が分かります」
　昨夜、写真を見ながら気がついたという。確かに点滴する速度がセットしたと
おりなら、残った量から逆算すればスタートから輸液を止めたまでの時間は分か
る。水時計みたいなものだ。
「それより紀和子さん、事故の起きた時刻は監視モニターの記録で分かりますか

60

61

第四話　サイフォニング

ら、残っている量から輸液ポンプが設定どおりに動いたか分かリますよ」
　指摘されて紀和子が振り向き、宮崎の顔をまじまじと見た。
「凄い、宮崎先生。先生の言うとおりです。そっちのほうが大事です。輸液がそ
のまま残してあればいいですけど」
　ファイルをめくると次はシリンジポンプが撮影されていたが、ポンプの上には
輸液チューブが投げ出されたように載っていて、それが邪魔をしてポンプのスラ
イダーを隠している。
　写真ファイルの最後の数枚は個室で撮影されたようだ。スタンドに吊り下げら
れた点滴バッグとそれに繋がった輸液ポンプが写っていた。輸液ポンプのほかに
シリンジポンプからも輸液チューブが伸びて三方コックを通じて生理食塩水のル
ートと合流している。シリンジポンプの台は膝の高さになっていた。
「これは個室に移った患者に、必要になったシリンジポンプをセットしたときの
ものですね」
「ポンプは両方とも事故のとき使っていたものだろうが、一応、確認の必要があ
るな」


　
　　
　俺たちと一緒に写真を見ていた宮崎が黙ってすっと立ち上がった。研究会に出
かける気らしい。
「どうだ？　今までので何か分かったか？」
「いやあ、わかるのはどうやら ５-ＦＵ は問題ないようだということと何かの理
由でシリンジの内筒が最後まで押しこまれて、シスプラチンが全部投与されたこ
とぐらいです。先生はどうですか」
「同じだよ。こういう状況下で何が起こったか、俺たちも調べるから宮崎先生も
週末に情報を集めて考えてくれ」
　俺の要請を喜んでやりますと請けあって、宮崎は出かける前に紀和子を振リか
えった。
「紀和子さん、すみません。出かけてきます」
　紀和子は、と見るとどうでもよさそうな顔をしていたがそれでも挨拶を返した。
「行ってらっしゃい。先生がどこかで虫を追いまわしている週末の間に解決してお
きますから」
　まあ、これではまともな挨拶かどうか分からないが。
　宮崎が出て行くと、残っていたそのほかの技師たちも帰っていき、カンファラ

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第四話　サイフォニング

ンス室には二人だけになった。
「昨日の永井さんの話とこの写真で分かるのはシスプラチンは空になっているこ
とと、患者は一時的にショックに陥っているということだ。当事者の証言もある
からシスプラチンが急速に投与されたことは確実だろう。もっと調べる必要のあ
るところをいくつか上げておこう」
「じゃあ、もう一度整理して見ましょう」
　紀和子はそう言ってテーブルの上にメモに使っているノートを広げた。
　永井さんの話では事故の日以前は白井さんの抗癌薬治療は順調だった。シスプ
ラチン投与のため、あらかじめ輸液をして尿を沢山出るようにしなくてはならな
いが、それもきちんと行われている。第二週目は何事もなかったし、第三週の初
日も問題はない。
「事故のおきた当日も午前中は問題ないですよね。西脇さんはルーチンの仕事の
後に白井さんの抗癌剤点滴を始めていますけど、とくに問題があるようには見え
ませんね」
「そうだな、昼前に ５-ＦＵの点滴バッグが新しいものに換えられ、それまで使
っていた輸液ポンプが同じようにセットされている。午後一番でシスプラチンの

　
　　
投与も始まっている。ここまではプロトコルどおりだな」
「そのあと、リザーバーが留め直されていますけど、これは永井さんの話では担
当した西脇看護師の話をまだ聞けていないということでしたよね」
「そうだな、これはきちんと聞き取りをしないとな」
　話しながら紀和子はノートに何か書き込んでいる。
「これは要精査ようせいさの一つですね。それから」
　と話を続けた。
「事故後の写真では注射器の中身が空ですから、確かにシスプラチンが一気に白
井さんに注入されています。これはまずはポンプが正しく動いていたかどうか調
べる必要がありますね」
　言うとおりだ。
「永井さんに連絡して二つのポンプを確保してもらいましょう」
　そういうと高遠紀和子は技師検鏡室の自分の机に戻っていった。いったいいつ
の間に永井さんの携帯電話の番号を聞いたんだ。以前にも似たようなことがあっ
たが俺には出来ない早業だ。しばらくすると紀和子は携帯を耳に当てながら戻っ
てきた。それじゃお願いしますと言って携帯電話を閉じて、テーブルに置いた。

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第四話　サイフォニング

「大丈夫です。永井さんは証拠品を全部押さえています。輸液バッグに残ってい
た量も８００ミリリットルだと把握しています。ポンプは二つとも今は別なのに
取り替えて、事故のときのは確保して二つとも手術室のＭＥさんにチェックして
貰っているそうです」
「それは手回しがいいな。ポンプの機械的チェックはそれでいいとして、事故の
とき実際におかしな動作をしていなかった事は別な方法で確認したいな」
「それじゃ、まず輸液ポンプを宮崎先生の言っていた方法で調べてみましょう。
輸液バッグに残っている量と事故の起きた時刻からセットどおりに流れているか
計算してみます」
　そう言ってなにやらぶつぶつ言いながらノートで計算を始めた。 ５-ＦＵは午
前十一時に１０００ミリリットルで点滴を始めていて、大体三時間経った事故の
時に残っていた輸液の量は８００ミリリットルだから、セットしてから事故が起
こるまでの三時間に２００ミリリットル流れている。途中でリザーバーの縫いつ
け直しの作業があったからそれを差し引いて正味１６０分の間に流れたことにな
る。これは一時間当たりほぼ８０ミリリットルになるという結論を出した。
　セットした流量のとおりだ。

　
　　
「問題ないですね。セットしたとおりの量が流れています」

「それじゃ次は問題のシリンジポンプだ」
　シスプラチンが急速に流れ込んでいるから、こちらが本命だ。しかし、肝心の
シリンジポンプのほうはなかなか分からなかった。
「事故があったときの状況はどうだったのか誰かが確認してあればいいんだが、
この前の永井さん話の中に、そのところの事を言っていたか覚えているか？」
「えーと、注射筒の中は空だという話はありました。そのとき院長がポンプの故
障だろうと言ったと永井さんが言っていました」
　事故直後の写真が残っていて、シリンジポンプのスライダーが注射器の内筒を
最後まで押し込んでいることがわかれば、ポンプの故障か設定速度のミスだと分
かる。
「もう一度写真を見てみましょう」
　俺たちはもう一度モニターに映し出されてる写真を元に戻した。
「最初にシリンジポンプが写っているのは事故のあった部屋の写真か。これはシ
リンジポンプが点滴のルートからはずされている奴だ。残念ながら肝心かんじんのポンプ

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第四話　サイフォニング

が輸液ポンプとスタンドの柱で隠れているな」
「ほんとですね、残念」
「それじゃ、サイドテーブルの上の写真はどうだ？」
　紀和子がコンピューターを操作してその写真を出した。
「ありました。ここにシリンジポンプの写真があります」
　それはスタンドから外されてサイドテーブルの上に置いてあるポンプの上に、
チューブが乱雑に載せられている写真だった。チューブで隠されているが、よく
みるとチューブの間にスライダーの一部が写っている。
「あれ、これは変だな。ポンプのスライダーが一番手前に戻っている。これだと
全然動いていない状態だぞ」
「ポンプが動いていないんですか？」
　動いていないならポンプの故障だ。高遠が色めき立った。
「まてまてこれでは話が逆だ。これじゃたとえポンプの故障だとしても、スライ
ダーは注射器の内筒を押し込めないよ」
　高遠が問題の写真をもう一度見直した。
「ああ、そうですね。これじゃ幽霊が注射器を押したことになってしまいます」

　
　　
　幽霊？　幽霊が出てくるとは高遠も大友さんに影響されたか。
「幽霊説はだめだ。それは大友さんに任せておこう。これは何か合理的な説明が
出来るはずだ」
「そうですね、幽霊説は一番最後にします。ああ、もしかしたら事故の後にこの
ポンプを使おうとして一度リセットしたのをここに置いたんじゃないですか」
　これはありそうな話だ。永井さんに確認してもらおう。どちらにしろこの写真
ではポンプの故障かどうか分からない。白井さんが個室に移ってからの写真にも
シリンジポンプが写っていたけれど、新たにワンショットでアドレナリンを注射
するためにセットされ直されているらしく、同じようにスライダーは一番手前の
状態だった。
「二枚の写真の片方はリセットされているし、もう一方は隠されて見えないか。
スライダーがどれだけ動いたのか分からないな」
「そうですね。でも、こちら写真は肝腎のスライダーヘッドと注射器をセットす
る部分がスタンドと輸液ポンプが邪魔で見えませんけど…」
　そう言いかけて口をつぐみ、高遠は眼鏡をぐいと押し上げて考え始めた。コン
ピューターの前で額を片手でさすっている。どうやら病院の女探偵の頭脳がフル

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第四話　サイフォニング

回転し始めたようだ。俺は黙っていることにした。

　テーブルの上においてあった携帯電話が突然鳴り出した。考え込んでいた高遠
が急に目が覚めたように周りを見回して、自分の携帯だと気づいて慌ててそれを
手にした。
　湘南松山病院の永井さんから、翌日の土曜日に西脇看護師と会わないかとの連
絡だった。もちろん願ってもないことだ。平塚の駅前の喫茶店で会う打ち合わせ
をして、その晩の調査会議はそれで終了となった。









　
　　

　４　西脇絵里

《紀和子の聞き取り調査》
　土曜日の午後、私は一人で平塚の駅に降り立った。七月の七夕祭りで有名なこ
の町も今はまだ普通の湘南の町に過ぎない。駅前にはデパートやショッピングモ
ールがあり、明るい五月の日差しが降り注いでいる。今日は神城先生と一緒に調
査に来る予定だったのに、夕べ遅くに電話があって家族サービスの予定を忘れて
いたと言って、西脇看護師の話を聞くという役回りを私に押し付けてきた。
「病院の女探偵が、一人では調査出来ないというのは具合悪いだろう」
　というのがそのときの神城先生の台詞せりふで、結局、言いくるめられてしまった。
　今日は明るい砂色のスラックスと春らしい軽い色の上着を着ていた。いつもと
違う自由なスタイルは病理部の人たちにもほとんど見せたことはない。こういう
私服姿もちょっと誰かに見てもらいたい気がしないでもない。
　と思ったところで大口を開けて笑う宮崎侑の顔が浮かんだ。この四月以来、何

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第四話　サイフォニング

かの拍子に宮崎侑の顔が浮かぶけれど、いつも大口を開けて笑う姿ばかりだ。宮
崎侑、もう少しまともな顔で現れて欲しい。

　永井さんに指定された店は駅前商店街のはずれにあった。ネットで調べたとお
り山小屋風の洒落たつくりの店だ。玄関の扉を押すと店に相応しくチロリンと可
愛いベルの音がした。
　店は人気があるらしくかなりの客が入っている。壁際のテーブルに木曜日に会
ったばかりの永井さんともう一人の若い女性が待っていた。
　こちらに向って手を軽く振って永井さんが迎えてくれた。
「こっちよ、高遠さん。ちょうど良かったわ。今、私たちも注文したところだか
ら」
　永井さんが隣の若い女性を紹介してくれた。たぶん私とあまりかわらない歳だ
ろうが、しっかりと挨拶をしてきた。
「あの、有難うございます。今度の事故の事をいろいろ調べてくれているって伺
いました。西脇絵里です。よろしくお願いします」
　数日前に永井さんと会って聞いた話ではすっかり怯えているということだった

　
　　
が、この様子では結構元気なようだ。永井さんがいろいろとケアをしてやっと元
気が出てきたのだろう。私はスパゲッティとコーヒーのセットを注文した。
「いま、西脇さんと話していたんだけど、ここで話をするより、いっそ、事故の
あった病室を見てもらおうということになったのよ。どう？　事故のときに使っ
ていた点滴スタンドや輸液ポンプ、シリンジポンプもほかの事に使わないように
みんなあの部屋に集めてあるからちょうどいいと思うんだけど」
　そう言って永井さんはクラブハウスサンドを口に運んだ。病室を見ることにな
ることは考えていなかったが、実際に病室は見てみたい。今日、西脇さんに聞い
ておきたいことは夕べ神城先生と二人でメモを作ったし、聞くだけではなく実物
が見られるのに越したことはない。
「部屋が見られるんですか？　それなら、好都合だと思います。是非見てみたい
ですけど、いいんですか」
　永井さんがいたずらぽっく笑顔を見せた。
「大丈夫よ、病院は土曜日も開いているけど午前中だけだし、今日は院長も事務
長もいないわ。市の偉いさんと会っているのよ」

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第四話　サイフォニング

　永井さんの運転する軽自動車で病院に向った。聞きたいことがあったけれど、
運転中に話しかけるのは控えたほうがいいだろうと思っていたら、永井さんに見
透かされてしまった。
「高遠さん、あなたって分かりやすいわね。昨日、電話で訊かれたポンプのこと
なら、うちの病院のＭＥさんはどこも問題なさそうだけど、今日の朝一番に業者
にチェックを頼んだって言っていたわ。一週間以内に結果を出してくれる手筈に
なっているわ」
「そんな顔をしていました？　すみません。そうするとポンプの故障以外の原因
を考えなくてはなりませんね」
「そうね、でもうちの病院のＭＥさんのチェックだから確実とは言いがたいわ」
「もうひとつ教えて下さい。渡してもらった写真のうちに、終わりの方に個室で
セットしたシリンジポンプの写真がありました。あのポンプは事故のときに使っ
ていたものですか？」
　永井さんの答えは明瞭だった。最初は手でアドレナリンのワンショット注射を
したが、また必要になるかもしれないと、四人部屋に置いていったシリンジをポ
ンプを持ってきたものだという。

　
　　
「そのあとになって少し落ち着いたときに気がついて別なポンプに取り替えたの
よ。あのポンプは事故の証拠品だし、もしかしたら故障しているかもしれないと
思ったの」
「あの、そのシリンジポンプが元の四人部屋で撮影されていましたけど、事故の
後のままなんですか」
　一瞬考えてから永井さんが答えた。
「そうそう、それは忘れていたわね。四人部屋で撮ったシリンジポンプの写真は
事故の後に一度リセットしてからの写真だわ。白井さんにアドレナリンを注射す
るのに使おうとしてリセットしたんだけど。そのときは使わなかったのよ」
　予想通りだ。これで夕べ神城先生と作ったリストのうちポンプの問題は済んだ。
誰かがわざとシスプラチンの全量を一気に注入したシナリオは今は考えないこと
にしているから、残っているのは事故直後の状況の細かな様子とリザーバーの留
めなおしの様子を西脇さんに確認することだ。
　永井さんの運転は性格どおりで、病院には直ぐに着いた。案内されて私たちは
病院の緊急入り口から病院に入り、事故の起きた四階の病室に向かった。
　明るい清潔な四人部屋で、ベッドごとにサイドテーブルがあり、私物を入れる

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第四話　サイフォニング

小さなロッカーがしつらえてある。案内して来た永井さんが簡単に説明をしてく
れた。
「患者さんは廊下側のこの三番のベッドにいたのよ。あの事故の後はとりあえず
この部屋には誰も入院させていないわ。来週からはそうもいかないんだけど」
　四人部屋だが決して広くはない。ベッドの枕に近い部分にそのときの点滴用の
スタンドが置いてある。スタンドには輸液ポンプ本体とシリンジポンプをセット
するクランプがとりつけてあり、その上の方には点滴バッグを吊り下げるハンガ
ーが付いている。サイドテーブルには点滴バッグ、注射器とシリンジポンプ、そ
れに点滴用のチューブが置いてあった。
「患者さんは食道癌の再発だったんですね？」
　訊くと西脇絵里が頷いた。
「はい、そうです。手術は出来ないので化学療法ということで、こちらで引き受
けることになりました」
　ベッドとその周りの様子を見まわした。
「あまり広くないんですね。何か処置するときに、ぶつかりませんか」
「はい、点滴だけならいいんですけど、何か作業するときは狭いです。可能なら

　
　　
個室に移ってもらうんですが、今回はここで点滴しました」
　仕事に戻ったことが一番のリハビリのようだ。西脇絵里てきぱきと受け答えを
している。
「それでしたら西脇さん、そのときの様子を覚えている限り、出来るだけ詳しく
教えてください」
　私が頼むと西脇絵里が額にしわを寄せた。傍で永井副看護師長がにこにこと安
心させるように笑顔を見せて励はげましている。
「大丈夫よ、西脇さん。高遠さんが事務長をやっつけてくれるわよ。別に尋問さ
れてるわけじゃないんだし」
　永井さんの励ましに西脇看護師が頷いた。
「その日の午後二時ごろ、看護ステーションの白井さんのモニターのアラームが
鳴りました」
　事故を発見したときの事を西脇絵里が話しはじめた。
「それまでも時折、白井さんのモニターを見ていたんですが、とくに問題となる
ようなことはなかったです。モニターを見ると頻脈になっていて、血圧も低下し
ていたので、慌てて病室に行きました。白井さんを見ると顔色が悪く、冷や汗を

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第四話　サイフォニング

かいていました。『白井さん』って問いかけをすると、私のほうを見て気持ちが
悪いって訴えてきました。私は慌てて病棟看護師長の田村さんと青田先生に連絡
しました。直ぐに駆けつけてくれた田村さんが、院長にメディカルホンで連絡し
てくれました」
　一息ついた西脇さんに代わって副看護師長が付加えた。
「西脇さんは立派よ。何はともあれ問題が起きたのを察知して直ぐにドクターに
も病棟師にも連絡したんだから。私は田村師長から連絡を受けたわ」
「それで、青田先生がまもなく病室に来ました。田村さんは私に救命セットの準
備をするように言って、青田先生に抗癌剤の点滴を止めましょうって言っていま
した。青田先生はなんだか良く分からないと言って、ぐずぐずしていたんですが
直ぐに院長先生が駆けつけてきて青田先生に注意していました」
　永井さんがうんざりして付け加えた。
「駄目なのよ、あれでも医者の資格があるっていうんだから。研修二年なんて甘
すぎるわね。五年か十年は必要ね」
「院長先生の指示で直ぐに抗癌薬は止めて、救命セットを用意してくれって言わ
れました。でもそれはもう用意してあったので、院長先生の指示で点滴を生理食

　
　　
塩水に変えました。院長は直ぐにアドレナリンの注射をして、ようやく白井さん
の血圧も上がり始めました。しばらくそれを観察していた院長が内科部長を呼ぶ
ように言われました」
　私は西脇看護師の話を聞いていたが、前日に神城先生にポンプを止めた時の様
子を聞いて欲しいと念を押されたのを思い出した。
「そのときの様子を詳しく教えて下さい。ポンプを止めたのはどなたですか？」
　西脇看護師が額にしわを寄せた。
「あの、すみません。分からないです」
　やり取りを聞いていた永井さんが代わりに答えた。
「ポンプは田村さんが止めたわ。輸液ポンプもシリンジポンプも田村さんです。
それは本人にもきいたし、院長と青田先生からも聴取したわ」
「あれ、この間、永井さんは院長先生が止めたって言っていませんでしたか？」
「あれはわしの勘違いね。院長が指示したのを実際に止めたと思い込んでいたの
よ。西脇さん、気にしないでいいわ。何から何まで気を使っているわけにはいか
ないわ。あんな状況の中なんだから」
　これは気配りが足りなかったようだ。

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第四話　サイフォニング

「ご免なさい。つい」
「あ、大丈夫です。知っていることは何でも話します」
　どうやら続けても大丈夫なようだ。
「５-ＦＵ の入っていた輸液バッグは写真にも写っていて、ちゃんと液が残って
いたのが分かるんですが、シリンジポンプが事故のときどうなっていたか知りた
いんです」
　西脇看護師が考え込んだ。
「直後がどうだったのかは分かりません。記憶にないです。でも、あ、待ってく
ださい。院長先生が青田先生を叱る前に輸液バッグとシリンジを見て、『シスプ
ラチンが空になっている、シスプラチンが全部入ったんだな』って言っていまし
た」
「そのとき、シリンジポンプがどうなっていたか分かりませんか？」
「えーと、院長先生に言われて見ましたが、シリンジが空になっていたのは確か
です。そのときは院長先生がポンプが故障したのかって呟いたので、私もそうだ
と思いました」
　残念なことに肝心なところを西脇さんは確認していない。私の素振りを見て、

　
　　
永井さんが直後の写真なら撮ってあるはずだという。
「高遠さんに渡したデジタル写真にあるはずよ。個室に移った白井さんに新しい
機器を用意することにして、それまで使っていた輸液バッグと注射筒、それにシ
リンジポンプは全部この部屋においていって、その写真を撮ったわ。それでさっ
き聞いてきたのね。そうだったわ。リセットしてしまっていたんだったわね。そ
こまで気が回らなかったわ。写真がちゃんと取れているかどうかだけは確認した
のよ」
　そうかやはりあの写真がそのときのものだったのだ。
「西脇さんにカテーテルの交換の時の話を聞きたいんですけれど、いいですか」
「カテーテルの交換じゃなくて、皮下に縫い付けてあったリザーバーが緩んでい
たので、縫い付けなおしね」
　永井さんが訂正してくれた。西脇看護師が話しをはじめた。
「緩んでいるのを見つけてくれたのは隣のベッドの患者さんを担当していた大井
さんです。昼食の下膳のときに大井さんが気づいてくれました。緩んでいるみた
いだって。それで私が見に行って、確認したので院長先生と青田先生に連絡した
んです」

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第四話　サイフォニング

　西脇さんはてきぱきと答えてくれるがそれでもやはり緊張しているのだろう。
ほっと息をついてから続きを話してくれた。
「院長先生と研修医の青田先生が白井さんのベッドのところに来て、皮膚の下に
留置していたリザーバーの様子を見ました。リザーバーが緩んでいるのを確認し
てそれを留めなおすことになりました」
　話を聞いていた永井さんが確認した。
「その時、点滴は誰が止めたの？」
「院長先生の指示で私が止めました。二つのポンプの一時中断のスイッチを押し
て、クレンメも閉めました」
　副看護師長が頷いたので、西脇看護師は話を続けた。
「もうそのときには縫い付け直しをするのに必要な道具を準備してありました。
簡単な作業だったので、院長が青田先生にやってみるように言いました。それで
青田先生が留め直しをしようとしたんですが、ちょうどそのとき部屋の奥のベッ
ドの患者さんの包帯を交換する必要があって、その患者を担当している水野さん
がカートを押してきました。それが通るのを待って青田先生が白井さんの点滴の
チューブを外して、患部を消毒して、皮膚麻酔もしてリザーバーを留め直しまし

　
　　
た」
　私は西脇看護師に話を頷きながら聞いていたが、神城先生から機材の位置やそ
れに触れたか、セットし直した時の事をよく聞いてくるようにと念を押されたの
を思い出した。
「その作業をしたとき、点滴のスタンドはこの位置だったんですか？」
　西脇看護師ではなく永井副看護師長が答えた。　
「点滴するときは大体、いつでもスタンドはその位置です。事故が起きた時の道
具を確保してこの部屋に集めたとき、できるだけ元の状態に置いたんです」
「そうだとすると、青田先生はスタンドの直ぐ前に来たことになって身体がぶつ
かるんじゃないですか？」
　私が聞くと永井さんが珍しく一瞬、戸惑いを見せたが、直ぐに西脇さんが答え
た。
「ああ、そうです。青田先生のお尻がぶつかるので、院長先生がサイドーテーブ
ルとスタンドを脇にのけさせ、シリンジポンプの台も位置を変えました。このへ
んです」
　西脇看護師はそう言いながら、サイドテーブルとスタンドを動かした位置を指

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第四話　サイフォニング

し示した。スタンドをその位置に動かしてもらうとサイドテーブルの前にスタン
ドが位置していた。この位置だと処置する医師と二つの機材で、隙間がない。こ
の狭い中で処置をしていたのか。
「処置の間、西脇さんはどこにいたんですか？」
「ベッドの白井さんを挟んで反対側にいて、縫合セットを出していました」
「じゃあ、実際にリザーバーを止めなおした時は西脇さんがベッドの反対側で院
長と青田先生に向かい合っていたんですね」
「そうです」
「院長と青田先生の処置はどのくらいの時間がかかったんですか？」
　質問を続けた。
「二十分はかからなかったと思います」
「それじゃ、その後、また点滴を再開したんですね」
「そうです。院長先生は戻っていき、青田先生がサイドテーブルとスタンドを元
の位置に戻して、スタンドはこの位置でいいだろうかって言いながら点滴を再開
しました」
「実際にクレンメを緩めて、ポンプのスイッチを入れたのは西脇さんですか？」

　
　　
「クレンメを緩めたのは青田先生です。輸液ポンプのスイッチを入れ、滴下速度
を確認して、それからシリンジポンプの再開スイッチはこれかなって私に聞いて
きて、スイッチを入れました」
　西脇看護師が説明してくれていることに問題なさそうだった。頭の中で状態を
再現してみても問題があるようには思えない。
「院長先生が部屋を出て、青田先生は患者さんと話をしながら様子を見ていまし
た。とくに問題がなさそうで、それじゃ点滴はこのままでと言って部屋を出まし
た」
「そのとき、シリンジポンプの流速のセット値はどうでした？」
「ポンプは一時中止になっていたので、クレンメをゆるめて再開ボタンを押した
だけです。流速は以前のままで、１２・５ミリです」
　永井さんが話を補ってくれた。
「それは１２・５ミリリットル・パー・アワーのことね」
　つまり一時間に１２・５ミリリットルの速度で注入されるようにセットされて
いたという。
　西脇さんの話はそれで終わったようだ。

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第四話　サイフォニング

　私たちはスタッフステーションに寄って、簡単に挨拶をして病院を出ることにな
った。土曜日の通常勤務は終わり、既に当直帯に入っていたので、少人数の看護
師が忙しくたち働いていた。副看護師長に気づくと誰もが明るく挨拶している。
西脇さんに気づいた看護師の一人が驚いて、良かったと復帰した西脇さんを歓迎
した。
「心配していたのよ。昨日から仕事に戻れたんですって？」
「ええ。おかげさまで」
　とても嬉しい光景だった。私は永井さんに声をかけた。
「仕事に戻るのが一番のリハビリみたいですね。良かったです」
「その通りね。私の素人心理療法なんて無駄ね。安心したわ」






　
　　

　５　三人寄れば

　土曜日の晩には予想通り紀和子から電話があり、西脇看護師の聞き取りの様子
を伝えてくれた。
「でも、向こうに着いたら病院に行って現場を見てくれって、いきなり言われた
んです」
「それでどうだった？　幽霊の足跡は見つかったか？」
「もう、先生は。幽霊の足跡なんか見つかるわけありません。それより西脇さん
の話では、リザーバーの留め直しもきちんといったし、その後の点滴の再開も問
題なかったと言っていました。それに矛盾することも見つかりませんでした」
　松山病院での調査の様子を伝えてくれる紀和子はどうも元気がないようだ。
「がっかりすることはないさ。ホームズ流に言えば一つ一つ可能性を潰つぶしていけ
ば残ったのが真実だ。それより、俺が訊きいておいて欲しいと言っておいたことは
ちゃんと訊いてくれたか」

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第四話　サイフォニング

　白井さんに使っていた二つのポンプは問題なさそうだけれど、チェックを既に
業者にを頼んであると教えてくれた。高遠はよくやった。これで大分細かいこと
もわかってきた。
「さっきも言ったけれど病院のＭＥさんのチェックで異常がないというなら、や
はり事故の時にポンプは正常な動きをしていたという確証が欲しいな。少しくら
いピンボケでもいいから、空になった注射器がセットされた状態のシリンジポン
プの写真があればよかったんだが」
「先生、それなら何とかなります」
　急に紀和子が元気になった。
「何かいい方法があるのか？」
「ええ、金曜の晩、先生と一緒に写真を見ていたときに思いついて考えていたん
ですけれど、永井さんから携帯に電話が掛かって来てすっかり忘れてしまったん
です。白井さんの応急措置が済んだ後の写真に、シリンジポンプが輸液ポンプに
半分隠れて写っていました。隠されていても、隠れた範囲にスライダーがあるか
ら、最大でどこまでスライダーの先端が進んでいたかわかるはずです。そこに注
射器をセットしてみれば、シリンジポンプのスライダーが注射器をちゃんと押し

　
　　
込んでいたかどうか分かります」
　なるほど、あの時高遠はこれを考えていたのか。もしスライダーが注射器の内
筒を最後まで押しこんでいる位置まで移動していれば、それはやはりポンプの異
常な動きで説明がつく。
「凄いな、紀和子。それをきのう松山病院で事故の時の機材を使って確かめて見
たか」
　高遠の声が急に小さくなった。
「ええーと、その、確かめていません。西脇さんの話を聞くのに気がとられてし
まって」
　俺は笑い出してしまった。賢いと感心したと思ったらこの様だ。高遠紀和子は
健在だ。
「紀和子、折角、昨日のうちに思いついたんだろう。俺に言い忘れるのはともか
く、今日は病院まで行ったんだからそれをチェックする絶好のチャンスだったの
に。頭のダブルコアＣＰＵは独立回路なのか」
「すみません。どうもそうみたいです」
「それでさっきから元気がなかったのか。まあ、いい。何よりシリンジポンプの

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第四話　サイフォニング

事故直後の状態を確かめる方法を思いついたんだ」
「よかった。今日の西脇さんの面談も無駄じゃないですよね」
「もちろんだ。これで随分、事故の状況も分かったし、月曜日になったら病院の
ＭＥ室の誰かに頼んで同じタイプのポンプを探して、それで紀和子のアイデアを
確かめよう」
「月曜日まで待つんですか？」
　紀和子はそんなに待っていられないというが、明日は日曜日だ。
「先生、そんなに 悠長ゆうちよう にしていると週末が終わってしまいます。明日、もう一
度、永井さんにお願いして……。ああ、ちょっと待ってください」
　そう言って一瞬、間を空けたあとがっかりした声で話をつづけた。
「駄目ですね。問題のポンプは業者に出してありますし、永井さんは明日は何処
か静岡の方に出張だって言っていました。看護師さんのリクルートだそうです」
「紀和子、やる気十分なのはいいが、何でそんなに焦っているんだ」
「だって先生、明日の夜には石田先生はオーストラリアから帰って来るんでしょ
う。それに週末でもないと松山病院には行けないです」
　確かに自分の病院の事件とは違って、仕事が終わってから調査をするというの

　
　　
も難しい。
「まあ、とにかく今晩はここまでにしよう。それに石田が戻ってくるまでに解決
しなくちゃならない義理もないぞ。あいつも少しは働かせたほうがいい」
　その晩はそれでようやく解放された。


　翌日の日曜日、昼近くになってようやく起き出して遅い朝食をとっていると、
パソコンの脇に置きっぱなしだった俺の携帯電話が鳴りはじめた。日曜日の昼前
に電話？　テーブルの向かいで俺の奥さんがいとも簡単に言ってくれた。
「これは紀和子さんね。なかなか微妙な時間ね」
　俺はまさかと言いつつ携帯を手に取った。あらぬ時刻に電話がかかってくるの
はえてしてよくない連絡のことが多い。とにかく耳に当てると昨日より一段と元
気のない紀和子の声が聞こえてきた。
「先生、何か分かりましたか？　私は夕べ、ほとんど寝ないでサクズしていまし
た」
　サクズだと？

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第四話　サイフォニング

「コンパスと定規を使う作図のことか？」
　テーブルの向かいの奥さんを見やると、いつもどおり、にこりとしただけだ。
「ええそうです。夕べはネットでシリンジポンプのカタログを探して、それ使っ
て写真と同じように見えるように置いたら、スライダーがどの位置にあればああ
なるか作図してみたんです」
　ピンボケの写真や、中央部分の見えない写真からスライダーの位置を割り出す
方法もよく思いついたものだが、作図でそれをやってみようというのか。
「おい紀和子、よくそんなことを思いつくな。それでどうだった？　うまくいか
なかったのか」
　わざわざ聞くまでもないか。うまくいっているなら元気一杯で電話をしてくる
だろう。電話の向こうでまた溜息が聞こえたが、どうもそれが途中であくびに変
わったようだ。
「おおい、紀和子、うら若いお嬢さんが携帯を片手に溜息とあくびなんか一緒に
するな。せめてどっちか片方にしろ」
　俺があきれて言うと、慌ててあくびを引っ込めたようだ。
「ご免なさい。夕べ遅かったんです。つい、先生だと気が緩んで」

　
　　
　まったく相変わらず俺を相手に気を使う必要はないと思っている。
「で、どうだったんだ」
「それが、隙間があいてしまいます」
　気合が抜けたときの高遠の話は興奮したときと同じで、要領を得ない。
「おいおい、どういう意味だ、隙間が開くって」
「だから、先生、シリンジポンプのスライダーと注射器の内筒の間です」
　スライダーと内筒の間に隙間？
「いろいろ試して見ましたけれど、でも同じタイプのポンプではどれでも駄目で
した」
「そんなところに隙間が開いたら、何が注射器の内筒を押したんだ？　作図は間
違いないのか？」
　電話の向こうでなにやら躊躇しているような雰囲気だ。
「あの、先生、今日の午後、時間、ありますか？」
　おっと、これは折角の休みがふいになりそうな気配だ。
「時間はないことはないが」
　あいまいに返事をしながら横目で見ると、俺の奥さんが相変わらずにこりとし

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第四話　サイフォニング

て、さりげなく言ってくれた。
「紀和子さんが会いたいって言うんなら私はいいわよ。しばらく振りに月餅もい
いわね」
　まったく高遠紀和子もちゃっかりしているが俺の奥さんも察しがいい上に抜け
目がない。紀和子の相手をしてやれと言っているのだ。これでは断れない。いっ
たいいつの間に俺の奥さんを篭絡ろうらくしたんだ。

　仲町台の駅前のカフェに紀和子が現れたのは約束の時間から小一時間ほど経っ
てからだった。手持ち無沙汰に店においてある女性向けのファッション雑誌を眺
めていたところに高遠が現れた。どう見ても手間取るようなお洒落はしていない。
　すみません、遅くなりましたと言いながら駆け込んできて席に着くと、肩から
下げていた布バッグから早速、紙の束を取り出してテーブルの上に置いた。見て
欲しいという。
　受け取った紙束を手にとって捲めくり始めるとその間に高遠がセットのケーキとコ
ーヒーを頼んでいる。俺が何枚かの図を見ていると、届いたケーキを食べること
に専念している。普段なら何をしながらでも頭の中の余計にあるコアでおしゃべ

　
　　
りを続けるのに今日は何か奇妙だ。
　まあいいさ、どうせそのうちわかるだろう。俺は何回も書き直したらしいシリ
ンジポンプの図を調べていった。ところどころにパソコンから印刷したらしいカ
タログのシリンジポンプの図が挟まっている。
　ケーキを食べ終わってコーヒーを飲んでいる高遠のバッグの中で携帯電話が鳴
った。高遠は必要以上に慌ててコーヒーカップを置き、携帯を手にとって耳に押
し当てている。
「もしもし、はいそうです。ええ、ええ、確認してみます」
　そう返事をしておいて携帯の話し口を押さえ、紀和子は俺の顔を覗き込んでき
た。
「神城先生、えーと、宮崎先生が意外と早く済んだから、こちらに合流したいと
言っています」
「宮崎？　あいつは今日、伊豆のどっかのみかん畑の中の病院で、日当直してい
るか虫を追いまわしているんじゃないのか」
「お昼までなんだそうです。そのあとカミキリムシの採集スポットに寄って帰っ
て来るつもりだったけれど、シリンジポンプのことで分かったことがあるので、

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第四話　サイフォニング

今日は仕事が済んだらそのまま帰ってくるそうです」
　なるほど、このカフェにいるのは俺とのデートのためじゃなかったのか。
「いいよ、もちろん。宮崎が来れば三人になるし、文殊もんじゆの知恵が湧いて出るかも
しれない。何か分かったのか？」
　高遠がもう一度携帯電話に向って話している。済むとそれを閉じた。
「たぶん結論が出たって言っていました。あと、二、三十分で、こちらに着くっ
て言っています。採集に行くつもりだったから、車で出かけているって言ってい
ます」
　宮崎が到着するまではまだ時間があるから、俺はそれまでに夕べの高遠の作図
を説明してもらうことにした。高遠は何枚かある図のうちの一枚を抜き出した。
「ほら、これが事故の時に使っていた機種と一番近いものだと思います。型番が
少し違うみたいですから、まったく同じじゃないようですけど、サイズは同じで
す」
　そう言って描かれていた図の説明を始めた。定規を使ってポンプの縮尺図を描
き、それを斜めから見て本体が写真にあるポンプと同じように見える角度を決め
ている。それにスライダーが写真と同じようにスタンドの支柱と輸液ポンプに隠

　
　　
れるように描き加えてある。
「こうやって、どこまでスライダーが移動していたかを決めました。でもそれに
内筒が最後まで進んだ状態の５０ミリリットルの注射筒をセットすると、ほら、
こんなに隙間があいてしまいます」
　確かにかなりの距離が開いた図が出来上がっている。
「間違いなさそうだな」
「ええ、そうです」
「それじゃ、宮崎は何を調べているんだ」
「宮崎先生が当直に行っている病院に事故のシリンジポンプとほとんど同じもの
があるんだそうです」
　同じポンプがある？
「本当か？　本当なら中央病院のＭＥの手を煩わせずに済むぞ。それにしてもあ
いつもこの方法を思いついたのか。それなら宮崎も紀和子なみの探偵能力だな」
　俺が感心すると高遠はあいまいな表情を浮かべ、少し 躊躇ちゆうちよ しながら明かして
くれた。
「えーと、実は夕べ、宮崎先生と少し話をしたんです。そのときに伊豆中央病院

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第四話　サイフォニング

にほとんど同じポンプがあるって言うので、それならこういう方法があるって伝
えたんです」
　なんだそうか。宮崎の頭脳が俺並みなのは安心したが、それにしても紀和子は
随分とこまめに連絡を取リあっている。俺が黙って紀和子の顔を見ていると、慌
てて付け加えた。
「だって、先生、もしかしたら宮崎先生が行っている病院に同じシリンジポンプ
があるかも知れないじゃないですか。だから夕べ電話したんです」
　別に言い訳なんかいらないさ。そのときタイミングよくカフェのドアが開き、
ジーパンにブレザーというスタイルの宮崎が現れた。車は駅前の駐車場に入れて
きたという。宮崎のために隣に移り席を開けてやりながら紀和子はそっけなく挨
拶をしている。
「遅くなりました。東名高速を降りるところで混んでいて」
　そう言いながら宮崎は腰を下ろし、注文をとりに来た店員にランチサービスを
頼んでいる。店員が戻っていくと宮崎は鞄から自分のノートパソコンを取り出し
た。電源を入れて紀和子と俺に画面が見えるように向きを変えた。
「用意した画像は全部そのファイルの中です。永井さんの写真と、今日、行って

　
　　
いた病院で撮らせてもらったシリンジポンプの写真も一緒に見られるようにして
ありますから、それと見比べてください」
　高遠が眼鏡を押し上げて食い入るように画面を覗き込んだ。ファイルには説明
のついた写真がいくつも開いている。
「僕はもう嫌というほど見ましたから、先生と紀和子さんとで先に見ていてくだ
さい。その間、ランチを食べています」
　宮崎の言葉も耳に入らない様子の高遠紀和子を見ながら、宮崎は苦笑している。
まあ、これでも顔を見るたびに大口で笑わないでくれ、と言われるよりは随分と
ましだ。
　高遠は次から次へとファイルを捲っている。俺も横から覗き込んだ。そこには
松山病院の事故の時とほとんど同じタイプのシリンジポンプが撮影してある。事
故の写真と同じように輸液スタンドの向こうにシリンジポンプがセットしてあり、
それに空の注射器をセットした写真もあった。確かにポンプのスライダーと注射
内筒の押し子の間に歴然と隙間が開いている。パソコンのファイルの中に動画も
用意してあり、それも紀和子と一緒に見た。動画はいくつかの写真をつなげてア
ニメーションにしたものだ。もちろん結論に変わりはないが、俄然がぜん、分かりやす

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第四話　サイフォニング

くなっている。
　紀和子は相変わらず黙ったまま元に戻って写真と説明を見直している。
　何度見ても結論が変わるわけではない。

「それにしても同じポンプが具合よく見つかったな」
　黙りこんでいる紀和子はそのままにして俺は宮崎に訊いた。
「ええ、紀和子さんが昨日の晩、電話をしてきて、事故の時のシリンジポンプと
同じものが伊豆中央にないか聞いてきたんです」
　写真に写っているシリンジポンプは事故の時の写真と同じタイプに見える。
「これは松山病院のと同じなのか？」
「少しだけ違います。スライダーの先端に注射器の内筒を押さえるフックがつけ
られています。オレンジ色に写っているのがそれです」
　なるほど、これはスライダーの先端にフックが付けられているだけで、ポンプ
の本体は事故のものと同じだ。しかし、注射器の内筒を固定するフックだと？　
そんなのがちゃんとついたシリンジポンプがあるのか。
　宮崎が話を続けた。

　
　　
「紀和子さんが電話で点滴スタンドのポールと輸液ポンプで隠されていても、ス
ライダーの先端の位置は最大でどこまで進んでいたかわかるはずだと教えてくれ
たので、今日の午前中にポンプと注射器を借りてセットして写真を撮りました。
紀和子さん、すみません。期待したのとは違った結果になってしまいました」
　最後の一言は高遠に向って言ったのだが、その高遠は宮崎にも答えず黙りこん
でいる。
　自分で作図した結果も同じだったのだから、宮崎の出した結果にそんなにがっ
かりすることもないだろうに。
「紀和子、これで誰かが注射器を押したことにはならないよ。これはシリンジポ
ンプの故障じゃないというだけだ」
　宮崎が食事を終え、ランチセットのアイスコーヒーを飲みながら高遠の横顔を
見ている。宮崎の視線に気づきもせず、黙り込んでいた高遠がようやく顔をあげ
て宮崎に向かってきっぱりと言いきった。
「これは西脇さんのミスじゃありません。やはり何かの事故です」
　宮崎がにこりとして頷いた。
「よかった。私、一人だけだったら大変だと思ったんですけど、宮崎先生も賛成

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第四話　サイフォニング

してくれるなら頑張れます」
　俺のことなど眼中にないようだが、宮崎が視線を俺のほうに走らせ、紀和子も
俺を無視していた事に気がついた。
「ああ、そうでした、神城先生。先生はどうですか」
　宮崎が声を上げずに笑っている。いい奴だ。宮崎に免じて勘弁してやろう。
「紀和子、おまえは相変わらず馬鹿正直だな。いいよ、俺も事故説だ。ポンプの
故障という、いささか安易過ぎる作業仮説が否定されただけだ。犯罪説は最後に
とっておいてまた別の作業仮説を考えるさ」

　ああでもない、こうでもないと議論をはじめた二人のやり取りを聞きながら、
俺は宮崎が撮影してきたシリンジポンプの橙色のフックを見ながら考えた。そう
か、もうとっくに新しいタイプのポンプが出回っているのか。紀和子の作図した
紙に添付してあったカタログの写真を見直してみた。そのシリンジポンプのスラ
イダーの先端にも確かにオレンジ色のフックが付属している。それなら、なんで
最近になって化学療法を始めた松山病院で古いタイプのシリンジポンプが使われ
ているんだ？

　
　　

　俺の疑問を解き明かすにはその道の専門家の知識が必要だから、古い知り合い
に連絡が取れるかどうか考え始めたとき、それまで賑やかに宮崎と話し込んでい
た紀和子がはっと息を飲み、宮崎の口元に意識を集中した。
　宮崎は紀和子の様子に気づかず、アイスコーヒーを飲んでいる。ストローでコ
ーヒーを吸い上げて一口飲むと、吸い上げられはしたが口に入らなかった液体が
自身の重みで半透明のストローの中を降りていく。それを見ていた高遠の眼が輝
きだした。
「宮崎先生、それ、それです」
　驚いてストローを口から離した宮崎に、何か新しいことを思いついたらしい紀
和子が勢い込んで話し始めた。
　テーブルの向こう側では二人が水圧だの、注射器の内筒と外筒の間の摩擦がど
うだと言っているのを聞き流しながら、新たな仮説は二人に任せて、何とか考え
をまとめた。昔の大学時代の知り合いに連絡を取ってみよう。
　俺が考えていると、眼前にぬっと縁なし眼鏡が迫ってきた。俺がぎょっとして
身体を起こすと高遠が口を尖らせた。

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第四話　サイフォニング

「ああ、ひどい、先生。人の顔を見て逃げることないじゃないですか」
　高遠の口調が俄然元気になっている。
「その眼鏡顔であんなに迫られたら逃げるだろう、普通」
　笑いをかみ殺している宮崎をひと睨にらみして、余計ひどいと言いながら高遠は別
の事を追求してきた。
「先生、それより何を考えていたんですか？　奥さんといるときも同じなんです
か。よく奥さんに叱られませんね」
　ひどい言い草だ。奥さんは俺の事を熟知しているから、あんなふうに眼鏡顔で
迫ってきたりはしない。
「それより、何か新らしい仮説は出来たか」
　ありがたくも高遠は素早くまた探偵モードに戻った。
「仮説じゃありません、これは真実です。この事故はサイフォンの原理でおきた
んです。先生、これを見てください」
　指し示したのは永井さんが用意した事故後の写真で、紀和子が苦労して描いた
図の元になったものだ。指先にはシリンジポンプが輸液ポンプに隠されて写って
いる。つまり人の肩くらいの高さにセットされていた。

　
　　

　６　再　現

　次の週末、石田と俺は湘南松山病院の院長室にいた。
　
　週明けにオーストラリアから帰ってきた石田は紀和子の話を聞いてしばらく考
えてから答えた。
「高遠さん、松山を納得させ、事務長に有無を言わせない手立てを考える必要が
あるね」
　それならと俺は宮崎と紀和子には手筈てはずを整えるように頼み、ついでにネットで
そういう事故が今までにないか調べてもらうことにした。紀和子と宮崎の二人が
準備をしている間、俺は東京の知り合いの弁護士と連絡を取った。
　報告書は俺と石田で書き上げ、それを携えて院長にそれを手渡すべく、湘南松
山病院を訪れたのだ。

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第四話　サイフォニング

　石田が応接室で簡単な説明をして報告書を手渡すと、院長は礼を述べながらそ
れを受け取ったが、それに対し事務長はまったく納得しなかった。
「そんな荒唐無稽こうとうむけいなことは信じられませんな。副看護師長の言ってることを鵜呑うの
みにしただけじゃないか」
　事務長がこういう反応をするだろうというのは予想済みだ。それならと石田は
踏み込んだ調査結果を伝えた。
「杉田さん、荒唐無稽じゃないんですよ。医療安全情報センターのデーターベー
スに、サイフォニング事故としてちゃんと公表されています。実際に起きている
事故です」
　それでも事務長は薄ら笑いを浮べて否定した。
「口ではいくらでも言えるからな。副看護師長は部下の若い看護師を庇かばいたいだ
けで動いているんだろう」
　穏やかな性格の石田が珍しくむっとした表情をみせた。
「松山、それなら手筈てはずどおりにいこう」
　テーブルの向かいで事務長の隣に座っていた院長が頷いた。
「分かった、そうしよう。頼んだ外部委員が調べ上げたことだから信用するべき

　
　　
なんだろうが、わたしも確証が欲しい」
　結構だ。確証ならちゃんと用意してある。石田がそれならと切り出した。
「分かりました。実際にサイフォニングが起こることを見せられると思います。
永井さんが調査に携わった二人と準備しているはずです」
　石田が言い終わったとき、それを見計らったかのように応接室のドアがノック
され、永井副看護師長が現れた。
「院長先生、石田先生の報告書を受け取りましたか？　私のほうは指示された準
備が出来ました」
　事務長が何か言いかけたが、院長はそれを押しとどめた。
「事務長、石田先生が事故の再現が出来るというから、私が諒解したんだ。論よ
り証拠だ」

　俺たちは永井さんがサイフォニングの再現のために用意した四階の個室に移っ
た。その部屋にはベッドの脇に点滴スタンドといくつかの道具の載ったカートが
置いてあり、高遠と白衣姿の宮崎が待っていた。
　全員が揃ったところで、石田の合図に従って白衣姿の宮崎が用意されていた点

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第四話　サイフォニング

滴セットの載ったカートを引き寄せた。カートには事故のとき使っていた５０ミ
リリットルの注射筒とシリンジポンプ、血管確保用の注射針と接続用のチューブ
が手術用の盆の上に載っている。用意された点滴スタンドには既に輸液バッグと
輸液ポンプがセットされ、シリンジポンプを取り付けた台も固定されていた。永
井さんが手早くシリンジポンプと注射器をセットして準備を整えた。
　事務長が何だこれは、と胡散臭うさんくさそうに準備された器具類を眺めた。
「こんなことに高価な器具を使っちゃ勿体もつたいないじゃないか」
　まったく、全ての事を金に換算して考えるようになっているらしい。さすがに
誰もそれに答えようとはしなかった。俺に促されて高遠は眼鏡をぐいと押し上げ
てから靴を脱ぎ、スカートの裾を押さえてベッドに横になり、片手の袖を捲り上
げて宮崎に差し出した。
「それじゃ高遠さん始めますね。血管に針を刺しますからちくっとしますが、リ
ラックスしていてください」
　宮崎が言う間に永井さんが高遠の二の腕にゴムの駆血帯くけつたいを巻いて準備をした。
「点滴するのはビタミン剤ですから害はないですし、疲れを取るには良く効きま
すよ」

　
　　
　宮崎が高遠の前腕の静脈を探り、迷うことなく点滴用の針をすばやく血管に刺
し入れると、永井副看護師長が針が外れないようにテープで固定した。それに繋
がるチューブは既に輸液ポンプとシリンジポンプにセットされている。
「シリンジポンプはどのくらいの高さにしますか？」
　永井さんが俺に訊いてきた。
「最初はいつもの高さでいいです」
　これは打ち合わせていたとおりだ。永井さんがポンプの台をベッドに横たわる
高遠と同じ高さにした。
「それじゃ、高遠さん、これから点滴をスタートします。痛くも痒かゆくもないはず
でが、何かあったら直ぐに言って下さい」
　宮崎が声をかけると患者役の高遠が神妙に返事をした。
「はい、分かりました」
　返事は元気だが、それ以上は何も言わない。やはり緊張しているのだろう。宮
崎は手馴てなれた様子で作業を進めている。その様子を見ながら石田が気楽な様子で
声をかけた。
「高遠さん、ベッドに横たわる美女の役だね」

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第四話　サイフォニング

「もう、先生、やめてください。そんな気分じゃありません」
　俺たちのやり取りを事務長は憮然ぶぜんとして見ている。宮崎はポンプの設定を確認
してからチューブのクレンメルを緩め、輸液ポンプとシリンジポンプのスイッチ
を入れた。眼で見ていても気が付かないくらいの速度でシリンジが動き出した。
そのあとは俺が説明をした。
「これで上の輸液バッグから ５-ＦＵ が輸液ポンプで点滴され、側管からはシス
プラチンがシリンジポンプで入れられるという状況と同じになりました。もちろ
ん今は生理食塩水とビタミン剤です。これが当日の午後一時頃にセットされてい
ます」
「それは分かっていますよ。ちゃんと確認しましたからね」
　相変わらず不機嫌な顔で事務長が言う。
「それからしばらくして十二時二十分頃に西脇看護師がセットを確認しています
が、問題はありませんでした。その後、点滴のリザーバーが緩んでいるというこ
とで、看護師が病棟看護師長と院長に連絡しています。十二時半ごろ院長が研修
医の青田先生を連れて病室に来ました」
　院長が頷いた。

　
　　
「院長が患者を診ているうちに、同じ病室の奥のベッドの患者の術創の包帯の交
換が行われています。間違いないですね」
　俺は副看護師長を振り返って確認した。
「ええ、間違いないです。担当した看護師に確認してあります」
「その時、院長と研修医はどうしたか覚えていますか？」
「さて、どうしたかね。いちいち覚えていないな」
　院長はだからどうしたのかと不審気な表情だ。
「まあ、院長先生が覚えていないのも無理ないでしょう。でも、研修医の青田先
生は覚えていました。部屋の奥の患者の包帯交換のためのカートが通り抜けるの
に邪魔になるので、ベッドの足元にあった自分たちのカートを中に引き入れまし
た。その分研修医をベッドの頭寄りに来るように指示しています」
「それは当然だろう。邪魔じやまになる」
「その通りです。ですがベッドの脇には輸液スタンドが立っていて、院長と研修
医、それにナースがベッド脇に来ていたんです。随分窮屈です」
「ああ、そうだ。思い出したよ。邪魔だったから点滴スタンドを寄せてもらい、
突き出ていたシリンジポンプがサイドテーブルにぶつかるのでシリンジポンプの

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第四話　サイフォニング

向きを変えて台ごと上に挙げさせたよ」
「そうです。看護師も青田先生もそう言っています。それならその通りにしてみ
ましょう」
　宮崎がスタンドに固定されていたシリンジポンプの台のクランプを緩め、台を
上げていった。俺の肩の高さ辺りでクランプを改めて台を固定した。
　しばらくは何事も起きていないように見えたが、まもなくあるかないかの僅か
な隙間がシリンジポンプのスライダーと注射器の内筒の最後端部の間に見え始め
た。一旦出来始めた隙間はその場にいる人々の注視の中で、誰の目にも明らかに
なり、次第に広がっていく。
　脇で見ていた院長が息を呑んで凝視し、隣で見ていた副看護師長が叫び声を挙
げた。
「大変、大変。勝手に注射筒が動いていくわ。止めなくちゃ」
　そう言って永井副看護師長はクレンメルに手を掛けたが、それを石田が押しと
どめた。
「大丈夫だよ、永井さん。流れ込んでいるのは生食とビタミン剤だけです。少し
速く流れこんでも何もおきません」

　
　　
「こんな馬鹿な。こんなことが本当に起きるのか？」
　院長が驚きの声を上げた。院長の脇に立っている事務長を見ると、表情を無く
して少しづつ広がるスライダーと注射器の押し子の隙間を凝視していた。僅かに
唇が動き、搾しぼり出すように呻いた。
「何かの間違いだ、これは。それとも何か細工しているんだろう、ええ、おい。
こんなことはやめろ」
　そう言ってシリンジポンプに手をかけようとすると、俺の脇から石田がすっと
手を伸ばし、その手を押さえた。
「事務長、危ないです。針先は彼女の腕の血管に刺してあるんです。こういうこ
とは医師と看護師に任せておいてください」



「ポンプを高くしろと指示したのは私だからな。第一の責任は私かもしれん」
　沈うつな表情の院長が重い口を開いた。
「まあ、確かに信じがたいが、松山、こういうことだ」

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第四話　サイフォニング

　石田が言うと院長が頷いた。
「しかしなあ、これじゃ危なくてうっかり点滴も出来ないじゃないか」
「いや、今では普通なら大丈夫だ。シリンジポンプでそういう事故が起きると分
かったから、今では改良されて留め金がついているよ。それにポンプは決められ
た高さににセットするようにと注意書きがつけられることになった。それを守れ
ばいいだけのことだ」
「そうだな。自分の知らないことがこんなにあるんだ。俺がうっかりポンプの高
さを動かしてしまったのが間違いの元か。それにしても、お嬢さん、危ない患者
役をやってもらって申し訳ない」
「いいえ、私は大丈夫です」
　点滴針の跡に絆創膏を張ってもらい、身支度を済ませた高遠が答えた。
「いやいや、おかげで誰かのミスや間違いじゃなくて、事故だとよく分かりまし
たよ。ただ、もう一度そのサイフォンの原理で異常注入が起きると言うのを説明
してくれませんかな、お嬢さん。いささか話しについていけなかったんでね」
　俺が黙って頷いて見せると、高遠はにっこりと笑みを浮かべ、用意してあった
説明図を院長に手渡し、それからまた眼鏡をぐいと押し上げて説明を始めた。

　
　　
「シリンジポンプで静脈に注射をするとき、人の静脈にだって少しは圧力があり
ますし、注射筒には外筒と内筒の間に摩擦がありますから普通なら勝手に注射器
の中身が注入されることはありません。でも、注射器が患者さんの身体よりもず
っと高いところにセットされていれば、水圧差で注射液が静脈に注入され、それ
に引かれて内筒が動くのは不思議でありません。特に注射器の内筒が緩ければな
おさらです。ですからシリンジポンプの使用説明書には患者の体と同じ高さにセ
ットするように書かれています。救急処置をした直後の写真にシリンジポンプが
高い位置にセットされたままのものがありました。その写真を最初に見たときは
気づかなかったんですが、圧力の差で注射器が動くかもしれないと思って調べな
おして、確信したんです」
　高遠の説明に院長は頷いている。

　説明を終えると高遠が話を切り替えた。
「それより、院長先生、犯人扱いされた看護師はさんは大丈夫なんですか？　そ
ちらのほうが心配です」
　副看護師長の永井さんが高遠の言葉に促されるように院長を見た。院長が口を

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第四話　サイフォニング

開いた。
「そうだな、悪い事をしたよ。謝ってあらためて仕事を続けてもらうよ。すまな
いが事務長、一緒に頭を下げてくれ」
　院長は事実を突きつけられて、最善の道を選ぼうと考え始めたようだ。しかし
事務長は相変わらず表情を固くしたままだ。
「いや、院長や私は事故を調査していたまでです。必要な聞き取りをしただけで
看護師に頭を下げる必要はありません」
　事務長の言葉が消える前に俺の後ろから鋭い声が飛んだ。
「事務長、まだ、そんなこと言っているの！」
　副看護師長の激しい声に院長が慌てて二人の間にわって入った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。お客さんの前だ」
　永井さんはそれでも事務長を睨みつけている。その視線を無視して事務長は追
求の矛先を変えた。
「第一、そんな危険な事故の起きる機械を製造したメーカーが問題だろう。責任
はそれを納入した業者だろう。それに運悪く緩ゆるい注射器に当たったんだろう。本
当の原因はそっちだろう」

　
　　
　事務長はまだ自分の行動を正当化しようとしている。自分の危うい立場に気づ
いているのかいないのか、責任逃れをするばかりだ。隣の高遠が永井副看護師長
と同じように怖い顔をして事務長を睨んでいる。
　よし、それならこれはいいシチュエーションだ。俺は大して興味のない風に切
りだした。
「さっきの事務長の言っていたポンプの製造者責任ですがね、大阪のほうで最初
のサイフォニング事故があった後、厚労省はポンプの製造元とシリンジメーカー
の団体に対策を速やかにとるように指導したらしいですね」
　事務長が俺のほうをきっと見つめてきた。
「それがどうした。厚労省としては当然だろう」
「ええ、当然のことで、然るべきことをやっているに過ぎないです。ただ、メー
カーが対策を採るとしてもどうしても何ヶ月かの時間はかかるし、市場に出回っ
ていた古い危険なタイプのポンプは途端に売れなくなるんでしょうね。それはど
うするんでしょう。安く買い叩かれるんでしょうね」
　事務長の表情が変わった。緊張と猜疑心のない交ぜになった表情で俺を見つめ
てきた。

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117

第四話　サイフォニング

「先日、知り合いの弁護士に紹介してもらった医療コンサルタントと称する人に
会いましたよ。型落ちの医療器具を安く仕入れて、売り込む医療器具販売会社が
あるそうですね」
　事務長が顔をゆがめている。
「安い器具を売っても問題あるまい。新しい改良型が出るとき、それまでのもの
が安くなるのは当然だ。それを購入してどこが悪い」
　事務長が血の気のない顔で反論するが、その場にいる人々は黙って俺と事務長
のやり取りを凝視している。
「確かに安く売りさばくのは違法でもなんでもない。それを購入する病院も形式
上は問題はない。その機器はそれまで何事もなく使われていたものですしね」
「医療コンサルタントなんて、ほとんどごろつきだぞ。そんな奴のいうことを信
じるのか？」
「コンサルタントは横浜医療コンサルタントと称しているところで、安く売って
いたのは奥間医療機器販売というそうですよ」
　俺は言葉を切った。蒼白になった事務長は何か言おうとして口を開いたが何も
言わないまま口を閉じ、そのまま黙り込んだ。

　
　　

　長い沈黙が続いたあと、ようやく院長が口を開いた。
「亡くなる直前に親父が言っていたのはこのことだったのか。もっとよく聞いて
おくべきだった」

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119

第四話　サイフォニング

　７　浜　屋

　サイフォニングの実演をした日に最終調査報告書を松山院長に渡しておいたか
ら、翌週くらいには何かの連絡があるものと思っていたが何事もなく日が過ぎて
いった。俺はともかく高遠がやきもきしている。
「こんなものなんですか？　永井さん、まさか辞めていないですよね」
　俺の小部屋でそう言いながら俺に迫ってくる。迫られたからって俺が結末を知
っていて隠しているわけではない。
「何か伝えることがあれば石田に連絡があるだろう。石田に聞いてみるんだな。
それに永井さんとはメル友なんだろう。直接聞けばいいじゃないか」
「石田先生には聞いてみましたが、まだ何も連絡がないって言われました。永井
さんにはどうなっているかは怖くて聞けません。先生、聞いてください」
　まったく、探偵モードから通常モードに戻ってしまった高遠は、やきもきして
いるだけでまったく気弱だ。

　
　　
　結局、その週はなんの連絡もないまま過ぎていき、翌週になってようやく松山
病院の事故の顛末てんまつが分かった。
　月曜日の夕方、俺と宮崎がディスカッション顕微鏡を覗いているところに検鏡
室の入り口にいつもより忙しげなパタパタというサンダルの音がした。気配に気
づいて入り口を振り向くと、石田がいつものスタイルで慌しく部屋に入って来た
が、後ろにははちきれんばかりの好奇心で眼鏡の奥の眼を輝かせた高遠紀和子が
ついて来ている。
「松山病院の事故にやっとけりがついたよ」
　石田はいつもの嗄れ声で松山院長から連絡があったと教えてくれた。
「事故はサイフォニング現象で決まり。永井さんは看護師長に昇格、事務長は引
継ぎをしたら、関連会社の役員も含めて五月の末に退職することになったと言っ
ていたよ。院長は自分自身に厳重注意だそうだ」
　石田の話に紀和子が喜んだ。
「よかった。永井さん、副が外れて看護師長になったんですね。西脇さんも大丈
夫ですよね」
「大丈夫ですよ。あの後、事務長と院長が話し合って、事務長も納得したそうだ

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第四話　サイフォニング

よ。二人で西脇さんに丁寧にわびたそうだ。西脇さんは院長と事務長に詫びられ
てびっくりしたらしいよ」
「事務長も辞めることになったんですね」
「そう、松山もこれで本当の代替わりだって言っていたよ。看護師長をしていた
お袋さんも一足先にリタイア、事務長も普通の会社勤めならとっくにリタイアの
歳だからね」
　何か言いかけた紀和子に石田は必要なことは伝えたよ、今日は外科当直だと慌あわた
だしく病理部を出ていった。

　現れたときと同じように石田がつむじ風のように引き上げていったあと、紀和
子が話し足りないらしく俺に迫ってきた。
「ああもう、石田先生って何も聞いてくれないんですね。先生、それならご馳走
してくれるっていう約束を今晩、果たして下さい。今日は病院の技師会の打ち合
わせがあるので、夕食をして帰ることにしているんです。松山病院の事件もまだ
よく分からないこともあります」
　一人身の宮崎に異存はないし、俺が外で夕食を済ませていけば手間が省けると

　
　　
言って俺の奥さんは喜んでくれるだけだ。それに紀和子がどんな事を言い出すの
か大いに興味がある。それならと提案した。
「いつもの酔来軒じゃなくて横浜の駅前の飲み屋に行こう。日本酒のうまい店が
ある。狭い店だが、今日は月曜日だから大丈夫だろう」

　技師会の会合も俺と宮崎の仕事も済み、俺たち三人は連れ立って横浜駅に向っ
た。横浜の駅前の地下街の片隅に小さな飲み屋や小料理店がひしめき合っている
一角がある。そこに連れて行くと高遠が驚いた。
「横浜の駅前にこんなところがあるんですか。知りませんでした」
　宮崎も興味深そうに周りを見ている。宮崎も横浜育ちではないから知らないら
しい。
「先生が連れて行ってくれるところは、浜屋じゃないですか。それなら、お酒が
美味しいって聞いたことがあります。戦後のどさくさの時代が終わって再開発さ
れるときに、それまで駅前にごちゃごちゃとあった飯屋や飲み屋を、この一角に
集めたんだろうって先輩が言っていました」
　その浜屋は俺が病理に入局したとき、病理の先輩に連れてきて貰ってから、時

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第四話　サイフォニング

折一人で酒を飲みたくなったときに寄っている。とても常連とはいえないがそれ
でも二代目の店主は俺を覚えてくれていて、行けばいつでも歓迎してくれる。
　今日は会津のいい酒がありますよ、と言って二代目が出してくれた酒を紀和子
が三つの猪口ちよこになみなみと注いでくれた。三人で猪口をかちりとあわせて松山病
院の事件の解決を祝って乾杯をした。紀和子は猪口を持つ左手に右手をそっと添
えて口に運んでいる。たまにしか呑まない俺の奥さんが見せる仕草と重なり、妙
に大人びた雰囲気だ。
　黙っているとお銚子を手にして俺に猪口の酒を飲み干せと催促してきた。
「どうかしたんですか」
「いや、高遠の仕草がいつもと違っておしとやかなんで、ちょっと驚いたんだ」
　高遠紀和子が喜んでにこにこしている。
「いつもと違ってと言うのが引っかかりますけど、少しばかり格好つけてみたん
です。こんなに美味しい料理とお酒が楽しめるなんて、学生の頃は思っても見ま
せんでした」
「確かにな。俺が学生時代に呑んだ酒なんてひどいものだった。おかげで長いこ
と日本酒なんてまずい酒だと思い込んでいたよ。まあ、めでたく事故調査のけり

　
　　
もついたことだし、たまにはいいだろう」

　いつものとおり紀和子が会話の主導権をとり、話題があちらこちらに飛んでい
るが、どうもいつも以上に饒舌なようだ。しばらくはスケートだか何かのスポー
ツ選手を話題にして、宮崎と盛んに話していたが、時折俺にも話を振ってきた。
それにまとも相手をしていると頭がパンクしそうだから適当に相槌を打っていた
ら、ちゃんと話を聞いていないんですかと責めてきた。
「神城先生って、直ぐに魂が宇宙遊泳するんですね」
　今度は宇宙遊泳か。まったくひどい言い方だ。
「おいおい、紀和子は宇宙人のようだが、俺はれっきとした地球人だぞ」
　隣で宮崎が声を上げて笑っている。それをきっと睨んで口を尖らせ話題を急転
回させた。
「そんなに笑うことないでしょう、宮崎先生。それより松山病院の患者さん、あ
れくらいの急速投与でショックになるんですか？」
　まったく紀和子は油断がならない。宮崎は非難はさらりと受け流し、シスプラ
チンの疑問に答えた。

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第四話　サイフォニング

「そうですね。抗癌剤は臓器毒性ですから、過剰投与をしても患者に障害が出始
めるには結構な時間がかかリます。高用量の場合で倍ぐらいの量を投与し続けて
も障害が出てくるのは普通は数日後だと思います。あの患者は低用量ですし、急
速投与が始まって直ぐに反応が出ていますから、たぶんアナフィラキシーだと思
います」
　やっぱりという顔つきで紀和子が話を続けた。
「それじゃサイフォニングの事故とショックはたまたま同時に起きただけなんで
すか？」
「紀和子さん、僕もシスプラチンのことはよく知らなかったんで、ちょっと変だ
と思って調べたんです。シスプラチンはもともと使用し始めてから数週間後にア
ナフィラキシーを起こすことがあるようです。だから、急速投与がその引き金に
なったんだと思います」
　やっぱりそうなんだ、とその問題にはどうやら納得したようだが、それなら疑
問がもう一つあると言う。
「それじゃ最後に院長先生が言っていた『親父が言っていたこと』ってなんなん
ですか？」

　
　　
　相変わらず高遠紀和子の追及は厳しいが、ありがたいことに追及は宮崎に向け
られている。
「いや、それはちょっと僕には……」
　そう言いながら俺の方を振り向いたところで、宮崎の鞄の中で携帯電話が鳴り
出した。やり取りを中断して携帯電話を取り出して耳に当てた宮崎の表情が引き
締まった。
「ええ、今、横浜の駅前で三人で飲んでいますけど大丈夫です。まだ、ほとんど
呑んでいません。タクシーを飛ばして直ぐに行きます」
　俺と紀和子を振り返り、宮崎がすまないが病院に戻るという。
「どうした、急患か？」
　中央病院の近くの高速道路で大きな事故があり、重傷患者が数人運び込まれて
いるという。緊急手術が必要で、外科当直の石田から人手が足りないから宮崎も
手伝いに来るようにとの要請だと言って、席から立った。

　眼鏡の奥で眼を丸くして、紀和子が驚いている。
「お酒を飲んでいても大丈夫なんですか？」

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第四話　サイフォニング

　確かに人によってはまだ大して呑んでいないうちに入るかもしれないし、何よ
り緊急事態だからいいも悪いもない。それに医師法には酔っ払い手術の禁止事項
はないはずだ。
　慌しく店を出て行く宮崎が詫わびている。
「紀和子さん、それに神城先生、すみません。そのうち必ず埋め合わせをします
から」
　驚いた表情の割りに紀和子は機嫌よく宮崎を送り出した。
「緊急手術の呼び出しじゃしょうがありません。先生の分のお酒は二人で呑んで
おきます。それに埋め合わせは高くつきますよ」
　結構、殊勝じゃないかと思っていたら宮崎の姿が消えると、とたんに不機嫌な
顔になった。
「紀和子、そんな顔をするな。あれは外科医のレゾンデートルなんだ。生きがい
にしているんだよ」
　言われて紀和子は肩をすくめた。
「外科医って格好いいのかも知れませんけどつまらないです」
　宮崎にはいろいろ冷たく当たっている割には随分とがっかりしている。しょう

　
　　
がない、少しつきあってやるか。俺は紀和子のお猪口に酒を注いだ。
「まあ、そういわずもう少し呑め。松山院長の言ったのはどういう意味か知りた
くないか？」
　宮崎が詰問の答えを俺に振ろうとしていたのを思い出したのか、紀和子が反応
した。
「先生、そう言えば何か調べていましたね。先生はもう分かっていたんですね。
それを教えて下さい。宮崎先生なんかどうでもいいです」
　あんまりどうでも良くなさそうだが、すばやく興味は移ったようだ。
「俺はビジネスのことは何も知らないが、それでも接待や裏金、あるいはコンサ
ルタント料というリベートがはびこっているらしいというぐらいは知っている。
紀和子がいつだったか、事務長が何であんなに抵抗するんだと言ったとき、気が
ついたんだ。紀和子もそうだろう」
「ええ、何か隠しているんだろうとは思いました。どうやって調べたんですか」
　昔、学生時代に知り合った弁護士をしている男を通じて神奈川の医療ビジネス
界を知っている人物を紹介して貰ったことを話した。
「紹介されたのは横浜の久保という弁護士で、そこから医療コンサルタントと称

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第四話　サイフォニング

する人物に引き合わされたんだ。要するに医者が開業のするのを手伝うことを仕
事にしている」
「それで、その人はどんな事を教えてくれたんですか」
「あのときにも話したが、最初のサイフォニングの事故の後に、厚労省の勧告も
あってポンプメーカーが改良型を売りだした。安全に敏感な病院では改良型の装
置を購入するから、市場に出回っていた古いタイプのポンプは値引きされ、安く
手に入ることになる。それに目をつけた医療機器販売会社があって、コンサルタ
ントがその販売会社を事務長に紹介したんだ。あのシリンジポンプもそこから納
入されている。それ以後、その会社はしばしば湘南松山病院にもファミリー企業
経由で機器を納入しているよ」
　紀和子が眉をひそめた。
「事務長はお金を貰っていたんですか？」
「もちろんリベートと言うかキックバックがあっただろうと考えるのが普通だっ
て言っていたよ」
「その医療コンサルタントも儲もうけたんですか」
「別れ際に訊いて見たよ。そのコンサルタントは自分もそうだが、それもビジネ

　
　　
スだからって言っていた」
「事務長って松山病院のファミリー企業の役員もしているんですよね。お金は十
分あるんじゃないですか」
「あっても、もっと欲しくなるんだろう。俺のようなサラリーマン医者には分か
らない世界だな」
「証拠があるんですか？」
「こういうリベートを貰っていたというのはほとんど証拠がないよ。というか素
人には追及の手がかりがない。その横浜の弁護士はそう言っていた。調べたとし
ても病院の帳簿にはなにも問題が残らない。普通よりすこし安い値段で納入され
たということが分かるだけだ。医療機器販売会社の帳簿には安い購入金額と販売
金額が残っているだろうが、コンサルタント料として誰かの名義の口座に振り出
されていれば、脱税でもない限り違法だというのは無理だろう。その調査ができ
るのは税務署だそうだ」
「病院はともかく、機器販売会社の帳簿は調べようがないですものね」
「それでも金を受け取っていれば病院から見れば事務長は背任だろう。松山院長
の親父さんはそれに気づいていたんだろう。おそらく亡くなる前に事務長に気を

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第四話　サイフォニング

つけろとか、あるいは引退してもらえと新院長に言ったんだと思う」
　紀和子が黙って頷いた。
「たぶん五月の末に黙って引退というのは、松山院長の温情とそれなりのけじめ
なんだろう」

　注いでやった猪口を口に持っていこうとして紀和子は途中で手を止めた。
「再現実験のあと、先生が言っていたのはそういうことだったんですね。事務長
は随分怖い顔をしていましたけど」
「本当はあの時はまだ紹介された横浜の弁護士に会って、関係したコンサルタン
トと販売会社を聞いただけだったよ。具体的なことは何も分かっていなかったけ
れど、どんな反応するか試してみたんだ」
　眼鏡の奥の目を見開いた紀和子が俺の顔を見つめてきた。
「先生、先生って見かけによらないんですね。いい度胸です。もっと呑みましょ
う。みんな地道に仕事をしているのにこんな事をする人がいるんですね。こんな
話、忘れたいです」
　そういって紀和子は手にしていた猪口を飲み干した。

　
　　
　やれやれ、これは紀和子を家まで送っていくことになりそうだけれど、まあい
いか。五月の葉桜の遊歩道を酔った紀和子を送って行くんだから。この役目もそ
ろそろ終わりになるだろうし。

　
　　
　　
　病院は謎だらけ
　第五話　行方不明のカルテ

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第五話　行方不明のカルテ

　１　事始め

　小さな部屋の窓外に見える高架道路を音もなく車が走り去っていく。しばらく
前から覗き込んでいた顕微鏡から身体からだを起こして外を眺めると、その向うにはさ
わやかな緑に覆われた丘が見えている。来週中には梅雨に入りそうだが、その日
はまだ気持ちのいい初夏の空だった。
　見ていた標本は先月に宮崎が河村先生から任された乳腺リンパ腫の症例で、こ
の秋の乳腺研究会で発表しようとしている。患者は以前から関節リウマチの治療
中で、彼はいくつかの免疫染色を施して、免疫抑制下に発症したＡＬＣＬと診断
した。宮崎の結論に俺も同意して病理の報告をしたのだけれど、どこか気になる
ところがある。自分の論文作成は後回しにして、乳腺の標本を改めて見直してい
たのだ。
　免疫抑制状態で発症した悪性リンパ腫というのは間違いないのだけれど、患者
の治療も芳しくないと伝わってきている。これはリンパ腫の専門家にコンサルト

　
　　
したほうがよさそうだ。

　病理診断に再考の余地があることを言っておこうと席を立ち、医師検鏡室を覗
いてみたが宮崎の姿はない。部屋を通り抜け、事務コーナーの脇を過ぎようとす
ると声が掛かっだ。
「宮崎先生なら薄切室にいるわよ」
　俺の気配を察知した大友さんだ。さすが、病理部のヌシに抜かりはない。
　薄切室からはぼそぼそと誰か男の声が聞こえる。どうやら技師の声ではなさそ
うだ。入り口から覗いてみると宮崎侑がミクロトームの前に座っている。薄切さ
れたパラフィン切片が脇の水槽に浮いているが、厚さがまちまちのようだ。
俺のところからは見えないもう一人に宮崎が声をかけた。
「何とか切りましたけど、どうですか」
　応じて女の声がする。
「ええと、そうですね、さっきよりいいと思います。もう少し練習すればもっと
均一に切れるようになります。取り敢えず切片をスライドガラスに掬すくいあげてく
ださい」

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第五話　行方不明のカルテ

　これは高遠紀和子の声だ。そういえば今日の午後にはカンファランス室の大机
の上に誰かが持ってきたカステラが切り分けて置いてあった。どうやら宮崎は紀
和子の機嫌を取る方法を見つけたようだ。しばらく前にはあれだけ抵抗していた
のに、紀和子は随分安く秘術を教える気になったものだ。
　宮崎が俺の気配に気がついた。
「あ、神城先生、来ていたんですか、気がつきませんでした。パラフィンブロッ
クの薄切事始をやっています。難しいものですね。これで三、四ミクロンの厚さ
ですか」
　紀和子も振り向いた。
「どうだ、宮崎は筋がいいか？」
「ええ？　私には分かりません。でも、少し前に係長が通りかかって初めてにし
ては上手だって言っていました」
　宮崎が嬉しそうな顔をした。
「良かったじゃないか、宮崎先生。カステラを二本ばかり貢いだだけで紀和子の
秘術を授けてもらえるなんて、随分安上がりじゃないか」
　宮崎が苦笑した。

　
　　
「いやあ、紀和子さんはなかなか商売人です。そんなに安く教えてくれません」
　これはどういう意味だ。俺の不審気な様子に紀和子がニマっとした。
「紀和子、カステラ以外に何を宮崎からせしめたんだ？」
「いえ、私はそんな欲張りじゃないですからあれ以上何も貰っていません」
「じゃ、なんで門外不出のはずの薄切術を教えているんだ」
　紀和子はフフっと小さく笑う。怪しい笑みだ。
「企業秘密です」
「企業秘密なんてろくなものはないぞ。悪辣あくらつなブラック経営か税金逃れだろう」
　そう言って、俺と紀和子のやり取りをにこにこしながら黙って聞いている宮崎
を振り返った。
「実は……」
　と宮崎が言いかけると紀和子が慌てた。
「ああ、宮崎先生、駄目です。言わないで」
　制止されて宮崎は躊躇した。
「でも紀和子さん、神城先生相手に隠し事をしてもどうせ無駄だって、このあい
だ言っていたじゃないですか」

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第五話　行方不明のカルテ

「でも、やっぱり」
　ふむ、ここまで隠そうとするからには推理するのは難しくない。しばらく前か
ら紀和子は蝶や甲虫の標本に興味を示していて、宮崎が仕事が終わった後に嬉し
そうに標本を見せているのを何回か目撃している。
「そうか、それじゃ紀和子、宮崎に無理強いして昆虫採集に同行することにした
んだろう」
「ああ、先生、無理にっていったわけじゃないです」
　図星だったようだが、宮崎のほうがよほど潔い。
「先生、僕から誘ったんです。ゼフィルスの幼虫を採集をして飼ってみたいと言
うので、梅雨に入る前か合間に一度、一緒に行くことにしたんです」
「だから、強要したんじゃないです」
　慌てて弁解をしているが、紀和子の自律神経は本人とは違って正直に反応して
いる。いいだろう、花に集まる小さな虫じゃなくて、隣にいる大きな虫をもっと
知りたくなったんだろう。大いに結構だ。宮崎には乳腺リンパ腫の再検討が必要
だとだけ告げて、花と虫の邪魔にならないようにと、俺は自分の部屋に戻ること
にした。

　
　　


　宮崎は紀和子に特訓されてどうやらパラフィンブロックの薄切術を習得し、染
色も基本のＨＥ染色は出来るようになった。次は特殊染色というところまで漕ぎ
つけたが、次の週は学会発表の準備で急に忙しくなった。この三月まで勤めてい
た湘南市民病院の症例をまとめて、福岡で開催される癌治療学会で発表すること
になっているのだ。その病院に勤め始めた若手が発表し、宮崎がそれを指導する
手筈だったのだが、蓋を開けてみるとほとんど手付かずだったという。宮崎は学
会の準備を急遽自分でする羽目になった。
　紀和子は酷いとその若手の外科医を非難したが、宮崎は大して気にも留めてい
ない様子だ。
「もう少し頻繁に連絡を取っておくべきでした」
　と悠然と構え、毎日のルーティンが終ると湘南市民病院に出向いていくことに
なった。

　火曜日の夕方、いつものとおり青い手術着に白衣を引っ掛け、サンダル履きの

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第五話　行方不明のカルテ

石田が病理部に現れた。学会発表の進捗しんちよく 具合を聞きに来たのだ。宮崎が状況を
伝えると気をもむ紀和子に大丈夫だと請け合い、こちらもいたって暢気だ。
「宮崎はね、忙しくなると実力を発揮するんだ。だから心配することはないよ、
高遠さん」
　宮崎が出かけて行ったあと、いい機会だからと乳腺リンパ腫の問題を石田に伝
えることにした。
「リンパ腫のタイプに疑問があるんだ。宮崎はＡＬＣＬだろうと結論を出して、
俺もそれでいいだろうと病理報告を出したけれど気になるところがある。追加の
免疫染色をオーダーしてあるから、それが染め上がったら凍結組織と一緒にリン
パ腫の専門家に送って見てもらうよ」
「組織型も普通じゃないのか」
　石田は腕を組んで考え込んでいる。
「組織型もって、石田先生、臨床も何かおかしいんですか？」
　紀和子が石田の話しに食いついた。
「免疫抑制剤投与を投与しているんですよね。それなら薬を止めれば腫瘍は小さ
くなるんじゃないですか」

　
　　
　石田は相変わらず考え込んでいるから、代わりに答えることにした。
「実際はそれほど甘くないようだよ、紀和子。このあいだ調べてみたら薬をやめ
て縮小するのは半数程度、縮小してもいずれは再発するのが普通だとあったよ」
　俺の説明に紀和子は渋い顔だ。
「何とかならないんですか、石田先生。湯山さんて、まだお子さんが中学生くら
いなんでしょう」
　腕を組んで考え込んでいた石田が紀和子に乳腺外科の手には負えないようだと
告げた。
「いや、期待通りにはいってないんですよ。血液内科にコンサルトしたら、高遠
さんの言ったとおりで休薬してみるように言われたんです。でももう二週間にな
るけど、腫瘤が小さくならないんでね」
　治療経過に紀和子は不満そうだ。
「これはやはり転科させたほうがいいな。学会に出かける前に血液内科と連絡を
とろう。ベッドが空き次第血液内科に移れるように手配しておきますよ」
　石田の言うとおり、休薬で腫瘍が小さくならないというなら血液内科で化学療
法に任せるのが一番だろう。

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第五話　行方不明のカルテ

　水曜日の午後、宮崎がルーティン仕事を終えてすぐに出かけてしまったあと、
高遠は何か落ち着きがなく、何度も病理部から出てはまた戻ってくることを繰り
返していた。
　夕方、仕事が一段落したところでコーヒーを貰いにカンファランス室に顔を出
すと、そこに居合わせた友永和美が俺に迫ってきた。
「神城先生、今度は何の調査を始めたのよ」
「いったい何の話だ。この間の松山病院の事件以来、何もしていないよ」
「それじゃ高ちゃんが午後から何回もカルテ室に出かけて調べているけど、それ
はいったい何なの？」
「知らないな。少なくとも俺とは関係のない話だよ」
　ポットからコーヒーを注ぎながらそう言うと和美がしたり顔で話を続けた。
「じゃあ、やっぱり宮崎先生の研究発表の手伝いをしてるんだ」
　友永和美はそう決め付けたが、宮崎の発表は湘南市民病院の症例で、ここの病
院には一例もないはずだ。

　
　　
　大机で何かの書類を広げて調べていた武村係長が代わりに教えてくれた。
「高ちゃんに頼んだのは乳腺リンパ腫の方です。紙カルテが見つからなくて宮崎
先生が困っていたので、私が手伝うように言ったんです」
　この病院がカルテを電子化したのは三年ほど前で、乳腺のリンパ腫患者は関節
リウマチの治療歴が長いから、紙カルテに記録されている期間も長い。研究発表
にはその時期のカルテも必要だが、それが見つからないという。まだこの病院に
不慣れな上に癌治療学会の準備で忙しくなった宮崎を見て、係長が紀和子に手伝
うように言ったのだ。
「でもなんか変なんです。高ちゃんはその患者さんの紙カルテが見つからないっ
て言うんです」
「紙カルテなんてとっくにマイクロフィルムになっているか、それじゃなければ
デジタル化されているんじゃないか」
　第二病院と揶揄されてはいても、この中央病院も大学病院だ。カルテはすべて
保管するという方針で、以前は紙カルテを順次マイクロフィルム化していたし、
それ以後はデジタルファイルにしている。マイクロフィルムはカルテ庫で見られ
るようになっているし、デジタルデータはカルテシステムで見られるはずだ。と

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第五話　行方不明のカルテ

ころが実態はそうでもないと武村さんが溜息をついた。
「電子カルテになってからはマイクロフィルムはやめて、古いカルテは順次デジ
タル化するという方針にはなったんですけれど、実際には毎年計画的にやってい
るんだそうです。ですから紙カルテのまま残っているのが結構な量、あるみたい
です」
　係長は大友さんに次ぐ病理部の古株で、病理部のヌシとは違って病院内の実質
的なことに精通している。その武村係長が『計画的に』というからには遅々とし
て進んでいないのだ。
　そこに当の紀和子が現れた。
「係長、やはりカルテは見つかりません。カルテ庫の人はマイクロフィルム化さ
れている時期だと言って調べたくれたのに見つからないんです。マイクロフィル
ムも、元の紙カルテもないんです。カルテ庫の係りの人も困っています」
　カルテは最低五年の保存が法的に義務付けられているし、患者はいまも膠原病
科に通院している。それに加えて乳腺のリンパ腫が見つかったのだから、その病
歴を記したカルテが見つからないというのは具合が悪い。
「マイクロフィルム化された時期だというなら元の紙カルテは処分されてしまっ

　
　　
たんじゃないか」
　今度は紀和子が教えてくれた。
「いいえ、マイクロフィルム化したり、デジタル化しても念のため３年間は紙カ
ルテを保管しているそうです。ですから時期から言って湯山さんのカルテもまだ
処分されていないはずです」
「それならカルテを借り出したり、閲覧したときの記録が必ず残されているだろ
う。誰かが借りたままにしているんじゃないか」
「確認しました。カルテの貸し出し簿にはきちんと貸し出しと返却の記録がある
んです。最後に貸し出したのは東日本大震災の年で、三年くらい前です」
　俺たちのやり取りを聞いていた和美が割り込んできた。
「高ちゃん、病院の女探偵の腕の振るいどころだよ、これは」
　そう言って紀和子をけしかけるのを係長が引き取った。
「いいわよ高ちゃん。もともとカルテ探しを手伝うように言ったのは私だから。
でも業務に差し支えないようにね」

　ふうむ、どうも不思議な光景だ。紀和子は慌てん坊の化身けしんで、去年の秋に病理

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第五話　行方不明のカルテ

に配属されて以来、病理部内を毎日のように恐怖に陥れているのに、今では何故
かみんなに可愛がられている。

　その日の夕刻には紀和子が俺の部屋に現れた。
「なんだ、紀和子か。その顔じゃカルテ探しは不調のようだな」
「ええ、困りました。係長の木場さんは今日の午後、時間を取って調べてくれた
んです。カルテ庫は係長ともう一人だけが正規の職員で、直接対応してくれる人
は結構な頻度で代わっています。今、窓口を担当してくれている人は二人います
けれど一人は半年前から、もう一人が二年くらい前からです。それ以前のことは
分からないって言っています。係長の木場さんもカルテ庫担当になったのは二年
と少し前からです」
「違うところに戻したんじゃないか？　細胞診の顕微鏡標本と同じで、借り出し
たのを仕舞い込むときに間違ってしまうとなかなか見つからないだろう。あれと
同じじゃないのか」
「ああ、意地が悪いです。先生はそうやって人の傷を突つくんだから」
　紀和子はつい二、三週間前に細胞診の標本を数日間借り出して、帰すときに違

　
　　
う年のところに戻してしまい、木下さんにこっぴどく叱られたばかりだ。その標
本を学会の症例に使おうとしたら見つからず、騒ぎになったのだ。厄介なことに
興味深い症例に限って事故が起きるのはカルテも病理標本と同じなのだ
「でも、そう思って似通にかよった番号のところも一緒にを調べました。でもやはりあ
りませんでした」
紀和子はいつになく気合が入っている。これは宮崎効果に違いない。
「カルテを見つからないと宮崎先生の研究発表が出来ません」
　まったくだ。


　このカルテ騒ぎは翌日、解決したように見えた。
　みんなが昼食に集まっているところに紀和子が元気よくカンファランス室に現
れた。
「ありました、ありました。今、カルテ庫の人が届けてくれました」
　そう言いながら紙袋に入ったカルテを大机の上にどさりと置いた。昨日の話を
知らないヌシがそれを咎めた。

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第五話　行方不明のカルテ

「高遠さん、相変わらずだわね。その話し方じゃ何があったのかさっぱり分から
ないわよ。ちゃんと５Ｗ１Ｈを言わなきゃ話は伝わらないって習ったでしょう」
　５Ｗ１Ｈか、さすがに病理部のヌシは古いことを知っている。
「ですから行方不明の湯山さんのカルテです」
　ヌシの戒いましめにもめげず高遠は意気揚々としている。せっかくだから俺も聞いて
みた。
「おい高遠紀和子、行方不明なのは湯山さんか、それともカルテのどっちだ？」
「もう、神城先生。わかっているくせに」
　焦れる高遠の代わりに大友さんが、今度は俺をたしなめてきた。
「神城先生、可哀想じゃないの。折角見つけたんだからいいじゃない。あまり理
屈っぽく考える必要はないわよ」
　噂好きの大友さんは言わなくてもいいことを口にせずにはいられないという性
分だが、それでも根は心優しいのだろう。　
「それなら一件落着だ。よかったじゃないか、紀和子」

　これでカルテ探しの騒動は終わりかと思っていたら、その日の晩、論文作成に

　
　　
呻吟しんぎんしている俺のところにその日も紀和子が顔を出した。宮崎は湘南の病院に出
かけてしまっているから、退屈しのぎに俺の論文の邪魔しに来たのかと思ったが、
そうではなかった。
「先生、さっきカルテ庫の木場さんにお礼の電話をしました。何で今までカルテ
が見つからなかったのか分かりました」
「ああ、それじゃ良かったじゃないか。宮崎に義理も果たせたし」
　ようやく格好のつき始めた論文に気をとられながら返事をすると、口を尖らせ
た紀和子が繰り返した。
「でも、謎なんです」
「そうか、それはいい…」
　俺が生返事をしかけると、途端に紀和子が突っ込んできた。
「先生、謎だと言われても反応しないんですか」
　まったくなんて奴だ。紀和子は片手を後ろに回し、わざとらしく腰に片手を当
てて眼鏡の奥から俺を睨んでいる。
「ひどいな、紀和子。気が抜けているように見えても俺だって少しは考えたぞ。
問題のカルテに何か事故があるのに誰かが気づいたんだろう。マイクロフィルム

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第五話　行方不明のカルテ

ム化するときに、それだけ取りのけたんだと思うね」
「あれ、何で知っているんですか？　さっき木場さんがまったく同じことを言っ
ていました。湯山さんのカルテは東日本大震災のときに整形外科に借り出されて
いて、その後に内科の先生が見ているです。その先生からカルテに不備があると
連絡があって、それで別にされていたんです。挟んであったメモには、一度整形
外科の医局にも連絡を取って探してもらったと書いてあったそうです」
「不備っていったい何だったんだ？」
「そのメモには不備があるとしか書いてなかったと言っています。どうも担当が
ちょくちょく代わるものだから話が伝わっていなかったようです。木場さんはそ
ういう時って、カルテが汚れていて読めないか破れていることが多いと言ってい
ました。でも、先生」
　と紀和子も食い下がる。
「やっぱり変です。見たところカルテに汚れたところはないですし、ちゃんとし
ているように見えます」
　カルテはちゃんとしている？　カルテは大切な記録書類だから誰かが異変に気
づいて事故扱いされたのだ。どこかに不備があるはずだ。

　
　　
「汚れていないならどこかが抜けているんじゃないか。探したことがあるという
ならカルテ庫でも同じことを考えたんだろう。少しは推理するんだな」
　推理という言葉を聞いて紀和子は嬉しそうな顔をした。
「やっぱり先生もそう思いますか。それならこの湯山さんのカルテのどこが抜け
ているか、一緒に調べましょう」
　そう言いながら高遠は後ろにまわしていた手に隠し持っていた紙袋を俺の前に
突き出した。中には昼食時にカルテ庫から届けられた分厚い二冊の紙カルテが入
っている。
「まさかそれを読めというんじゃあるまいな。それを見るのは宮崎の仕事だ。あ
いつに見て貰え」
「宮崎先生の仕事は研究発表に必要なことを調べることです。カルテに抜けてい
るところがあるかどうか調べるのは私たちの仕事です」
　いつから『私たち』になったのか知らないが、紀和子は妙に俺の心理のツボを
突いてくる。とは言うものの、やっと論文に目鼻がついてきてところなのだから
余計な事に気を取られたくない。
「今晩は勘弁して欲しいな。こいつを仕上げたい」

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第五話　行方不明のカルテ

　机の上に広げた引用文献のコピーとモニター上の論文の原稿を指し示した。
「どうせ宮崎は学会の準備で忙しくて乳腺のリンパ腫どころじゃないだろう。俺
の論文もやっとあと一息のところまで来たんだ。なんとか最後の詰めをしたいね。
頑張らないといつまでたっても仕上がらない」
「分かりました。それじゃ、私はカルテに眼を通して、抜けているところを探し
てみます」
　意外とあっさり引っ込んだが、これは自分でカルテを読んでみたかったに違い
ない。
「その代わり、チェックがすんだら一緒に見てください」
　それならいいよと俺は軽く返事をした。カルテに読み通すのは大変だから、紀
和子が少々頑張っても、この週末は論文作成に集中できると踏んだのだ。紀和子
はカルテを持って部屋を出て行ったが、まさかその晩のうちに眼を通しきるとは
思ってもいなかった。




　
　　

　２　欠　落

　集中力の必要な論文作成は俺には苦行だ。なかなか集中できなかったが、それ
でもいつの間にか没頭していた。
　病理の技師たちは帰宅し、病理医も次々に帰っていった。集中力が途切れ始め
た頃、カンファランス室から紀和子の足音が聞こえ、ほどなくコーヒーの香りが
漂ってきた。いいタイミングだ。これ以上論文に集中するには一杯のコーヒーが
必須に違いない。
　そう思って紀和子にコーヒーを所望しようとカンファランス室に顔を出すと、
大机の上に広げられたカルテの脇にコーヒーカップが二つとクッキーが用意して
ある。
　なんだか紀和子に手の内を読まれているようで悔しいが、目の前のコーヒーと
クッキーの誘惑には勝てそうもない。いいさ、頭脳労働にはカフェインだけでは
なくブドウ糖も不可欠だ。

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第五話　行方不明のカルテ

「紀和子、いいタイミングだな。ちょうどコーヒーが欲しいと思ったところだ。
クッキーも遠慮なく貰うよ」
　そういいながらコーヒーを口にすると、香りがいつもよりずっといい。俺が手
を止めると紀和子が優越感を漂わせて微笑んだ。
「コーヒーの香り、分かりますか、先生。夕べ、仲町台の駅前でちょっといい豆
を買ってきたんです」
「へえ、意外だな。コーヒーの違いが分かるのか」
「これくらい常識です。それより先生がこんなに遅くまで論文に集中していたほ
うが意外です。もっと早く音を上げると思っていました」
　痛いところを突いてくる奴だ。論文から意識が離れていきそうだが、それでも
意地を張ってみた。
「論文を書くのも大事な仕事だからな」
「それにしてはずいぶん時間がかかりますね。もう、去年の秋からやっているん
じゃないですか」
　なんということを口にする奴だ。慌ててコーヒーを飲み込み、話題を変えるこ
とにした。

　
　　
「それより随分と熱心にカルテを調べていたみたいだけれど、何か分かったか」
　俺の意識がカルテ調査に向いたことに気を良くして、紀和子が口元をほころば
せた。クッキーの大きなかけらを口に押し込み、それからゆっくりとコーヒーを
一口呑んでからやおら答えた。
「ええ、分かりましたけど分かりません」
「なんだ、その禅問答みたいのは？」
「ですから、やはりこのカルテはおかしいです」
「カルテを全部読んだのか」
　紀和子は首を振った。
「とてもこれだけの時間じゃ読みきれませんでした。ドクターの書いたところに
何とか眼を通しただけです。後ろの方の検査データや看護記録はまだ読めていま
せん」
　医者が書いた部分だけでも大変だったはずだ。手書き時代のカルテはほとんど
医師のメモ代わりで、個性的な字だとほとんど読めないことがざらにある。まし
てや略号を使いまくるからよほど頑張らないと判らないはずだ。
「それじゃ、どう変なんだ」

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第五話　行方不明のカルテ

「このカルテは途中で途切れています。最後のところが中途半端に終わっている
としか思えません」
「カルテが途中で終っているというのか？」
「ええ、ですから確かに事故カルテです。先生のいうとおり、カルテの一部が抜
けていて、それで整形外科の医局を探したんだと思います」
「それじゃカルテからは何もわからなかったのか」
「そんなことはないです。患者さんがこちらの病院でリウマトレックスを投与さ
れるまでのことは大体分かりました」
　そう言って患者の病歴を教えてくれた。

　湯山志津江ゆやましづえは八年前ほど前から発熱を繰り返していて、勤務先近くの内科医に
掛かっていたが診断がつかず、不明熱としてで中央病院の内科に紹介された。そ
こでやっと関節リウマチと診断がついて、その当時、関節リウマチを担当してい
た整形外科に転科したのだ。
　整形外科ではいくつかの抗リウマチ薬を使って見たけれど十分な効果が得られ
ず、結局リウマトレックスを使うことになったのだ。

　
　　
「薬がよく効いて、その後は症状が落ち着いていたようです。しばらくは時折、
診察して後は同じ薬を出していたんです。そのあと、カルテはいきなり終ってい
ます」
　カルテがあるのは東日本大震災の年の初めまでで、その後は関連の整形外科病
院に転院し、それから一年半ほどして患者はこの横浜中央病院にもどって来たの
だ。その間に病院は改修され、それを機会に病院のカルテは電子化されている。
紀和子はそちらにもざっと目を通したという。
「電子カルテには横浜中央病院に膠原病科が開かれることになり、湯山さんはそ
こでにレミケードの投与が始まったんです。薬の効果は順調でしたけど、今年の
五月に乳腺の腫瘤が見つかったんです」
「それじゃ紙カルテも電子カルテも変なところはないように聞こえるよ。紙カル
テの終り方はそんなにおかしいのか」
「相当おかしいです。ここを見てください。ここから先のカルテが抜け落ちてい
るんだと思います」
　そう言いながら紀和子はカルテに差し挟さまれた付箋のところを捲った。
「ここがドクターが書いた部分の最後です。日付は二〇一一年一月で、今から三

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第五話　行方不明のカルテ

年半くらい前です」
　紀和子に促されて開かれていたカルテを見た。そのページにはボールペンで丁
寧に記された何日か分の診察録と大前というサインが記されている。
「最後のページにはそれまでと同じように『病勢に変化なし』とドゥー処方が書
いてあって、いきなりここで終わっています。患者さんが病院を移る時ってもっ
といろいろなことを書くんじゃないんですか」
　言われるとおり、そのページには簡単な記録と前回と同じを意味するドゥー処
方が記入されているだけで、特別なことは何も書いていない。次のページをめく
くると、そこから先は看護記録になっている。確かにこれは転院していった患者
のカルテとは思えない。この続きがどこかにあるはずだ
「退院抄録か紹介先への紹介状のコピーがどこかに残っていなかったか？　あれ
ればその日付とカルテの日付を調べればいい」
「紹介状のコピーは探しましたけれど見つかりませんでした。湯山さんは外来で
すから退院抄録はないです」
「そうか。転院するならそういう書類もあるはずだから、一緒になくなっている
のか。患者が外の病院に出たのは確かなのか」

　
　　
「そのことは病理検査の申し込みに書いてありましたそれに。電子カルテの最初
のところには磯子からたち病院からうちの膠原病科に紹介された患者だって、記
録があります」
　俺は何ページかさかのぼってカルテを見てみた。几帳面な筆跡で診察の結果が
丁寧に記入されているが、あまり変化のないことが綴られているばかりだ。記録
の日付は紀和子の言うとおり、随分と間が開いている。
「カルテの記入って主治医以外にもするんですか。前のほうページには違う筆跡
がところどころにあります」
　そう言われて俺はカルテを戻ってみた。最初の方には書き慣れてはいるが読み
にくい筆跡が混じっていて、研修医の記載もあるようだ。
「それならからたち病院からこちらの膠原病科に転院した時の紹介状があるはず
だ。それに何か書いてなかったか？」
「ああ、それは思いつきませんでした。紹介状は必ずあるはずですね。すぐに調
べてみます」
　そう言って紀和子はカンファランス室にあるカルテ端末の前に移り、電源を入
れて操作を始めた。さかんにマウスを操作し、キーボードを叩いているが、あま

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第五話　行方不明のカルテ

り簡単ではないようだ。しばらく時間がかかりそうだから、俺は紀和子が用意し
てくれたカロリーたっぷりのクッキーとコーヒーの香りを楽しみながら待つこと
にした。

　マウスを操作している紀和子が盛んにぼやいている。
「電子カルテってわかりにくいですね。さっきも随分苦労しました」
　しばらくマウスを動かしていた紀和子がようやく手を止めた。
「これですね、紹介状が見つかりました。磯子からたち病院の院長から膠原病科
の渡辺先生宛です。これを見てください」
　俺が覗き込むとモニターには電子カルテに取り込んだ手書きの紹介状が開いて
いた。古いタイプの医者らしい達筆の紹介状だ。
「でも肝心のこちらの病院から磯子からたち病院に紹介されたのがいつなのか書
いてありません。これじゃ役に立ちません」
　紹介状には『以前、大学附属病院から紹介されて関節リウマチとしてフォロー
していた湯山さんを紹介します。患者の湯山さんは新しく使えることになった免
疫抑制薬（レミケード）を使いたいとの希望があり、大学病院での治療を希望し

　
　　
ています』と記してあった。
　もちろん紹介状の日付はあるし、デジタル画像に取り込みをした日付も分かる
が、最初に大学病院から磯子からたち病院に紹介された日付は書かれていない。
そのあとは患者の病状と簡単な検査記録があるばかりだ
「お互いに話がついていて紹介しているのだから、これでいいと思っているんだ
ろう。いつ磯子からたち病院に転院したかは、直接そっちの病院に問いあわせれ
ば分かるだろう」
「そうですね、そうしましょう。今日調べがついたのは、湯山さんを担当してい
たのは整形外科の大前先生です。最後にカルテを借り出したのは整形外科の秘書
さんでした。カルテを閲覧して問題があると申し出たのは大久保先生で、その頃
は附属病院の内科にいました。でも」
　と紀和子が続けた。
「これだけじゃカルテの紛失は整形外科が関係しているらしいことしかわかりま
せん」
「まあ、調査の初日としてはこんなものだろう。そんなにがっかりするな。とに
かくカルテの本体は見つかったんだから、宮崎への義理は果たせただろう」

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第五話　行方不明のカルテ

　気軽に言うと紀和子も気分を変えたようだ。今晩はもう遅いですから無理です
ねといいながら、電子カルテの端末の電源を落とした。
「何とか宮崎先生が福岡に出かける前に見つけ出したいです。今度の週末は母と
夏物を買いに行きます。ですから明日は頑張りましょう」
　紀和子はすっかり探偵モードだ。やれやれ、この週末は何とか論文を仕上げた
いが、これではどうなることやら。


　金曜日、昼食にしようと遅めにカンファランス室に行くと、例によって病理部
のヌシの大友さんが昼食時の話題をリードしていた。その日の食欲増進剤は霊能
力の話題だった。霊能力は個人差があって強い人はいろいろなことに敏感で、大
友さんもお墓の近くとか交通事故で人が死んだところにいくと何か感じるという
のだ。去年のクリスマスの晩の藤峰捜索の時にも、地下の病理解剖室近くには人
魂が見えると言い張っていた。
「そんなことないわよ。それがほんとだったら、病院なんて毎年何百人も死んで
いるんだから、人魂だらけになっているわよ」

　
　　
　これは木下主任だ。大友派らしい友永和美は、能力が高かったら駅前で占いを
やってみたいと言い、武村係長にたしなめられている。
　昼食時の食欲増進剤はいつものことだが、今日はどうも盛り上がりに欠けてい
る。いつもならどんな話題にでも反応よく食いつく紀和子がいないのだ。俺は霊
能力には興味がないから買ってきた弁当を黙って開いた。話題に乗らない俺を見
てヌシが催促してきた。
「先生も何か言ってよ。神城先生なんかいかにも霊能力が高そうなんだから」
　病理部のヌシは策士だ。これは大友派を増やす常套手段に違いない。
「霊能力なんて持っていないよ。質量もエネルギーも持たないものを見たり感じ
たりできる感覚なんて、持ち合わせていないね」
　冷たい反応に大友さんが俺を追求しようとしたところに、紀和子が上の階の売
店で買ってきた弁当を下げてカンファランス室に現れた。いつもは自前の弁当を
持ってくるのに珍しい。みんなと一緒に昼食を取るのかと思ったら、紀和子はそ
のまま通り過ぎようとする。
「神城先生、これからどうするか一緒に考えて下さい。宮崎先生と三人で相談し
ましょう」

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第五話　行方不明のカルテ

　俺はもちろんいいよと応じたが、紀和子にも無視されたヌシがむっとして、そ
れならと二人に向かってに爆弾を投げ込んできた。
「待って。大事な話があるわ。整形外科のカルテを探しているらしいけれど、あ
そこで二、三年前にカルテを紛失したという話があったわ」
　俺は構わず無視しようとしたが、紀和子がはっとして足を止めた。
　その反応に気を良くして大友さんが続けた。
「そのときに紛失したというのが、今、二人が探しているのじゃないかしら」
　さすがに病理部のヌシは人の気を引くのがうまい。紀和子が振り返った。
「それって湯山さんのカルテですか。だったら私達が探しているのと同じです」
「もう、随分前だし、患者さんの名前は知らないわ。でもそんなふうの名前だっ
たように思うわ」
　大友さんのわざとらしい話しぶりに紀和子はすっかり嵌はまっている。これは諦め
たほうがいい、というよりなにか役に立つ情報がありそうだ。まんまと紀和子と
俺を引き止めて病理のヌシは満足そうだ。
「大震災の時に整形外科のカルテが失くなってしまい、それを探しているって話
が裏ルートでひそかに伝わってきたわ。結局うやむやになってそのままらしいの

　
　　
だけど、その患者さんの主治医だった若手のドクターが、整形外科の部長と反そり
が合わなくて苛められていたのよ。その先生は本院にいたのだけど、関節リウマ
チを勉強したくてこちらに来たらしいわ。でも、秘書の人がそのドクターを可愛
がって、整形外科の鬼頭きとう部長はそれが気に入らなかったのが本当だという話も伝
わって来たわ。とにかく部長に苛められて若手のドクターは二年ほどで外病院に
出て行ったのよ」
　大友さんの面目躍如だ。紀和子が眉をひそめながら話を聞いている。
「私が伝え聞いた話では、整形外科で借り出していたカルテが失くなっているか
ら探して欲しいってカルテ庫から連絡があったとき、若手の先生はもう外病院に
出ていたし、整形外科の部長はその若手の先生がカルテをどうかしたんだろうっ
て言ったらしいわ。結局見つからずじまいだったのよ。あそこは今の教授が決ま
るときも大騒ぎだったし、昔から揉め事続きなのよ。だから気をつけないと地雷
を踏むことになるわよ。うっかり整形外科には関わらないほうがいいわ」
　整形外科の地雷を踏みたいとは思わないし、いつ飛んでくるか分からない大友
爆弾も浴びたくはないが、カルテ探しをやめたくもない。地雷の部分は聞き流す
ことにして、紀和子はもちろん、俺も話の続きを聞きたかった。しかし、俺たち

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第五話　行方不明のカルテ

の気をひきつけることに満足した大友さんは一息入れてから、俺たちをじろりと
睨んできた。
「あなたたちも霊を敬って祭らないと祟られるわよ」
　と俺たちに呪いをかけておいて整形外科の医局の話は打ち切ってしまい、また
霊能力の話に戻ってしまった。

　大友さんの手玉に取られた俺たちには打つ手はない。俺と紀和子は顔を見合わ
せ、あきらめて宮崎の待つ医師顕鏡室に向かったが、その日は厄日だったのか、
それともヌシの呪いか、俺たちの作戦会議はあっさり流れることになった。小池
技師が無情にも病理解剖の依頼を告げに現われたのだ。その日の解剖当番は宮崎
で、俺はその病理解剖の前立ちをすることになっていた。補助に入る技師も紀和
子でなく、木下主任と友永和美だった。





　
　　

　３　根回し

　病理解剖を済ませ、その日の午後も遅くになってようやく俺の部屋で紀和子と
顔をあわせることができた。宮崎も計画に参加したがったが、病理解剖が済むと
すぐに湘南市民病院に出かけなければならなかった。
「あのタイミングで解剖の依頼とは神様も意地悪だったな。カルテの内容を詳し
く調べるのは宮崎に任せるとして、本気でカルテの抜けている部分を探すのか」
　俺の口ぶりに消極的な気配を嗅ぎ取った紀和子は鼓舞するように、やる気いっ
ぱいで昨日と同じように宣言した。
「もちろんです。宮崎先生が福岡に出かけるまでに見つけ出します」
「おいおい、宮崎は来週の水曜日には出かけるんだろう。土日を別にすれば三日
しかないぞ」
　宮崎が絡からんでいるとあって紀和子はすっかりむきになっている。
「宮崎先生は頑張って今日も湘南市民病院に出かけましたし、明日の土曜日にも

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第五話　行方不明のカルテ

出かけて学会発表の準備をするそうです。それなのに日曜日には以前からの約束
で蝶の採集に出かけるんですよ」
　おやおや宮崎が自分より虫取りに夢中になっているの察知して、それで虫に対
抗しようとしているのか。
「ですから、早くカルテを探しましょう」
　探偵モードになった紀和子は今にもカルテを探しに行きかねない勢いだ。
「まてまて、紀和子。探すっていってもいったいどこを探すんだ。去年のクリス
マスみたいに病院中を探すのはごめんだ。これでも何かと忙しいんだ。大体、今
までに分かったことだってろくろく整理がついていないぞ」
　紀和子が相変わらずハイテンションのまま俺を見てきた。
「探す場所はわかっています。整形外科の医局の中です。それにしても」
　とわざとらしく言葉を切ってから付け加えた。
「テンションの低い先生って役に立ちませんね」
　夕べといい、なんということを言うんだ。俺にはかまわず紀和子は用意してい
たノートを広げて差し出してきた。
「これならどうですか。先生と宮崎先生が解剖をしている間に調査したことを整

　
　　
理してみました」
　差し出されたノートには今までに分かったことが、三つの項目に分けて要領よ
く整理されている。

　カルテ
　① 発端は借り出そうとした乳腺リンパ腫患者の紙カルテ全体が行方不明
　② 見つかったカルテは医師記入の最後の部分が欠落
　③ 大震災の前日、整形外科の秘書に借り出され、震災後の月曜日に返還
　④ 震災後にカルテに不備と連絡（内科大久保医師）、マイクロフィルム化は
　　 保留
　⑤ 大久保医師のいう不備は何か？　欠落だけ？

　担当医
　① カルテ患者の主治医はＤｒ大前
　② 関節リウマチの勉強で附属病院から中央病院に異動してきた
　③ 大友情報では鬼頭部長に嫌われ、苛められていた

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第五話　行方不明のカルテ

　④ 震災後に外病院に転勤

　患者
　① カルテの患者（湯山さん）は八年前に関節リウマチを発症し、改築前の整
　　 形外科でリウマトレックスを投与
　② 大震災の年に磯子からたち病院に転院し、一年半前に中央病院に戻って膠
　　 原病科に通院開始（以後は電子カルテ）
　③ 膠原病科でレミケードを投与され、乳腺腫瘤（悪性リンパ腫）を発症
　④ 休薬しても腫瘤の縮小は見られず、血液内科に転科、化学療法へ
　⑤ 神城先生はリンパ腫の組織型に疑問

　なるほど武村係長の指導の甲斐かいあって、紀和子もメモを取るのに慣れたと見え
る。これなら仕事も探偵業も大いに期待できる。俺が感心すると気をよくした紀
和子が勢い込んで話を続けた。
「カルテ庫に大久保先生から連絡があったのが四月で、そのひと月前の大震災の
ときに整形外科でカルテが借り出されていますから、このときに何かあったに違

　
　　
いないです」
「それはそうだが、医局のどこを探そうと言うんだ」
　と、口にしたところで気がついた。三項目の後に斜めに走り書きされた追加メ
モがある。

　◎Ｄｒ大前　『大震災のとき、カルテはドクターの私物と一緒に同じところに
落下』

「大前の名前があるけれど話が聞けたのか」
　聞くと紀和子の表情が渋くなった。
「ええと、だめでした。さっき、勤めている病院に電話してインタビューを申し
入れたんです。湯山さんのカルテの一部が抜けていてそれを探しているって伝え
たら、大震災の当日にカルテを借り出していたのは確かに自分だけれど、カルテ
探しの件はもう済んでいるんじゃないか、あの頃のことは思い出したくもないっ
て繰り返していました。ほとんど話をしてくれませんでした」
　紀和子の本領発揮だ。乱暴というかまったく行動が直線的だ。準備も根回しも

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第五話　行方不明のカルテ

ない。
「大前先生はあの日、調べたいことがあって湯山さんのカルテを秘書の相良さがらさん
に頼んで借り出していたんだそうです。『カルテは机の上から落ちて、他のドク
ターの机から落ちた私物と一緒になってしまっていた。綴じ紐が解けていたみた
いだから、カルテから抜けている部分があるというなら一緒に落ちていた何かに
紛れ込んだんだろう』って言われました」
「カルテ探しはうやむやになってしまったと伝えたのか？」
「ええ、言いました。でももうそれ以上話したくないって言うんです」
「それじゃ、地震の後にカルテをどうしたのか聞けなかったのか」
「少しだけ聞けました。カルテは誰かが拾い上げて机の上に戻してくれてあって、
それを翌週の月曜日には秘書さんに渡して返してもらったそうです。『拾い上げ
てくれた人が解けていた綴じ紐を結び直してくれたらしく、蝶結びが不揃いだっ
たのでそれを結び直しただけで、すぐに相良さんに渡した』って言うんです。電
話を切られてしまって、それ以上は聞けませんでした」
「なるほど分かったよ。カルテの一部がどこかに紛れ込んだのなら、確かに整形
外科の医局だろう」

　
　　
「そうです。だから早く医局を探しましょう」
「しかしなあ、整形外科の医局は一度探されたのに見つからなかったんだろう」
「ええ、そうですけれど、原発事故の騒ぎの真っ最中でしたし、探し方がきっと
いい加減だったんです」

　紀和子はカルテの紛失を本気で事故だと信じているのだろうか。俺には誰かが
抜き取ったとしか思えない。カルテが失なくなるのはいつだって誰かが何か不都合
なことを隠そうとしているときだ。
　黙っていると紀和子が俺の考えに気がついて先回りしてきた。
「ええと、誰かが意識して抜き取ったらそれは犯罪です。それなりの動機がある
はずですけど今はわかりません。それにそう考えていたら、インタビューして話
を聞くのが難しくなります。いまは何よりカルテを見つけるのが先決です」
　へえ、紀和子でも気を使うんだ。
「私は取り敢えず事故説で調べますから、先生は性悪説せいあくせつで調べてください」
　性悪説と来たか、いいだろう。俺は何か悪巧みをしてカルテから大事な部分を
抜き取った奴を探すとしよう。幸いに疑わしい奴は多くない。

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第五話　行方不明のカルテ

「いいよ、それなら紀和子はまずは医局で紛失したカルテを探してくれ。まだ処
分されていないんなら、確かに医局にあるだろう」
「そうします。私は今までに名前の挙がった人から順に聞き取りをして、それが
済んだら何とか医局を探します」
　そう言いながら紀和子は整形外科の鬼頭部長、患者の主治医だった大前医師、
カルテの欠落に気づいて指摘した大久保医師、カルテ庫の木場係長と順に対象者
をメモに書き付けた。
「大前先生には電話で少し聞いただけですから、もう一度トライして、なんとか
もっと聞いてみたいです。最後の木場係長はもう随分聞きましたからリストから
外していいですね」
　そう言いながら紀和子は木場係長の名前に線を引いた。その代わりもう一人を
付け足した。
「整形外科の医局秘書さんから話を聞かないといけないですね。仕事がら医局の
ことを一番よく知っているはずです」

　聞き取り対象のリストが出来上がると、紀和子はまず、整形外科の部長に連絡

　
　　
を取ると言い出した。もちろん聞き取り対象の重要人物だが、大友さんの言うと
おりの部長なら少しは気を使ったほうがいい。
「待て待て、紀和子。整形外科部長に話を聞くのはいいが、相手は部長だ。少し
は筋を通そう。まずはカルテ庫からもう一度カルテ探しをすると整形外科に通報
してもらおう。それに俺たちにカルテの調査の依頼があったという形にしたほう
がいい」
「それならカルテ庫の木場係長に連絡します。木場さんはこの間私たちに探して
欲しいようなことを言っていましたから都合がいいです」
　どうやら紀和子の活躍はカルテ庫にも伝わっているようだ。それなら利用しな
い手はない。
「ついでに木場さんから副院長にも俺たちにカルテ探しを頼んだって連絡して貰
ってくれ。そうしておけば整形外科の医局も調べやすいだろう」
　俺の話が終わるか終わらないうちに紀和子は行動を開始した。木場さんが帰ら
ないうちにと紀和子は立ち上がり、ぬけぬけと言ってくれた。
「神城先生がそんな根回しをするなんて思いませんでした。まるで副院長みたい
です」

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第五話　行方不明のカルテ

　なんてことを言うんだ。返事に窮きゆうしている俺を尻目に紀和子は電話をかけに技
師室に戻っていった。

　ほどなく紀和子は技師用のＰＨＳを手にして上機嫌で戻ってきた。
「木場さんに連絡しました。木場さんも前任者からの引継ぎのノートに『問題の
カルテは一部抜け落ちていると連絡を受けて整形外科の医局を調べた』とメモさ
れているのを見つけたそうです。その部分をもう一度探してほしいと整形外科の
医局に連絡してあると言っていました。私たちに調査を依頼したって連絡し直し
てくれるそうです。仲西先生にも連絡しておいてくれるように頼みました。それ
に今、鬼頭部長と連絡を取ろうとしたんですが、何かの会合に出かけているそう
で不在でした。そのかわりに」
　そう言って紀和子は話を続けた。
「まだ、秘書の相良さんが残っていて、待っていてくれると言っていますから話
を聞いてきます」
　紀和子はそう言い置いて身を翻し、病理部を出て行った。


　
　　

　探偵モードになったときの紀和子の身軽さは 驚嘆きようたんに値する。宮崎はそれを目
の当たりにして『捉えどころのない幻の揚羽蝶あげはちようのようです』と言っていた。
　ブータンの奥地にいるという、幻の揚羽蝶に喩えるとは宮崎も紀和子を随分と
高く買っている。俺にはぶんぶんと飛び回るうるさい虻あぶか、せいぜいうっかりす
ると刺される蜂にしか見えないが。

　紀和子が颯爽と出かけて行った後、俺は自分の部屋に引っ込んで論文作成に意
識を集中しようとしたが無駄だった。紀和子の聞き取り調査の結果が気になるが
なかなか戻らず、それならと紀和子が置いていった湯山さんの紙カルテを見るこ
とにした。
　はじめから見てみてみると、主治医は大前だと言っていたが、最初は鬼頭が担
当していた。大前が主治医になってからは几帳面な筆跡が続いているが、ところ
どころに鬼頭のらしい筆跡と研修医の筆跡で書かれた部分がある。丁寧に見てみ
ると最後の頃の記載がどうも不自然にまばらだ。治療が順調でカルテの記載が簡
単だとしても記録は間が開きすぎている。紀和子が見つけた部分だけでなく、こ
れはほかの部分も抜き取られているようだ。

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第五話　行方不明のカルテ

　紀和子を待っている間に病理部の医師も技師も次々に帰って行き、隣の医師検
鏡室に村田さんが残っているだけになった。さらに看護記録を調べようとしたと
ころに紀和子が戻ってきた。結構な時間がかかっているし、満足そうな顔だ。
「話を聞いてきました。ちょっと待ってください。相良さんから手作りのクッキ
ーを頂いてきましたから、紅茶を用意してきます」
　そう言って紀和子はカンファランス室に向い、程なく二人分のカップとクッキ
ーの用意されたお盆を持って現れた。途中の医師検鏡室でも少し時間がかかって
いたから村田さんにもサービスしたのだろう。俺の狭い部屋のスツールに腰を下
ろすと紀和子は眼鏡をぐいと押し上げて話し出した。









　　

　４　医局秘書

《紀和子の調査記録》
　医局は病院五階の中央を南北に貫く廊下の突き当たりにある。幾つかの医局の
前を通り抜け、整形外科の医局にたどり着いた。私がドアを開けると入り口近く
に秘書コーナーがあり、そこでお茶を用意して相良さんが待っていてくれた。
「お待ちしていました、高遠さん。評判は前から伺っていました。あらまあ」
　そう言いながら相良さんは私を見上げた。それ以上は口にしなかったが、私の
評判は聞いていてもどうやら背高のっぽだとは知らなかったらしい。
「今日の午後にカルテ庫から連絡があったことは、さっき鬼頭部長にも話をして
あります。実はその時は思いつかなかったんですが高遠さんから連絡を貰ったと
きに、そういえばこういうときこそ高遠さんが適役なのを思い出しました」
　相良さんは品のいい中年の女性で、そう言いながら自分の机の脇に用意してあ
った椅子を勧めてくれた。

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第五話　行方不明のカルテ

「ごめんなさいね、応接コーナーが向こうにあるんですけど、あそこは若いドク
ターがいつも使っていますから、ここのほうが落ち着くと思います」
　指し示された先にはスチール製の戸棚があり、その向こうにドクターの机が並
んでいて、何人かが座っているばかりだ。
　私が医局の様子を見ていると、それに気がついて相良さんが説明してくれた。

　応接コーナーはスチール製の戸棚に隠れていて、部長室はさらにその奥にある
のだという。私が戸惑っていると、メモ用紙に簡単な配置図を描きながら説明し
てくれた。部屋の中央部分には電子カルテの端末を何台か置いたデスクとキャビ
ネットがあり、その右手にはベテランドクターのパーティションと非常勤の医師
の机も用意されていると教えてくれた。部屋の入り口に近い相良さんのコーナー
からは若手の医師の机が背中わせにならんでいるのが見えているが、ひどく乱雑
で、整頓された気配がまるでない。
「部長室やベテランの先生、それに共用の部分は私が管理しているからいいんで
すけど、若手の先生の机はアンタッチャブルなのよ。だからご覧のとおりなの。
特に最近の若い研修医の先生はひどいんですよ」

　
　　
　確かに相良さん管理下だといったところは整然としているけれど、若いドク
ターの机の上にはあらゆる書類と専門書が雑然と積み上げられ、その間に私用の
パソコンが無造作に置かれている。相良さんの言うとおりだ。
「これで地震があって揺れたらどういう状況になるかわかるでしょう。三年前の
大震災のときは本当にひどかったわ」
　ちょうどいい具合に話題が震災に移ったので、私は早速、大震災の前後のカル
テの様子を聞くことにした。
「震災の日の直前に、相良さんが湯山さんのカルテを借り出していたって聞きま
したけど」
「そうなんです。大前先生に借り出してほしいって頼まれて、震災の前日に研修
医の先生に頼まれたカルテと一緒に借りておいたんです。それをその日のうちに
お二人の先生に渡しました」
　散らかっているドクターの机に視線を走らせると、相良さんがつけ付け加えた。
「大前先生だけは特別だったわ。とてもきちんとした先生で、自分の机をよく片
付けていました。大前先生はカルテや大事な書類はご本人が病院にいる間はとも
かく、帰るときは机の引き出しにきちんと仕舞いこんでいました」

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第五話　行方不明のカルテ

　そう言う相良さんはとても優しい表情だ。
「それに大前先生はとてもしっかりしていて頼もしいんです」
　大友さんが言っていたのは本当のことだ。相良さんは大前先生を可愛がってい
たのだ。もう少し大前先生のことを聞いておきたい。
「随分几帳面きちようめんなんですね、大前先生って」
「ええ、そうでした。もともと、そういう性格なんでしょうね」
「大地震の日、大前先生ははカルテをどうしていたんですか」
「あの日は午後からリウマチ外来のある日でしたけれど、午前中は大前先生に仕
事のない日で、病棟を回った後はいつもカルテの整理や勉強をしていました。そ
の日は私が出勤したら、コーヒーがほしいというので、用意して大前先生の机ま
で持って行きました。そのときには湯山さんのカルテを開いて調べていました」
　相良さんの返答はよどみがない。
「随分、よく覚えていますね」
「ええ、あの地震のことは一生忘れられないわ。原子力発電所の事故もありまし
たし。それに地震の後しばらくして、カルテ庫の人からカルテの一部が抜けてい
るという連絡があって随分探しました。地震のあった日、カルテをどうしていた

　
　　
かを大前先生にも聞いたりしましたから、それで覚えているんです」
「それじゃ、その日の午後に大前先生が外来に行っている間もカルテは机の引き
出しに入れられていたんですか」
「いえ、大前先生が外来に行っている間はそのまま机の上に置いてありました。
コーヒーカップを下げに行った時に机の上に置いたあるのが見えたんです。カル
テは閉じられて、きちんと机の上に置いてありました」
「そのままにしておいたんですね」
「ええ、外来から戻ったらまた見ようとしていたんだと思います」
「そのあとも変わったことはなかったですか？　誰かが触った様子はありません
でしたか」
「あの、午後の二時頃に部長先生が外来の途中で、一度医局に戻ってきました。
外来の予約のキャンセルがあって、ちょうどいいので何か部屋に忘れたものを取
りに来たとかで、いらっしゃたんです。あの、そのとき部長先生が大前先生の机
の脇を通りかかって、机においてあるカルテに気がついて私を呼んだんです」
「なにか聞かれたんですか」
「そのカルテを大前先生が借り出したのかって」

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第五話　行方不明のカルテ

「手に取っていたんですか」
「ええ、手にしてぱらぱらと捲っていました」
　私は勢い込んだ。相良さんは別にして大前先生だけではなく鬼頭部長もカルテ
に興味を示し、手にしたのだ。
「鬼頭先生は何かしていましたか」
「いえ、何かつぶやいてそのまま元に戻しました」
　この場面はできるだけ詳しく聞いておきたい。
「何で鬼頭先生はそのカルテに興味を持ったのか分かりますか」
「ええと、そこまではちょっと分からないわ。でも、その患者さんは以前、大前
先生が主治医をしていた方だと聞いた事があります」
「大前先生は何でそのカルテを借り出したんでしょう」
　私が勢い込んでたずねると、相良さんは戸惑いながら答えた。
「ええと、何か研究しているって聞いたことがありますが、それ以上のことは分
かりません。研究の内容まではちょっと」
　相良さんにそこまで期待するのはさすがに無理なようだ。話題を変えることに
した。

　
　　
「あの、お聞きしにくいことですけど、何か鬼頭先生と大前先生との間にトラブ
ルあったと聞いているんでけど、何かご存知ですか」
　私が尋ねると、相良さんは困った表情をした。
「あら、やっぱりご存知なのね。こういうことを私みたいな立場で言っていいこ
となのか分からないですけど」
　そう言って、言葉をとぎらせた。私は黙って待った。結局相良さんは溜息をつ
きながら先を続けた。
「大前先生は部長先生に嫌われていたいうのが本当なんでしょうね。あの几帳面
な性格がそもそも部長先生とは合わなかったんだと思います。ちょっとしたこと
で苛められていました。部長先生が大きな声で大前先生を叱っていたこともあり
ます。私も怖くて、そのことは出来るだけ避けていたんです。大震災の前の年の
暮れにも何か随分 悶着もんちやくがあったみたいで、部長先生が大前先生に何とかしろっ
て怒鳴っているのを聞いたことがあります。結局、震災のあった年の四月には大
前先生は外の病院に移っていきました」
　こうなるといよいよ大前先生にもインタビューする必要がある。そのうちもう
一度連絡をとることにして、もう少しカルテのことを聞いておくことにした。

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第五話　行方不明のカルテ

「それじゃカルテは地震のとき、大前先生の机にあったんですね」
「ええ、大前先生は地震の来る前には外来が済んで医局に戻っていましたから」

　相良さんは地震のときの様子も話してくれた。
「二時過ぎに大前先生が外来から戻ったので、お茶は机に持っていきました。先
生は応接セットのところで研修医の先生と少し話をして、それから机に戻ったよ
うでした。少したってその研修医は病棟に行くといって医局から出て行き、それ
からしばらくしてからです、地震に襲われたのは」
「随分と揺れたんでしょうね。私はその地震のときは家に居ましたけれど、しば
らくは母と連絡が取れずに随分心配しました」
「ええ、ここは五階ですからとても揺れました。ドクターの机の上に積んであっ
たものが大きな音を立てて落ちて、私は恥ずかしいですけど悲鳴をあげて、脇に
あるスチールの戸棚にしがみ付きました。それはしっかり壁に留めてあるのを知
っていたんです」
　お茶を一口飲んで一息入れ、相良さんは話を続けた。
「悲鳴を上げたら、自分の机から大前先生がよろめきながら私のところに来てく

　
　　
れました。先生方の机からは書類やパソコンがばらばらと落ちましたし、私の机
からも広げていた書類が落ちました。研修医の先生のために借り出していたカル
テも落ちました。大前先生の机の近くにあったあのキャビネットは扉が開いてい
たらしくて、研究資料が飛び出してしまいました。その中を大前先生は来て、私
の肩を抱きかかえてくれて、二人して揺れがおさまるのを待っていました」
　相良さんが続けた。
「お蔭でそのあとは落ち着いていられました。私のところは娘二人きりで、ああ
いう息子がほしかったわ」

「大変だったんですね。私は大学の三年生の春休み中でした。その日はほとんど
やることもなく家にいただけですし、階が低いので、棚から少しものが落ちただ
けでした。その時、医局にはほかのドクターはいなかったんですか」
「外来の終った戸山先生と研修医の大野先生はもう戻っていました。部長先生は
まだ外来でしたし、益田先生はその日の午後はリハビリセンターに行っていまし
た。揺れがおさまった後、戸山先生が病棟を見に行こうとおっしゃって、大前先
生も益田先生と一緒に出かけました。私には医局に問題があるか調べておいてく

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第五話　行方不明のカルテ

れるようにおっしゃって、片付けは病棟から若手が戻ってからでいいだろうって
言ってくれたんです」
「医局はどんなだったんですか」
「私の机の上とドクターの机からはいくつも物が落ちましたし、私用のノートパ
ソコンもいくつかは落ちていましけれど電子カルテの端末はどれも無事でした。
それにさっきも言ったとおりで書棚とキャビネットからも本や書類が随分落ちて
いましたが、幸いそれだけでした。部長先生の部屋も積み上げられていた本と書
棚の本が落ちていましたけれど、大きなトラブルはありませんでした」
「その間、湯山さんのカルテはどうなっていたんでしょうか」
「そのときはとてもそんなことまで考えませんでした。後になって大前先生に聞
いたら、地震の時はカルテを調べていたそうです。地震の後で医局の様子を見た
ときには自分の机の上からパソコンとカルテは落ちていて、他のドクターの机か
ら落ちたものと一緒くたになっていたということです。そのときはパソコンだけ
を拾い上げただけで、カルテには気がつかなかったそうです」
　地震のときの医局を想像してみた。ここは五階だし、私の家のある都筑区とは
違って昔は埋立地だったというから、相当に揺れたのだろう。

　
　　
「地震のあと、カルテはいつ拾い上げたんですか？」
「地震の揺れが落ち着いてしばらくしてから、病棟に行っていたドクターたちが
戻ってきたので、皆んなで医局を片付け始めました。大前先生の後ろのドクター
の机からも書類が落ちていて、ひどい状態でした。私はそこは大前先生たちに任
せて、部長室を片付けました。落ちていたものを拾い上げて、机や棚に戻したん
です。部屋の片付けが済んだところで、鬼頭先生の声が聞こえたので医局に戻り
ました。研究ファイルのキャビネットの前で、部長先生が落ちていた研究ファイ
ルを片付けようとしていたので、わたしはそれを手伝ったんです」
　そういえばさっき、カルテも一緒だったと言っていた。
「あの、カルテと研究ファイルは同じところに落ちていたってお聞きしましたけ
れど」
「ええ、研究ファイルの入っていたキャビネットは大前先生の机の近くで、扉が
開いていたらしく、そこから飛び出していました。片付けをしているとき、部長
先生の脇にカルテが置いてありました」
「研究ファイルって棚から落ちると用紙が飛び出てしまうんですか？」
「もともとあまりきちんと整理されていたわけではないですし、ファイルバイン

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第五話　行方不明のカルテ

ダーは古いタイプで、落ちた時の衝撃で何冊かは開いてしまっていました」
「カルテも研究ファイルみたいにバラけていたんですか？」
「えーと…」
　そう言って、相良さんは一瞬考え込み、それから答えた。
「私が研究ファイルを片付けていたら、部長先生がカルテを手にして『解けてい
た』と言いながら綴じ紐を結び直そうとしていましたから、カルテの中身も飛び
出していたんだと思います。そのとき災害救急本部から鬼頭部長に急いで来て欲
しいと連絡があって、部長先生はカルテを私に渡して、若いドクターを二、三人
連れて行きました」
　研究ファイルは簡単に片がつき、渡されたカルテは大前先生の机の上に戻した
という。
「部長先生が結んだ綴じ紐は長さが揃っていなかったので、私がそれを結び直し
て大前先生の机の上に戻しました。部長先生って不器用で、紐の両端を揃えて結
べたことってないんです」
「大前先生も一緒に行ったんですか」
「いいえ、大前先生は病棟から戻っていましたが、医局と病棟の担当になりまし

　
　　
た。それで医局の整理を手伝ってくれたんです」
　なるほど、震災の日のカルテの様子は分かった。
「大変だったんですね。相良さんはその日、家に帰れたんですか」
「私の主人は東京に勤めているんです。何とか連絡はついたんですが到底その日
のうちには帰れそうもなくて、帰ってきたのは翌日でした。娘二人にはなかなか
連絡がつかなくて心配したんですよ。でも、午後の八時ごろには連絡がついて、
無事なのでとっても安心したんです。横浜はあまり被害も出ませんでしたし、怪
我した人もほとんどいなくて、災害救急本部も縮小されることになったんです。
鬼頭部長はまだ残ると言っていましたが、戸山先生が車で帰ることになり、私は
それに便乗させてもらいました。夜の十一時くらいでした」
　相良さんが時計をちらりと見た。そろそろ終わりにしなければならないようだ
がもう少し聞いておきたい。
「あの、カルテはいつ返したんですか？　あの地震の日には返せなかったですよ
ね」
「ええ、週が明けた月曜日に大前先生が、とりあえずカルテ庫に帰しておいて欲
しいと言って私のところに持ってきてくれたんです。それで、別に借り出してい

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第五話　行方不明のカルテ

たもう一人の患者さんのカルテと一緒に返しました」
「受け取ったカルテに変わったことはなかったんですね」
「ええ、特にはなかったです」
　そう言いながら相良さんは立ち上がった。もうひとつ聞きたいことがある。私
は一緒に立ち上がりながら訊いた。
「カルテ庫から湯山さんのカルテに問い合わせがあったんですよね。いつ頃なん
ですか」
「地震のあと、一月くらい経ってからだと思います。四月の半ばぐらいでした。
カルテの一部が抜けて居るらしいから、探してほしいって言ってきたんです。そ
れで随分いろいろなところを調べたんですよ。若いドクターの書類も、紛れ込ん
でいないか調べてもらったんですが見つかりませんでした。大前先生にも聞いて
みました。もう外の病院に転勤していましたから、そちらの病院に電話して聞き
ましたけれどわかりませんでした」
　そこで相良さんは少し逡巡しゆんじゆんしたが、気を取り直して話を続けてくれた。
「でも変なんです。震災のときキャビネットからも研究ファイルが落ちてバラけ
ていましたから、私がそれを調べようとしたら部長先生は研究ファイルは素人が

　
　　
いじくるとわけがわからなくなるからって、御自分で調べると仰ったんです。そ
れなのに翌日、私に手伝わせて一緒に調べたのに見つかりませんでした。それで
カルテ探しは終わりになりました」
　部長は研究ファイルに随分と執着しゆうちやくしている。
「どういうふうに調べたんですか？」
「ええと、私がファイルを取り出して部長先生に渡し、それを捲って調べていま
した」
「いちいち丁寧に捲って調べていったんですか」
　私の質問に相良さんが戸惑っている。それなら私から言った。
「きちんと調べていないんですね」
「あの、そんなに丁寧に調べていたようには思えませんでした。適当に見ていっ
たという感じです」
　相良さんが自分のロッカーから上着を取り、袖を通した。
「今日は主人が食事をしてくるというので、遅くまで病院にいられましたけど」
　と断りながら相良さんは帰り際に心配そうに私に聞いてきた。
「カルテって大事なんですよね。失くしたら何か責任を取らなくちゃいけないん

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第五話　行方不明のカルテ

ですよね」
「カルテは公文書みたいなものだと教えられました。わざと抜き取ったりしたら
問題だと思いますすけど、あの大震災のときにどこかに紛れ込んだのなら心配な
いと思います」
　相良さんが私の話を聞いて少しは安心したようだ。帰り際に手をつけていなか
ったクッキーを手作りだと言って包んで渡してくれた。


　紀和子は初対面の相良さんから随分と聞き込んできている。眼鏡を掛けた背高
のっぽに似合わずどこか害のない子猫のように見えるらしい。紀和子はさっきの
調査メモに相良さんの聞き取りの結果を書き込んでいる。
「これで随分充実しました。どうですか」
　手渡してくれたノートには新しい項目が出来ていた。

　大震災当日とその後（相良さんのインタビュー）
　① カルテは前日、相良さんが借り出し、地震の日の朝、大前ドクターが見て

　
　　
　　 いた。外来の間は机の上に閉じて置かれていた。
　② 二時ごろ部長が医局に戻り、大前医師の机の上のカルテに気づく。手にし
　　 て捲って見ていた。
　③ 地震の時、カルテは大前ドクターが見ていて、他の医師の書類や研究ファ
　　 イルと同じ場所に落下した（大前ドクター、相良さん）。
　④ 地震の後に部長が一時的に医局に戻った時、落ちていた研究ファイルを相
　　 良さんと一緒に拾い上げた（相良さん）
　⑤ カルテは部長が拾って、解けていた紐を結びなおして相良さんに渡した。
　⑥ 翌週の月曜日カルテは相良さんが返却し、カルテ庫に戻された。
　⑦ 一月後、カルテの欠落がカルテ庫から連絡され、医局を探したが、見つか
　　 らなかった。
　⑧ 研究資料のファイルは鬼頭部長が相良さんに手伝わせて自分で調べたが、
　　 カルテはなかった（調べたのは鬼頭部長）。

「随分いろいろ聞いてきたな。大震災の日が問題なのは分かったよ。湯山さんの
カルテを借り出したのが地震の前日で、返したのは翌週だったんだな」

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第五話　行方不明のカルテ

「そうです。それはカルテ庫の記録でも調べましたし、相良さんも同じ事を言っ
ていました」
「そうすると、カルテを借り出してから大前に渡すまでと、大前から返してもら
った後が相良さん、その間を大前がカルテを持っていたわけだ」
「それに大前先生が机に置いておいた間にちょっとだけ鬼頭部長が手にしていま
す。あ、まさか先生、相良さんを疑っているんじゃないですよね」
「まあ、彼女だと考える理由はないだろう。俺の性悪説でもそれこそ動機を思い
つかない。今までに集まった情報では部長か大前が第一の容疑者だ」
　それでも紀和子は俺を探るように見てきた。いいだろう、相良さんが第一候補
ではないのは確かだ。
「それでどうだ、相良さんの話は」
「ええと、いくつか疑問があります。相良さんにはああ言ったんですが、カルテ
って書き直したり、捨てたりしたら犯罪ですよね」
「医師法で五年間の保存が義務付けられているよ。ここは公立の大学だから公文
書になるのかな。事故でなくした場合は管理責任を問われるけれど、犯罪という
ほどのことはないだろう。裁判になるような問題のときに意識的にカルテを隠し

　
　　
たりするのとは違うね」
「ああ、そうだったんですね。もう一つあります。紙カルテってそんなに簡単に
綴じ紐が解けるんですか」
「試してみたことはないが、簡単には飛び出さないだろう。紐で綴じたカルテは
すぐに紐が解けるし、ぐずぐずになるけど用紙が飛び出すにはあの長い紐を潜り
抜ける必要があるからな」
「じゃあ、カルテが研究ファイルと同じところに落ちてもそんなに簡単に紛れ込
むことはないですよね」
「そういうことになるな」
　俺の返答に紀和子が考え込んでいたが、やがて思い直したように明るい表情に
なり、あしたは母親とデートだと嬉しそうに言って、週があけたら早速二人に連
絡を取ると宣言した。帰りがけにこれは預かっておきますねと言ってカルテの入
った布袋を大事に抱えていった。

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第五話　行方不明のカルテ

　５　最後のピース

　土曜日に俺は午前中から病院に出かけた。紀和子は母親とデートだというから
今日はゆっくり論文に集中できると思ったのだ。昼前にようやく論文作成が一段
落した。これでおれの奥さんに英文の校閲を頼めるだろう。

　自分の論文はそれでよしとなると湯山さんのカルテが気になった。
　紀和子はカルテの抜けている部分が大震災の際の混乱でどこかに紛れ込んだと
考えてそれを探すと言っているが、失くなったカルテの一部は誰かに抜き取られ
たと考えるほうが簡単だ。それなら動機はいったいなんだ？　
　俺は電子カルテを見てみることにした。湯山さんがこの病院に戻ってからのカ
ルテを見ておきたかったのだ。紛失したのは紙カルテだから、電子カルテのほう
は今まであまり気にかけていなかったし、一度、紀和子が調べているが、それは
ドクターが書いた部分だけだ。俺は看護記録のほうに何か手がかりとなることが

　
　　
記載されていることを期待したのだ。
　紀和子が言っていたとおりで、電子カルテは普段使っていない人間にとっては
使いにくいこと極まりない。しばらく探したがめぼしい記述は見つからず、途中
で手を休めてこれまでの出来事と紀和子が集めた情報をもう一度考えてみた。
　発端は関節リウマチ患者のレミケード投与によるリンパ腫発生、その患者の整
形外科時代のカルテの一部紛失、部長による主治医へのパワーハラスメントとキ
ーワードは揃っているからこれらを全て含むストーリーが出来るはずだ。俺は紀
和子が作ったメモのコピーを眺めてみた。
　今までに出てきてもいいはずなのに、どこにも出てこないキーワードがあるこ
とに気がついた。電子カルテのモニターに向かい、改めて探し始めた。

　電子カルテを操作していると遠くで病理部の入り口の扉が開く音がして、程な
く聞き覚えのある足音が医師検鏡室を通り抜けて俺の小部屋に向かってきた。母
親とデートだと言っていたはずだが、と思ったところで紀和子が顔を出した。
「こんにちは、先生。今日も来ているんですね、よかったです」
　紀和子は薄い麦わら色の半袖のニットを上に着て、長い腕がニョキッと突き出

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第五話　行方不明のカルテ

ている。下は例によってジーンズだが、この格好はお気に入りらしく、私服のと
きはよくこの格好をしているようだ。いつもと違うのはジーンズの裾が細かく裂
かれていて、インディアンの飾りのようにしてある。今日は随分とおしゃれだ。

「今日はデートじゃなかったのか」
「母とのデートは午後からです。今日はカルテ探しの詰めをしておきたかったん
です」
　結局、こういうことになるのか。
「わざわざ土曜日に出てくるほどの何か新しいことが分かったのか」
　返事の代わりに紀和子は片手に下げていた布袋から紙カルテを取り出した。
「ええと、幾つか新しいことが分かりました。まず第一に検査記録の日付に矛盾
がないか調べたんです。湯山さんが外病院に転院したはずなのに検査データだけ
が残っている、なんて事はなかったです」
　随分と考えてきたようだから、先を促した。
「看護記録も同じでした。外来患者さんの看護記録ってたいした量はないんです
ね。でもやはり矛盾した日付はありませんでした」

　
　　
　紙カルテには前半に医師の記録、後半に看護記録、最後に検査データがまとめ
て綴じてある。そのカルテの残されている部分に一切の矛盾がないというのか。
地震で机から落下した拍子にカルテの一部が抜け落ちたのだとしたら、偶然にも
三ヶ所から同じ日付のところだけが、長い紐を潜り抜けたことになる。偶然の神
様は随分と手の込んだ仕事を強いられたことになる。

　それにしても昨夜、カルテを俺と一緒に調べたあとに紀和子はさらに調べたの
か。あのあと病院にいる間にここまで調べる時間はなかったはずだ。
「紀和子、いったいいつ、そのカルテを調べたんだ？」
　俺の疑惑には答えず紀和子は素知らぬ振りをして話題を変えた。
「先生は何か調べたんですか。先生のモニターに電子カルテが開いてあるようで
すけれど、ちょうどいいですから使わせてください」
　ふうん、そう来るのか。それでも俺が黙って紀和子を見つめていると、今度は
慌てて弁解しはじめた。
「だって、夕べ、帰り際になってメールが届いたんです。看護記録や検査記録に
日付の矛盾はないかって。だからちょっとだけ調べてみたかったんです」

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第五話　行方不明のカルテ

　そういうことだな。まったくなんという奴だ。
「いいよ、これは貸しにしておくよ。そのうち取り立てるからな」
　紀和子は首をすくめた。　
「それにもうひとつ、膠原病科の電子カルテも調べて欲しいって言ってきたんで
す」
「ふうん、誰が言ってきたって？」
「ええと、宮崎先生からです」
　なるほど宮崎の要請に応えるには夜中にカルテを調べ、母親とのデートの時間
を削って病院に来ざるを得ないというわけだ。
　紀和子はそれ以上答えず、電子カルテのモニターの前に座り、キーボードとマ
ウスを操作し始めた。
「宮崎は何を探して欲しいって言っているんだ？」
「紙カルテで抜けているところは何を記載している部分なのか知りたいと言って
います」
「で、どこが抜けていると思っているんだ？」
「今までの調査で出て来てもいいのに、出てこなかったことです。先生も同じこ

　
　　
とを考えて調べていたんでしょう？」
　ふむ、目指していることはちゃんと三人とも同じだ。
「そうさ、最後のピースを探している真っ最中だったんだ。ジグソーパズルの最
後のピースはなくても形が分かる」
　紀和子があっと小さく声をあげ、飛び上がった。いや実際には見つめていたモ
ニターから振り向いて腰を浮かし、俺を見つめてきた。
「レミケード！　先生、レミケードですね」
　紀和子はくるりと身体を回し、またモニターに向かった。一方的に喋りまくり
ながら、その一方で猛烈な勢いでマウスを操作しはじめた。
「残った最後のピースはそれに違いないです。整形外科の時代の紙カルテにその
ことはひと言も触れていません。でもきっとレミケードを使っているうちにリン
パ腫が発症して、ちょうどその部分のカルテがなくなったのに違いないです。宮
崎先生は何も言っていませんでしたけれど、きっと同じことを考えていたんです。
こちらの電子カルテのどこかに、それに触れているところがあればいいんですけ
れど」
　マルチコアの頭脳を使って口と一緒に凄い勢いで操作していた紀和子の手がぱ

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第五話　行方不明のカルテ

たりと止まった。しばらくモニターを見つめ、それからゆっくり振り向いた。
「先生、インフリキ……何とかって何ですか？」
　答える前に紀和子が電子カルテに記載されていることを読み上げはじめた。
「湯山さんがこちらの病院に転院してきた最初に、看護師さんの聞き取りの記録
があります。『以前にこちらの病院に通っていた最後の頃にはインフリキ……何
とかという薬を出してもらっていました』って書いてあります」
　紀和子が振り向いた。
「先生、これって……」
　俺は紀和子に頷いてみせた。気がついたとおり、インフリキシマブは商品名で
はなくレミケードの正式な名称だ。
　電子カルテにレミケードを見つけた紀和子は黙り込んでしまい、そのまま母親
とのデートに出かけて行った。


　家に帰った俺はその日の晩に半年がかりでようやく書き上げた論文の原稿を奥
さんに手渡し、いつものように英文の校閲を頼んだ。

　
　　
「いいわよ、いつものとおりね」
　これが毎回のやり取りだ。俺より英語に強い彼女は俺の拙つたない英語の原稿をしゃ
れた英文に直してくれ、随分助かっている。報酬はちょっとした店でのご馳走か
何か小物のプレゼントだ。それなのに今回はちらりと眼を通しただけで厳しいこ
とを言ってくれた。
「待って、これは報酬を引き上げる必要があるわね。あなたの気合不足が見え見
えだわ」
　そう言ってここ一週間ばかり、何に気をとられているのかと迫ってきた。迫っ
てくるといっても、紀和子と違って俺の奥さんは有難くも柔和な表情だ。俺は行
方不明のカルテの一部を探していることを話した。
　話を聞き終えると俺の奥さんはしばしの間考え込んでから簡潔にコメントして
くれた。
「整形外科の時代にもレミケードを使っていたはずなのにちょうどその部分のカ
ルテが失くなるなんて偶然に起こることはあり得ないわ。紀和子さんの事故説で
は無理ね。これはあなたが言うように誰かがカルテの不都合なところを抜き取っ
たのよ。第一の容疑者は担当医だけれど、部長と秘書さんが絡んでそんなに簡単

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第五話　行方不明のカルテ

じゃなさそうね」
　整形外科に通院していた時期にもレミケードを使っていたなら、湯山さんのリ
ンパ腫の発症は初めてではなく再発なのだろう。そのレミケードを使用していた
時期のカルテが抜けているのだ。紀和子は今日の午後、それに気付くとそれっき
り何も話さず、そのまま考え込んでしまっている
「その大前先生って学位論文の研究をしていたんでしょう。ちゃんと学位をとっ
たの？」
　そうか、関節リウマチの勉強をしたいというのはそれで学位をとろうという意
味なのか。大前は何か関節リウマチとレミケードが関係する臨床研究をしていた
のだ。
「いや、取ったかどうかは調べていないよ」
「もし、取っていないなら何かわけありね。調べてみたほうがいいわよ。どちら
にしろ、この週末は平和に過ごせそうにないわね。今晩中に紀和子さんから電話
があるわ」
　まさか、と俺は不吉な予言を否定したが、そういえば松山病院の事故調査のと
きにも、日曜日に紀和子に引っ張り出されたことがあった。

　
　　

　予言が実現しないことを祈りつつ、俺はコンピューターで大前が学位を取得し
ているか調べてみた。横浜大学のサイトに行って学位取得者のリスト見つけた。
もちろん医学の学位だろうからと調べたが大前の名前は見つからなかった。俺の
奥さんの言うとおりだ。
　それならと大前の名前とレミケードの入った論文をメドラインで探したが、一
件もヒットしなかった。そうか、俺は思い直してキーワードをインフリキシマブ
に変えてみた。ヒットした論文の中に、鬼頭が筆頭著者、大前は何人かの著者の
一人として名前を連ねている論文が見つかった。アメリカの学会誌に掲載された
論文は三年半ほど前の秋に発表されていて、時期もうまくあっている。それをダ
ウンロードした。
　夜もだいぶ遅くなり、予言はどうやら実現せずに平和な週末になりそうだから
と、論文に目を通し始めたところで俺のかばんの中の携帯電話が鳴り始めた。テ
ーブルの前に座っている俺の奥さんをちらりと見ると、鷹揚おうように笑みを浮かべてい
る。なるほど、俺の奥さんは尊敬に値する。

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第五話　行方不明のカルテ

　しぶしぶ携帯電話を開いて耳に当てると、例によって挨拶もろくろくなしに紀
和子の決然とした声が耳に飛び込んで来た。
「先生、これはどう考えても犯罪です。誰かがカルテの不都合な部分を抜き取っ
たんです」
　紀和子はいきなり犯罪だと言い出した。今日の昼にはまだ事故説だったはずな
のに、それを百八十度方向転換して犯罪だと言う。
「おいおい、性善説はもう放棄したのか」
　俺が指摘しても紀和子は動じず、続いて非情な要求が聞こえてきて、せっかく
の休日がどこかへ消し飛んだ。
「今日はもう無理ですから、先生、明日は私に付き合ってください」
　紀和子の声が電話の向こうから迫ってくる。俺の奥さんの予言通りに進んでい
るがそれでも俺は抵抗してみた。
「いいよ、明日の昼飯時に俺の娘二人と一緒でいいならどこかのカフェで会える
かも知れない。それでもいいか？」
　明日は俺の論文の校閲をする奥さんの時間を少しでも取れるようにと、二人の
娘を昼飯に連れ出す約束になっているのだ。

　
　　
「わあ、先生のお嬢さんですか、双児なんでしょう。会いたいです」
　言外に籠めた俺の意図は無視され、逆効果になってしまった。カルテ探しはも
とより、紀和子は双児と喜んで会いたいという。それならと、搦からめ手から牽制す
ることにした。
「いいよ、どうせ俺がデート気分でいると虫にまみれた王子様が現れてお姫様を
引っさらっていくんだろうが」
　とたんに紀和子の声の調子が変わった。
「ああ、もう、そんなことはありません。宮崎先生は学会発表の準備で忙しいは
ずなのに、明日は上越の方に虫仲間と一緒に朝から出かけるんです。今度は仲間
の人達と一緒ですから途中で戻ってきたりしません。それに先生とデートとじゃ
ありません」
　そういえば、昨日も紀和子は同じことを言っていた。
　とにかくこの話しぶりでは宮崎とは既に連絡を取っているのだ。俺はテーブル
に座っている俺の奥さんのほうを見たが、俺の明日の予定にはすでに興味がない
らしく論文の原稿に夢中にになっている。いいだろう、今日の午後、考え込んで
いた紀和子は宮崎と電話で話をして何かの結論を出したのだろう。明日の日曜日

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第五話　行方不明のカルテ

に俺は紀和子と双子連れで会うことになった。

　翌日の昼、約束よりはだいぶ早く待ち合わせた仲町台の駅前のカフェに行った
が、好奇心ではちきれそうな紀和子がすでに待っていて、俺のちょっとした企み
は簡単にはずされてしまった。十歳になる双子の娘は大歓迎され、二人はたちま
ち紀和子になついて『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と甘えていたが、飲み物をホッ
トミルクに換えてもらったパニーニとサンドイッチのセットメニューが届と興味
はすっかりそちらに移って、ようやく紀和子も解放された。
「随分なつかれたな。お互いの精神年齢が近いんだろう」
「ああ、それはひどいです。私が先生みたいにひねくれていないだけです」
　似たようなものだがいいだろう、物はいい様だ。
「それで深夜の遠隔協議の結論はどうなんだ？」
　俺の問いにはすぐに答えず、嬉しそうに食べている梓と真弓の二人を見ていた
が、ようやく紀和子が顔をあげた。
「私は簡単にレミケードで発症した乳腺リンパ腫を隠そうとしてカルテを抜き取
ったと考えたんです。でも宮崎先生はそれで説明できるのは事件の一部だけだっ

　
　　
て言っています」
　紀和子は昨日、湯山さんが磯子からたち病院に転院する前にもレミケードを使
っていたと知って考え込んでいた。性善説は放棄したのだろう。それを聞きだそ
うとしたとき紀和子が注文していたきのこスパゲッティのセットが届き、二人の
娘が興味を示して食べてみたいと言い出した。紀和子は『それじゃ取替えっこし
ましょ』と楽しそうにやりはじめた。
　それを機会に紀和子は二人の娘とやり取りしながら俺とカルテ事件の話をする
というサーカス紛まがいの会話を始めた。俺はやっとの思いでそれについていき、そ
れでもなんとか話の内容を理解した。

「整形外科で関節リウマチの治療を受けていた湯山さんは、大震災のしばらく前
から関節リウマチの治療にレミケードを使い始めたに違いないです」
　関節リウマチには有効だったが、投与中に乳腺腫瘤が見つかり、レミケードに
よる副作用が疑われて直ちにレミケードは中止されたというのだ。
　その後ちょうど病院の改修が始まることになり、それをもっけの幸いとして外
の病院に転院させられることになった。腫瘍は様子を見てみることにして、その

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第五話　行方不明のカルテ

まま磯子からたち病院に転院したと紀和子は考えたのだ。
「磯子からたち病院に通院している間はレミケードを使わなかったので腫瘤は自
然に小さくなり、精査をしないまま忘れられたんだと思います。それが昨年の春
から中央病院に通院することになり、そこで再度レミケードを投与されてこの五
月に乳腺の腫瘍が再発したんです」
　なるほど、このストーリー以外に考えようもない。
「しかし、免疫抑制剤で腫瘍発生の確率が高まるのはもうとっくに知られている
ぞ。リウマトレックスでも同じだよ。それだけだったら問題があるとすれば転院
の際の医療情報の伝達ミスだけだ。問題は大きいが犯罪的とまでいえるかな。そ
れだけではカルテから抜き取りをするほどの動機にはならないだろう」
　紀和子はひとしきり双子の娘を相手にしてから、俺の疑問に答えた。
「宮崎先生は三年半前だったら、まだレミケードは関節リウマチに保険適応がな
かったはずだと言っています。そのレミケードを使ったのは、大前先生の学位論
文のためだろうって」
「適応拡大の臨床研究か」
「ええ、適応拡大のための臨床研究って製薬会社から保険承認されていない薬が

　
　　
提供されるから、いろいろ都合がいいんです。それが患者に投与中に有害事象が
出たのに、それを隠して論文を書いたか発表したんだろうって言っていました」
　なるほど、宮崎は石田の代わりにしっかり三人組の役割を果たしている。
「それならカルテの抜き取りは誰かが意図してやったことになるぞ。だとすると
とっくに処分されて、もう医局にはないんじゃないか」
「それは考えました。でも、相良さんに聞き取りをしたとき、整形外科の部長の
奇妙な態度を教えてくれました。最初、相良さんには研究ファイルを探させなか
ったのに、翌日、手伝わせて二人で調べました。これは何か変です」
「それまで研究ファイルの中に紛れ込ませておいたのを、調べる前にどこか別の
ところに移したというのか」
「いいえ、先生。相良さんに手伝わせて調べたといっても、とてもいいかげんで
した。実際には捜す振りをしただけなのだと思います。カルテは研究ファイルに
そのままあると思います」
　紀和子は宮崎と二人して随分と密に連絡を取っている。二人の言うとおりなら
カルテを抜き取った犯人もその動機もおのずと明らかだ。

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第五話　行方不明のカルテ

　食事が終わり、カフェを出ることになっても二人の娘は紀和子と一緒に居たが
り、それならと初夏の遊歩道を俺たち四人はしばらく歩くことになった。分岐点
にたどりつき、双子の相手をしていた紀和子が立ち止まった。また会おうねと言
うと、双子にそれなら指きりげんまんさせられている。残念がる双子の娘によう
やく別れを告げたあと、俺を振り返った。
「こうなったらできるだけ早く整形外科の医局を調べてカルテを見つけ出したい
です。今は研究ファイルの中に紛れ込ませてあっても、どこかに隠されてしまう
かもしれません」
「そうだな、それと治療に関係するから整形外科でレミケードを使っていたとい
う確証が欲しいね」
「それは湯山さんに直接確認すれば分かるんじゃないですか」
「ああ、血液内科の部長に聞いてもらおう。もう一つの手がかりは内科の大久保
医師だ。何か知っているかもしれないから明日になったら聞いてみてくれ」
　紀和子は俺の頼みを了解し、別れた。

　その日、家に帰ると、俺の奥さんは早速俺の論文に注文をつけてきた。矢継ぎ

　
　　
早やに出る厳しい英語の注文をこなしながら、合間に昨日の晩にダウンロードし
ておいた鬼頭の論文を読んだが、月曜日には思わぬ展開が待っていた。

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第五話　行方不明のカルテ

　６　発　見

　月曜日の夕刻、しつこい内視鏡医を何とか振り切って整形外科の医局にたどり
着いてみると、問題の研究ファイルが整理してあるキャビネットの前で紀和子が
がっしりした大柄な男と対峙していた。背の高いはずの紀和子が小さく見える。
二人の脇には中年の女性がはらはらしながら二人を見守っている。俺を振り向い
たその大男が不機嫌な視線を向けてきた。
「何だお前は。今取り込み中だ」
　これは随分な挨拶だ。なるほどこいつが整形外科の部長か。その部長と対峙し
ていた紀和子が俺を振り向いて、こちらは有難くも嬉しそうな顔をしてくれた。
「神城先生、随分と遅かったですね。ちょうど良かったです」


　整形外科の医局を調査できると紀和子が俺の部屋に飛び込んできたのは月曜日

　
　　
の午後早くだった。
　紀和子は月曜日に出勤すると早速相良さんに連絡を取り、出来るだけ早く医局
を調査をしたいと申し入れた。するとその日の午後のうちに医局を調べられると
相良さんが言って来たのだ。その時間帯に病棟でカンファランスがあり、医局員
が全員いなくなるので好都合だろうという。
　俺たちの調査はまだ不十分だし、宮崎はその頃には湘南市民病院に出かけるこ
とになっていて残念がったが、これは千載一遇のチャンスだ。
　ところが夕方になって紀和子と二人で勢い込んで整形外科の医局に出かける間
際になって、俺は内視鏡医に捕まってしまった。内視鏡を使って粘膜切除した早
期胃癌の標本の断端に癌が残っていると診断して報告したら、その若い内視鏡医
は『そんなはずはない』と言ってきて、取り切れているはずだと頑固に言い張っ
たのだ。
　切除標本の断端に癌が残っているということは、内視鏡の操作で癌を切除し切
れなかったことを意味しているから、手術が不完全だったと言われたと思い込ん
でムキになっているのだ。
　それならと紀和子を先に行かせて、その内視鏡医に標本を顕微鏡で見せて納得

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第五話　行方不明のカルテ

させるのに手間取ってしまった。
　ようやく整形外科の医局に駆けつけると紀和子が大男と対峙して睨み合ってい
るところだった。

「神城というのか。ああ、知っているよ。この小娘と一緒に探偵気取りをしてい
る病理の医者だな。ちょうどいい、引き取ってくれ」
　小娘か。紀和子は随分いろいろな評価をもらっているが、これもなかなか面白
い。むっとしている紀和子を見て俺は危うく笑い出しそうになった。しかし笑っ
ている場合ではない。
「カルテの紛失した部分を探すという連絡はカルテ庫から先生のところにも行っ
ているはずですが、何か不都合があるんですか？」
　俺が聞くとその大柄な部長が横柄に答えてきた。
「ああ、それは聞いたよ。しかし大事な研究ファイルを弄るという話は聞いてい
ない。その研究ファイルをこの女は勝手に触ろうとしているんだ」
　側にあるキャビネットに視線を走らせると、大事にしているという研究ファイ
ルは確かに戸棚の中に収められているし、古い時代のはきちんとしているのに、

　
　　
最近の数年分は随分と乱れている。挟み込まれている用紙がはみ出たままのファ
イルがあるし、ファイルされず雑に積み上げられたノートもある。これで大事に
しているとは思えない。小娘の次はただの女と言われた紀和子が応じた。
「相良さんの許可を貰いました。それにいろいろ聞き取りをして調べた結果、こ
の研究ファイルに紛れ込んだ可能性が高いんです」
　ほほう、紀和子は性悪説は口にせず、事故ということにしている。
「相良さんにそんな許可を出す権限はないよ。だから、さあ帰った、帰った」
　相良さんを見ると口元を引き締めて厳しい顔つきをしている。もちろんこれで
引き下がるわけにはいかない。紀和子も怯ひるんでいない。
「鬼頭先生、これは神城先生と私の趣味を満足させようとしているわけではない
んです。カルテ庫と副院長から依頼されての調査です。調べさせてください」
　それでも鬼頭部長は応じようとせず、鼻をふふんと鳴らしている。それならと
俺は院内ＰＨＳを取りだして、副院長を呼び出しながら言った。
「部長、カルテは震災のときに借り出されていて、この医局にある間に一部分が
紛失したんです。見つかると具合が悪いんですか」
　俺の挑発に部長が怒りの形相で俺を睨んで来た。

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第五話　行方不明のカルテ

「カルテは震災の後に一度探している。それに何かしたんだったら主治医の大前
だろう。ふざけたことを言うと赦さんぞ」
　俺はそれにかまわず、電話口に出た副院長と簡単に言葉を交わして、そのまま
ＰＨＳを部長に差し出した。部長は一瞬、躊躇したが俺に促されてそれを手に副
院長と二言三言、話を交わすと不機嫌な表情のまま俺に乱暴に返して寄こした。
部長室に戻ろうとしながら吐きすてるように言った。
「ふん、どうせそんな所にはないんだ。好きに探すがいいさ」
　捨て台詞を残して自室に向かう部長を見送り、俺を振り返って紀和子はようや
く肩の力を抜いた。
「先生が来る前に三十分以上もああだこうだって押し問答をしていたんです。こ
れでやっと探せます」
　相良さんが恐縮して申し訳けなさそうにしている。
「ご免なさい。鬼頭先生って時々こういうことがあるんです。急用でカンファラ
ンスから一人で戻ってきたんですけど、何か面白くないことがあったんだと思い
ます。この前、話をしたときは確かに『好きに探してもらえ』って言っていたん
ですよ」

　
　　
　なるほど悪党はこの鬼頭部長に違いないのだが、それにしては簡単に引き下が
った。三年前に研究ファイルを探したときには相良さんを立ち合わせながら、実
際には見過ごしたのにこれは奇妙だ。
「大丈夫です、必ず見つけ出します」　
　俺が考えているのとは裏腹に、小娘だの女だのと鬼頭部長に散々な言われ方を
した紀和子は決然としている。紀和子も部長の様子に何か気がついたはずだがま
あいい。まずは研究ファイルの捜索だ。
　紀和子がキャビネットの引き戸を開けた。そこにはよく整理されたファイルが
並んでいて、そこが大地震で落下していた部分だという。そこから紀和子が順に
ファイルを取り出して調べ始めた。
　全部で三十冊ほどの分厚いファイルを確認するのは手間のかかる仕事だ。カル
テの抜き取られた部分はあわせてもせいぜい十ページか二十ページだろうし、カ
ルテは二号用紙が使われているから、そのまままとめて研究ファイルに綴じこま
れたのならファイルのページと区別がつくだろうと、まずは閉じたまま小口を見
ることにした。
　しかし、現実には怪しいところを開いてみても大概は空振りだった。研究ファ

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第五話　行方不明のカルテ

イルはその時々に使われたいろいろな種類の用紙が綴じこんであるから、それが
紛らわしいのだ。空振りに終わった後はファイルの中をを順に見ていくより方法
がない。それでも俺たちの作業を見て相良さんも手伝ってくれたので、思ったよ
り早く作業は終了した。カルテから抜き取られた部分は見つからなかった。

　紀和子が眉間にしわを寄せて考え込んでいる。鬼頭部長の捨て台詞をもう一度
思い起こした。部長はカルテは研究ファイルにないことを知っている口ぶりだっ
た。抜き取られたカルテは既にどこかに移されたか、処分されてしまったのだろ
うか。そうだとすると厄介だ。考え込んでいる紀和子をそのままに、俺は相良さ
んが眼を通したファイルを調べなおしてみた。それを相良さんが不安げな表情で
に見てきたが、最後まで調べなおした。やはり何も見つからなかった。
「相良さん、もう少し調べさせてください」
　考え込んでいた紀和子がそう断って、それまで手をつけていなかった残りの研
究ファイルに手を伸ばした。そこは地震の時は引き戸が閉まっていたところで、
調査の対象から外しておいたのだ。ファイルの背表紙には比較的新しい年号が書
き入れてあり、半分ほどは大震災より後の時期になっている。ファイルは二段ほ

　
　　
どの棚に収まっているだけだから、今度調べるのは先ほどの半分ほどだ。相良さ
んが手伝おうとしたが、今度はそれほど手間が掛かることはなさそうだ。
「たいした量ではないから、高遠と私だけで十分でしょう」
　制止されて相良さんが戸惑っているが、それにはかまわず紀和子と二人で調べ
始めた。
　　
　しばらくの間、黙々と作業が進んでいった。しばらく作業を続けたところで俺
は何かを貼り付けて膨らんだ何枚かの記録用紙を見つけた。その後には二号用紙
が数枚綴じ込まれている。俺が手を止めてそれを開いて確認しようとしていると
紀和子が気づいた。
「先生、どうかしたんですか？　あ、それってもしかしたら……」
　紀和子が俺の手にあるファイルを覗き込み、用紙を一目見ると声を上げた。
「それです、それです、神城先生。それに違いないです」
　俺から奪い取るようにファイルを受け取った紀和子が、興奮しながら前のペー
ジや次のページをめくっている。しばらくページを繰くっていた紀和子がファイル
をサイドテーブルの上に置いて、キャビネット内に残っている別のファイルを探

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第五話　行方不明のカルテ

し始めた。俺はテーブルの上に置かれたそのファイルをもう一度手にした。問題
のページをめくって確認するとそれは数日分の診療録と血液検査のデータを貼り
付けた二号用紙、さらにその後には看護記録も一緒に綴じられていた。
　手にしているファイルを見て相良さんが驚きの表情をした。
「これって、どうしてこんなところに。考えられないわ。神城先生、それって本
当に湯山さんのカルテなんですか？」
　開かれたカルテの記載を見ていった。記載された診療記録には日付が入ってい
て、患者が何かの不安を訴えたところには湯山さんの名前がはっきり記してある。
その綴じ込まれたカルテ用紙の前後ページを開いてみるとカルテとはまるで違う
何かの記録がある。その研究ファイルの背表紙を改めて確認すると『変形性膝関
節症　二〇〇八―二〇一〇年』と表題が書き込まれている。これは変形性膝関節
症の資料やデータを集めたファイルだ。間違いないと相良さんに告げて、残りの
ファイルを調べている紀和子に声をかけた。
「紀和子、これで間違いなさそうだ。何を探しているんだ」
　湯山さんのカルテをサイドテーブルから取り上げて、青い付箋の差し挟まれた
看護記録の部分を開いて照らし合わせようとした。

　
　　
「先生、そのカルテは湯山さんがレミケードを使いはじめた頃の数頁と後は検査
データと看護記録です。リンパ腫を発症した後の部分は入っていません」
　そう言われて俺は研究ファイルに閉じこまれたカルテの日付を確認した。紀和
子の言うとおりだ。日付はカルテの最後から十ヶ月くらい前のもので、途切れた
カルテの続きの部分は含まれていない。
　相良さんは俺たちのやり取りを緊張の面持ちで見つめているが理解できないで
いるようだ。カルテの検査データと看護記録の紛失までは知らなかったのだ。簡
単に説明すると相良さんは呆然としている。
　相良さんをそのままにして、俺は紀和子と一緒に残りのファイルを探しはじめ
た。戸棚にいささか雑然と並べられたファイルの最後まで探したが、結局、それ
以上のカルテは見つからなかった。
　紀和子は自分で紛失したカルテの一部を見つけ出しておきながら、考え込んだ
ままキャビネットの前に立っている。
「これはどういう事なんでしょう。わけが分かりません……。いえ、違います。
これではっきりしました」
　そのとおりだ。これで地震当日と今日までの間に何が起こったのか、推理出来

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第五話　行方不明のカルテ

る。カルテの検査記録と看護記録が研究ファイルに挟まれていたこと自体が重要
な手がかりだ。これですべてのピースが揃ったストーリーが出来上がった。

　そこにちょうど自室から出てきた鬼頭部長が俺たちを一瞥してから秘書の相良
さんをを呼びつけ、なにやら指示を出している。相良さんが俺たちを振り返りな
がら医局から出て行ったあと、部長は自室に戻りがけに考え込んでいる紀和子に
冷たく言い放った。
「何だ、あんな大見得を切っていたのに、何も見つからないじゃないか。臨床検
査技師風情ふぜいが探偵なんかを気取るからだ」
　検査技師風情とは随分な言い方だ。一部とはいえカルテは見つかっているのだ
から、紀和子が何か反論するかと思ったら、考え込んだまま反応しなかった。
　いいだろう、この後は俺が引き取ってやる。
　紀和子をそのままにしておいて、部長が自分の部屋に戻ったのを確認してから
俺はカルテ庫に電話をした。電話口に出た木場係長に一冊のカルテを探して整形
外科の医局まで持ってきてくれるように頼んだ。
　俺が電話をしているの気づいて紀和子が俺を振り返った。

　
　　
「先生、その電話は…」
「紀和子、いいか。今からしばらく俺のいうとおりにして欲しい」
　俺は説明した。紀和子は驚いて眼を丸くしたが、自分を納得させるように頷い
た。それを見て俺自身も無理して納得した。こうするしかないのだ。

　説明をし終えたところに相良さんが何かの書類を抱えて戻ってきた。俺は部長
室に行こうとする相良さんを呼びとめた。
「相良さん、部長を呼んでください。カルテの紛失部分は全部見つかりましたと
言えば鬼頭部長は必ず出てきてくれますから」
　俺が頼むと相良さんは一瞬、ぎょっとして体をこわばらせたが、カルテを見つ
けたというのは部長を呼び出す方便だと納得したらしく、書類を持って部長室に
入って行こうとした。俺はもう一言、付け足した。
「それから、部長が出てきたら私と高遠が部長と話をします。相良さんは何も言
わずに黙っていてください。途中では決して何も言わず、高遠から何か聞かれた
らそのとおりだとだけ答えてください。必ずです」
　俺の強い口調に戸惑った様子だったが、相良さんはそのとおりにしますと言っ

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第五話　行方不明のカルテ

て部長室に入っていった。

「いいんですか、先生は。それだとこの事件の張本人を見逃すことになると思い
ます」
　相良さんが部長室に消えると紀和子が眉間にしわを寄せながらが聞いてきた。
そのとおりだ。俺はしばらく黙ったまま自分の思いを飲み込んだ。
「そうかもしれない。しかしこうしないと何の責任もなかったはずの人に責めを
負わせることになる」
　俺はいったん言葉を切り、それから自身を鼓舞して宣言した。
「病理医と検査技師風情だってそんなに阿呆ではないことを見せてやろう。カル
テを見せつけて、少し 溜飲りゆういんを下げてもいいだろう。紀和子の演技力に期待して
いるよ」
　俺たちの打合がすんだところに不機嫌な顔つきの部長と不安そうな表情の相良
さんが現れた。
「カルテが見つかったというのは本当か。からかっているんじゃあるまいな。ど
こにあるんだ」

　
　　
　部長がサイドテーブルの上に置かれた研究ファイルに気づいた。抜き取られた
カルテが挟まっている部分が開かれている。紀和子はそれを取り上げて部長に向
かって突き出した。
「これは先ほど見つけた紛失カルテの一部です。これは全部ではないですが、残
りもすぐに見せられます」
　紀和子に確認するように促されて、部長がその数枚のページをめくってさっと
表情を変えた。
「カルテというより、何かの検査データだろう。これが紛失していたカルテかど
うかは……」
　鬼頭部長は言葉をとぎらせてそのファイルを半分閉じ、表題を見た。眼を見開
き、驚愕の表情をした。部長の顔をちらりと見て紀和子は持ってきておいた湯山
さんのカルテを差し出した。
「このカルテの開いている部分が、そのカルテ用紙が綴じられていたはずのとこ
ろです。見てください」
　俺の脇に立っている相良さんが息を飲むのが分かった。みるみる血の気が引い
て顔面が蒼白になった。カルテに気を取られている部長に気づかれないように俺

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第五話　行方不明のカルテ

は相良さんの腕を掴んで支えてその場から少し離れ、耳元に囁いた。
「大丈夫です。さっき言ったとおりにしてください」

「貴様、いったいどうやってこれを……」
　部長が先ほどとは違って怒りの表情で詰め寄るが、紀和子が平然と説明してい
る。なかなかの演技だ。
「ですから地震のときに落ちた研究ファイルと同じ場所に大前先生の机の上にあ
ったカルテが落ちて、紐が解けて紛れ込んだんです。それを気づかないままに地
震の後の片付けをしたときに一部分を研究ファイルに挟んでしまったんです。そ
れがこれです」
「そんなばかな。そんな……」
　その先の言葉を飲み込んで鬼頭が紀和子に詰め寄った。
「だいたいこれじゃまだ足りないだろう。カルテの残りはどうした」
「それ以外の抜き取られた分は今、カルテ庫の木場さんが持ってきてくれるはず
です」
　部長が奇妙な表情で紀和子に迫ろうとしたとき、医局の入り口からカルテ庫の

　
　　
木場係長が現れた。医局に入ってきた係長はそこで一瞬立ち止まり、それから俺
たちに気づいて近づいてきた。持ってきたカルテを黙って差し出してきた。それ
を鬼頭が眼を細めて不審そうに見つめている。
「なんだ、それは」
　鬼頭には返事をせず、俺はカルテを受け取った。カルテの表紙には見たことも
ない患者の名前が記入してある。そのカルテの小口を覗き込むと、中ほどに十数
枚ほどの紙質の違う部分が見て取れた。
　そのままカルテを手渡すと紀和子は息を整えてからゆっくりと問題の部分を開
いた。

『湯山さんから右乳腺の腫瘤の訴えあり、部長に連絡』
『要、外科にコンサルト』
『レミケードによる腫瘍発生を調べること！』

　几帳面な文字で三年まえの一月の日付が明確に記載してあった

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第五話　行方不明のカルテ

　探していた湯山さんのカルテが紀和子の手の上に開かれている。紀和子はゆっ
くりと息を吐き、全身の力を抜いた。安心したのは分かるが、そのまま座り込ん
でしまっては困る。紀和子、もう少しだ。
　部長は紀和子から奪い取るようにカルテを手にし、そのページを慌しく捲くっ
てうめき声を出した。そのカルテの表紙には太田美智雄と大きく書いてある。俺
は隣でよろめく相良さんの腕をしっかりと掴んで支え直した。
「貴様、どうして……」
　その声に紀和子の声が重なった。
「違います。落ちた研究ファイルを片付けている時、相良さんが解ほどけて散らばっ
ていたカルテ用紙を見つけたんです」
　そう言って紀和子は相良さんを振り向いた。
「落ちていたカルテ用紙は相良さんの机の上にあったカルテからこぼれ落ちたと
思って拾い集め、それを一緒にして綴じたんですね。それがこの太田美智雄さん
のカルテだったんですね。違いますか」
　青白い表情のまま相良さんが途切れ途切れに答えた。
「え、ええ。ただもう、そのとおりです。こんなことになるなんて」

　
　　
　そう言って相良さんは顔を両手で覆ってしまった。
　これでいい。

　鬼頭部長は憮然として自分の手にあるカルテと相良さんをかわるがわるに見て
いる。一度口を開きかけたがそのまま何も言わずに、再び閉じてしまった。俺は
鬼頭部長の手からカルテをもぎ取るように受けとり、太田美智雄のカルテと湯山
さんのカルテを一緒に木場さんに手渡した。
「そちらの研究ファイルに挟まっていた部分と一緒に本来のカルテに戻してくだ
さい。三年前から不備だった湯山さんのカルテがやっと完全な形になりました」

　見つけ出された部分を受け取った木場さんが頷き、湯山さんのカルテの本来の
ところに黙って綴じ直している。事態がまだ理解できないのか、部長がそれを呆
然と見つめている。
　俺たちのやり取りを見ていた紀和子が、はっとして顔を覆ったままの相良さん
のところに駆け寄っていった。

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第五話　行方不明のカルテ

　湯山さんのカルテを綴じ直して俺に手渡し、太田さんのカルテだけを持って医
局を出て行く木場さんの姿を見送っていた鬼頭が、ようやく事態を理解したらし
く俺に詰め寄ってきた。
「貴様、神城とかいったな。いい加減なことを言うと許さんぞ。そんな嘘っぱち
を言うんじゃない。地震のあと研究ファイルのなかに……」
　そう、鬼頭部長は地震直後のカルテのことを当然知っているはずだ。慌ててそ
こで言葉を飲み込んだ部長にどう対処するかは考えていた。しかし顔を真っ赤に
して迫ってくる大男はさすがに恐ろしい。若い頃に柔道で鍛えた鬼頭の臂力ひ りよくは俺
の比ではない。掴みかかられたら厄介だな、と思いつつ俺は肝心なことを思い出
させることにした。
「鬼頭部長、部長は地震の後に研究ファイルにカルテがあるのに気づいていたん
ですね。それはそのま研究ファイルに挟まっていましたよ。最初にお見せしたの
がそれです。お忘れですか。それとも太田さんのカルテに挟まっていた部分も研
究ファイルに挟まっていたと言うんですか？」
　俺の指摘に部長は眼をむいて、何か言いかけたがそのまま口を閉じてしまい、
何も言えずに喘いでいる。俺は続けた。

　
　　
「研究ファイルから見つかったカルテは安全に保管されることになりました。相
良さんが間違ったカルテに綴じた部分と合わせて一緒にです。それに大前先生が
研究していた論文を読みましたよ。先生が指導していたというやつで、筆頭著者
も先生になっていましたけれど」
　今度は部長が明らかに動揺した。
「論文に、三十二才のときに発症し、メトトレキサートを投与されていた女性の
患者が紹介されています。レミケードが劇的に効果を発揮して、有害事象は何も
なかったとされています」
　俺の言葉に鬼頭は顔を歪めた。
「それは先生のご自慢の論文だったようですが、湯山さんの同意を取らずに臨床
研究に組み込んだんじゃないですか。しかも有害事象があったことはひと言も触
れていない。違いますか」
「き、貴様、俺を脅そうというのか」
「そんなことは言っていません。地震のときにバラけて床に落ちたカルテの一部
は研究ファイルに紛れて入り込み、残りは間違えて別の患者のカルテに挟み込ま
れたんです。私の言っている意味が分かりませんか」

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第五話　行方不明のカルテ

　青黒い顔つきのまま鬼頭は俺を睨み、俺も負けじと睨みあった。相良さんを抱
き抱えながら紀和子は俺と部長を交互に見ている。

　俺と部長がにらみ合っていると、カンファランスが終ったのだろうか整形外科
のドクター達が医局に戻ってきた。何人かはすぐに研究ファイル前の俺たちに気
づいたが、誰も近づいてこない。自分の机が近くにある研修医の一人が呑気に近
づいて来たが、途中ではっとして立ち止まり、回れ右をして応接セットコーナー
に戻っていった。後の連中の何人かは医局を出て行ったし、数人が素知らぬしな
がらそっと俺たち四人を盗み見しているだけだ。鬼頭と俺は相変わらず睨み合っ
ていた。
「勝手にしろ」
　とうとう俺から眼をそらした鬼頭部長がそう言いながら大またで自室に戻って
いき、激しく扉をたたきつける音が響いてきた。




　
　　

　７　再び浜屋で

　浜屋の入り口の扉が開き、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。入り口近くで
一瞬立ち止まったあと、その足音は迷わず俺の座っているカウンターに近づいて
来て、直ぐ後ろまで来て停まった。
　俺が振り向きもせずに黙って隣の席を指し示すと、足音の主がレインコートを
脱いで脇に置きカウンター席に腰を降ろした。
　もちろん紀和子だ。
　店の主人が俺と同じガラスの酒器を紀和子に用意した。俺はそれに秋田の銘酒
を注いでやり、それに応じて紀和子が空になっていた俺の酒器にもなみなみと注
いでくれた。
「雨が降り出したのか？」
「ええ。でも梅雨入りはまだで、明後日は晴れるといっています」
　そうか、日曜日の天気を気にしているのか。

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第五話　行方不明のカルテ

「それで、今日のスポンサーはいつ現れるんだ」
　浜屋で飲むからには、前回中座した宮崎が飲み代を持つはずだ。
「ええと、今日の夕方に連絡したら、もう飛行場にいるって言っていました。で
も、なんだか予定より少し遅れそうだと言っていました。予定通りだったらもう
羽田に着いているころですけど」
　俺が黙って頷くと紀和子は自分の酒器を手にした。
「宮崎先生が到着するまでには少し時間がありますから、そんなに暗い顔をして
いないで取り敢えず二人で乾杯をしましょう。もう逃げるのはなしですよ」
　やれやれ、俺は苦笑しながら紀和子と杯をかちりとあわせた。

　別に逃げていたわけではないが、カルテ事件の最後の詰めをしていて、それを
理由に紀和子に捉つかまらないようにしていた。
　月曜日の夕刻にはカルテの紛失部分を見つけ出したあと、そのまま病院を後に
した。自分で仕組んで、まんまとやりおおせたのだから満足するところなのだろ
うが、本当には納得していなかったのだ。
　その足で連絡を取っておいた整形外科の滝山の勤める病院に出向いて行って話

　
　　
しを聞いた。
　水曜日と木曜日には論文の内容を確かめるため、中央病院の薬局と医療情報部
に頼んで、三年半前のレミケードの処方状況を調べてもらった。
　宮崎はカルテを見つけ出したことを大いに喜んでくれたが、忙しくて紀和子の
活躍を聞く暇はなく、その紀和子は誰かに話したいのと俺が滝山から聞きだした
ことを知りたくてうろうろしていた。それでも俺が不機嫌なのを察知して、感心
なことにせっついてこなかった。
　水曜日には宮崎は慌しく福岡の学会に出かけて行き、昨日の木曜日には午前中
に一度、午後にも一度、紀和子が俺の部屋を覗きに来ていたが、知らぬ振りをし
て過ごした。
　それでも夕刻、とうとう我慢しきれなくなった紀和子が押しかけてきた。俺が
その日に検鏡した標本を大友さんに渡して小部屋に戻ったところに、染色した標
本を片手に俺を追って小部屋に押し入って来たのだ。
　紀和子は空いた手で眼鏡をぐいと押し上げてマッペを突き出してきた。
「はい、先生。肺組織の免疫染色です。先生の期待通りのようです」
　俺は紀和子をちらりと見て、突き出されたそのマッペからスライドガラスを一

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第五話　行方不明のカルテ

枚取り出して顕微鏡にセットした。俺が背を向けて顕微鏡を覗き始めても、マッ
ペを手にしたまま部屋から立ち去ろうとしない。
「なんだ、まだ何か用か？」　　
「先生、今週はずっと私から逃げてばかりいます。そんなに私の顔を見たくない
んですか」
　まったく何という言い方をするんだ。そこまで言うなら、のっぽの眼鏡顔なん
か見たくもないよ、と言ってやろうと椅子を回して紀和子と向かい合った。
　俺の前に紀和子がマッペを手にしてすっくと立っている。ナース仕様の白衣の
スラックスの裾は踝までちゃんと隠しているし、上半身は誂あつらえたように紀和子の
身体にフィットしている。出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「べつに逃げていたわけじゃないさ。月曜日の晩には同期の整形外科医と会って
いたんだ。他にも確認しておきたいことを調べていたのさ。それに」
　そう言って俺の前に立つ紀和子の姿をもう一度つくづくと眺めた。
「言っておくが口を尖らせたその眼鏡顔は結構気に入っているんだ。最近はつん
つるてんも卒業したようだし、その白衣の上着もぴったりとフィットしてなかな
かいい眺めだよ」

　
　　
　一瞬、嬉しそうな顔をしかけた紀和子が複雑な表情になった。
「それって褒ほめてくれているんですか、あまり褒められたような気分にならない
んですけど。それにそんなことを口にするなんてセクハラじゃないですか」
「どこがセクハラさ。白衣からはみ出ていたくるぶしはうまい具合に隠れている
し、上着のだぶだぶも解消して身体にフィットして素敵だと言ったんだ。何かと
いうと胸の膨らみ具合に意識が向くのは紀和子の自意識過剰だ。そんなに気にな
るのか」
　言われて自分の胸を見下ろし、満足したらしく顔をあげて話を続けた。
「ああ、先生、なんだか上手くごまかされました。ずるいです。それより先生、
カルテから抜き取ったのが鬼頭部長だとは私にも分かりましたが、相良さんが絡から
んでいるとは考えもしませんでした。それに、まだ分からないことがたくさんあ
ります。整形外科の先生と会ってどんな話を聞いてきたんですか。それを教えて
ください。私は相良さんからいろいろ聞きました。聞きたくありませんか」
　勿論聞きたい。事件の結末が不愉快なのはともかく、相良さんが何をしたのか
は聞いておきたいし、俺が調べたことを紀和子と宮崎に伝えておかないとカルテ
事件にけりがつかない。

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第五話　行方不明のカルテ

　それなら宮崎も聞きたいだろうと紀和子に連絡を取らせ、金曜日に福岡から帰
って来る宮崎と浜屋で落ち合うことにしたのだ。

「悪かったな、相良さんのフォローを押し付けてしまったな」
「大丈夫です。相良さんの相手は男の人には出来そうもないですから」
　そう言ってガラスの酒器から酒を一口飲んだ。どうやらこのまま相良さんから
聞き出したことを話し出しそうだ。
「おい、いいのか。宮崎がまだ来ていないぞ」
「さっき電話したときの様子では飛行機が大分遅れそうです。とても待っていら
れません」
　俺の牽制には構わず、紀和子が眼鏡をぐいと押し上げた。
「相良さんは大前先生がカルテから抜き取って隠したんだと信じていました。最
初のカルテ探しのときに部長の探し方が変だったので、少し後に内緒で研究ファ
イルを調べて、そこに抜き取られたカルテが隠してあるのを見つけたんです」
　部長がわざと見逃したとしか思えなかったので、そのままにしておいたのだと
いう。ところがそれから三年以上も経って、もう一度整形外科の医局を調べると

　
　　
連絡が入り、今度こそ隠されているカルテの一部が見つけ出され、大前先生が責
任を負うことになると心配したのだ。
　紀和子の聞き取り調査を受けたあと、相良さんは土曜日にわざわざ病院に出か
けて行って隠されていたカルテを研究ファイルから取り出し、月曜日にはわざわ
ざカルテ庫に出向いていって、震災の日に借り出していた太田美智雄のカルテの
中に問題のカルテの一部を挟み込んだのだという。
「これなら絶対見つからないし、いざという時には大震災の混乱のときに紛れ込
んだと言い張れると思って、月曜日に私に連絡してきたんです。それなのにまさ
か見つけ出されるとは思ってもいなかったそうです」
　そう、これで全てが説明出来る。紀和子は言葉を切り、突き出しの蕗ふきの煮付け
に箸を伸ばした。
「部長が抜き取ったとは疑わなかったのか、相良さんは？」
「地震で落ちたカルテは部長が拾って手にしていましたけれど、綴じ紐は緩んで
いただけで解けてはいなかったので、鬼頭部長は抜き取っていないと信じ込んで
しまったんだそうです。相良さんの言うとおりで、部長はそのときにカルテから
抜き取ったんじゃないですよね」

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第五話　行方不明のカルテ

「そうだと思うよ。もっと後で抜き取ったんだろう。カルテの綴じ紐の話が相良
さんと大前で微妙に食い違っていたのに気がついたか？」
　紀和子が頷いた。
「相良さんが落ちていたカルテを大前先生の机に戻したときと、大前先生が翌週
にそれを返すように相良さんに頼んだときですね。相良さんは緩んでいた綴じ紐
の端をきちんと揃えて結び直して返したのに、大前先生は結び紐の端が揃ってい
なかったので結びなおしたと言っていました。この間に部長がカルテから抜き取
ったに違いないです。そのときに結び方が不揃いになったんです。私は昨日、や
っと気がつきました」
「ああ、俺も気がついたのはカルテ探しの最中だったよ。鬼頭はカルテが研究フ
ァイルと同じところに落ちているのを見て、カルテの危険な部分を研究ファイル
の中に隠すことを思いついたんだろう」
「そのときはそれを実行する時間がなかったんですね」
「多分、カルテの紐を解いたか解きかかったところに相良さんが現れたんだ。や
むなく、抜き取りはあとでやればいいと相良さんに渡して、誰もいなくなった夜
中にでも改めてカルテから抜き取ったんだろう。カルテの紐は結び目はそのとき

　
　　
に不揃いにしてしまったんだ」

「レミケードでリンパ腫を発症したのを鬼頭部長が隠そうとしていたのは分かり
ましたけれど、それは臨床研究と関係があるんですか？　やはり論文ですか」
　紀和子が矢継ぎ早に質問してくる。
「その通りだよ。臨床研究の論文さ。カルテを見られてそれとつき合わされると
論文とはつじつまの合わないことがすぐに分かってしまうからな」
　紀和子が眉をひそめた。
「宮崎先生が言っていたように論文の不正があるんですね。全部そろったカルテ
のどこにも臨床研究への参加同意書がないことは確かめましたけど」
　俺は旨いはずの銘酒を喉に流し込み、鬼頭が筆頭著者になっている論文の内容
を伝えた。
「不正だらけの論文だったよ。同意書がないのは勿論だけど、湯山さんのリンパ
腫発症ついて論文には何も触れられていなかった。臨床研究で有害事象の隠蔽いんぺいだ
から、これは酷ひどい論文だ」
　俺が不機嫌な表情でいると紀和子がまた俺の酒器に注いでくれた。

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第五話　行方不明のカルテ

「それだけですか？　随分と暗い顔をしていますけど他に何かあるんでしょう」

　俺は苦笑し、酒をもう一口飲んでから答えた。
「もっと酷いことがあるよ。論文には合計八症例をまとめたと紹介しているが、
実際にレミケードを投与したのは五例しか見つからなかった」
　紀和子が眼鏡の奥で眼を見開いた。
「ええ？　症例の水増しですか。あの頃はまだ電子カルテになっていなかったん
でしょう。どうやって調べたんですか。まさか整形外科のカルテを全部調べたん
じゃないですよね」
「もっと簡単な方法があるよ。論文では対象の患者はどれもここの病院の患者と
なっていたから、薬局の薬剤管理のコンピューターからあの頃に薬局から処方さ
れたレミケードの患者を調べて貰ったんだ」
「それで論文のことを持ち出されたとき、鬼頭部長はあんなに怖い顔をしたんで
すか。鬼頭部長が神城先生に掴み掛かるんじゃないかと心配したくらいです」
「俺もいささか恐ろしかったよ」
「掴みかかられなくてよかったです。でも部長はなんで不正な論文を書いて、そ

　
　　
の上、カルテの抜き取りをしたんでしょう。そんなことをするほどの動機って何
なんですか」
　この答えは簡単だ。
「鬼頭はどこかの医学部の整形外科の教授になりたかったらしいよ。これが全て
の答えだ」
　整形外科にいる滝山から聞いた話では鬼頭は医学部の教授を目指していたとい
う。五年前にあった整形外科教授選のときにも立候補しようとしたらしい。その
ときは業績が足りそうもないとあきらめ、別の大学の教授を目指すことにした。
横浜中央病院の部長になってからは自分の業績リストを少しでもを長くしようと
努めていたのだ。
「そこにレミケードが関節リウマチにも有効らしいという話がアメリカから伝わ
り、それに飛びついたんだ。ちょうどそこに学位を関節リウマチでとろうと大前
がタイミングよく現れたということだ」
「でも鬼頭先生って、もう部長でしょう。それでも教授になりたいんですか」
「野心のある奴にとってはそれじゃとても満足できないんだろう。白い巨塔の時
代ほどじゃなくても、医学部教授の地位と権力は魅力的なんだ」

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第五話　行方不明のカルテ

　それを目指して大前を怒鳴りつけ、論文不正でも何でもやる価値はあるという
わけだ。
「それで鬼頭部長は大前先生に無理に論文を書かせようとしたんですね」
「ああ、不正な論文作成を嫌がる大前に無理に書かせようとし、どうしても駄目
だとなると鬼頭が自分で書いたんだ。皮肉にもその論文はリウマチ関係の学会で
も評判になって、鬼頭は有頂天になったらしいよ。ところが論文が評判になると
直ぐに身内から、つまり整形外科の医局内から不正があると指摘されたんだそう
だ。何せ有害事象の隠蔽と症例の水増しだからな。さすがに医者の倫理にもとる
と整形外科の若手が猛反発をして、医局内では随分紛糾したと言っていたよ。論
文は撤回するべきだという騒ぎになったらしい」
「それが震災の日に大前先生がカルテを借り出していたこととなにか関係してい
るんですか」
「それも滝山に聞いてみた。ちょうどその頃、医局内の若手が論文の不正を追求
しようとして大前に問い合わせていたんだ。それで大前は律儀にカルテを調べて
いたのだろう。震災とそれに続く原発の事故騒ぎで、追求はうやむやに終ってし
まったらしいけれど」

　
　　
　俺の話を眉をひそめていた紀和子が呟いた。
「それじゃあんなに大きな被害があったのに、鬼頭部長にとっては地震も原発
の事故も幸運だったと言うんですか」

　まったく、返す言葉がない。紀和子も俺の不機嫌が伝染したように黙り込み、
カウンターに出された大根とぶりの煮つけの皿を取った。そこから箸でつまんで
口に運び、酒器の酒を一口飲んで少しは気が紛れたか、また気を取り直すように
聞いてきた。
「それにしても先生、どうして相良さんに気がついたんですか。私は研究ファイ
ルにカルテが見つからないので、殆どパニックでした。私たちがカルテを探すと
聞いて、抜き取ったカルテはどこかよそに移されてしまった後で、もう見つけら
れないかと思ったんです」
　確かにあのとき、紀和子は厳しい状況にあった。俺が気がついたのは相良さん
の様子を見ていられたからだ。
「紀和子がカルテの検査データを見つけたとき、相良さんは驚いていたよ。それ
も尋常じゃない驚き方だった。それで気がついたんだ」

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第五話　行方不明のカルテ

「カルテの検査データの部分は知らなかったからですね。相良さんは研究ファイ
ルにもうカルテは残っていないはずだと信じていたので、驚いたんですね」
「そうさ、鬼頭は地震の直後にドクターが記録した部分を抜き取り、後になって
不安になって改めて検査データの部分と看護記録も抜き取ったんだろう。それと
レミケードを使い始めの部分も一緒だ。カルテからは二回抜き取って研究ファイ
ルの別のところに隠したんだろうが、相良さんはそのうち一回目の分だけしか知
らなかったんだ。それを自分で取り出したから、俺たちが研究ファイルを探して
も絶対見つけられないと自信があったんだろう。それにしても」
　と俺は続けた。
「それにしてもよくキャビネットの最後まで探そうという気になったな。あれが
なければ見つからずじまいだっただろう。この事件の一番の手柄だよ」
　紀和子が嬉しそうな表情をした。
「抜き取ったカルテを同じところじゃなくて分散して隠していても不思議はない
はずだと必死に思いついたんです。それならまだ残っている可能性はあると思っ
たんです」
　そう言って一息ついてから続けた。

　
　　
「でも、鬼頭部長はどうしてカルテの検査データだけを別のところに隠したんで
しょう？」
　紀和子は自分で見つけておきながら、理由が分からないと言う。
「俺だって分からないよ。鬼頭が最初に隠したのがどのファイルだったか分から
なくなったんじゃないか。それじゃなかったら紀和子が言っていたみたいに分散
したほうがもっともらしいとでも考えたんだろう」
　俺のいいかげんな説明に納得したのか、紀和子はそれ以上は追求してこなかっ
た。代わりに別の疑問を出してきた。
「それじゃ先生、どうして太田さんのカルテだって分かったんですか？」
「太田美智雄のカルテと知っていたわけじゃないさ。震災の日、相良さんがもう
一冊、別のカルテを借り出していたと話していただろう。相良さんが隠したのな
らそこだろうと考えたんだ」
「ああ、そういえば相良さんの話の中に確かにもう一冊借り出したカルテがあり
ました。私はそのことをすっかり忘れていました。でもそれじゃ木場さんになん
て頼んだんですか？」
「震災のあとに湯山さんのと一緒に返され、つい最近もう一度借り出されたか閲

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第五話　行方不明のカルテ

覧されたカルテを探してくれるように頼んだんだ。それが太田さんだったという
ことさ」
「ああ、そうだったんですね。凄いです、先生。どうして太田さんのカルテだっ
たのかやっと分かりました」

　紀和子も少しは俺を尊敬してくれたのだろうが、残念なことにそれは一瞬だけ
で、直ぐに次の疑問を俺にぶつけてきた。
「それなら何が不満なんですか、先生は」
　俺はつけ合せの色鮮やかなさや豌豆を箸で摘まんで口に運んでから答えた。
「鬼頭はカルテから抜き取った部分を研究ファイルに隠し、いざとなったら地震
の騒ぎで紛れ込んだと言い張るつもりだったんだろう。それを知らぬままに相良
さんは三年も後になってわざわざ研究ファイルから取り出して別な患者のカルテ
に紛れ込ませ、同じ理由を使うつもりだったんだ。その二人の言い逃れをわざわ
ざ完成させたのはこの俺だ。これが楽しいか？」
「先生、自分で言っていたじゃないですか、相良さんの行動は私たちが誘発した
んだって。相良さんは部長に苛められていた大前先生を庇ったんです。聞き取り

　
　　
をしたときも口にはしませんでしたけれど、随分と大前先生のことを大事にして
いました。先生はその相良さんを助けたんです。ですからそんなに暗い顔をする
必要ないです」
　紀和子に慰められているのか、これは。
「まあ、確かに俺も相良さんに責任を負わせるのは酷だと思ったよ。彼女は大前
がカルテを抜き取ったと思い込んでいただけだからな。残っていたカルテに矛盾
がない以上、カルテから抜き取りをした犯人は医学知識が十分あるに違いない。
相良さんにそこまでやる知識があるとは思えなかったからな。俺たちが再度カル
テを探すことになって、誤解していた彼女が隠されていたカルテを別なところに
隠し直しをしたんだ」
「それにもう一つ大事なことがあります。私たちが研究ファイルを探しに行った
ときには、鬼頭部長は研究ファイルに隠しておいたカルテがなくなっているのに
気がついていました」
「そうだったな。部長は相良さんに先を越されたんだろう。カルテがなくなって
いるのに気がついて、相良さんが何かしたと気付いたに違いない。もっけの幸い
と思ったんだ」

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第五話　行方不明のカルテ

「そうです。部長はきっとカルテを処分するつもりでいたんです。ですから相良
さんのお蔭でカルテは捨てられずに済んだんです。先生はその相良さんを救った
んです」

　言い終わって紀和子はしばらく黙ってガラスの酒器を手にし、ゆっくりと飲み
干した。
「先生って、研究が絡むと急に頑なになります。何かあるんですか」
　余計なことに気がつくやつだ。話がうまくない方向へ進みそうだから、俺は話
題を変えることにした。
「それよりこのカルテ事件が解決したのかも微妙だよ。肝心の一番悪い奴を見逃
しているからな」
　紀和子がニマっとした。何を考えているのか怪しげな笑みだが、幸いに俺の策
略に旨く乗ってくれたようだ。
「先生、昨日の午前中に先生が外勤でいないとき、仲西先生に呼ばれました。部
長はカルテ庫の木場さんから話を聞いたそうです。私も知っていることを伝えた
ら、カルテ探しご苦労さんとわざわざ言ってくれたんですよ。そのとき、他言無

　
　　
用と念をされて神城先生に伝えて欲しいと言われました」
「仲西部長？　何を言われたんだ」
　俺の反応に紀和子が嬉しそうな顔をした。
「聞きたいですか」
　まったく、焦らそうというのか。聞きたいに決まっている。
「相良さんは医局の秘書を続けられるそうです。それに鬼頭先生はこの秋に病院
をやめて開業することになったそうです。問題の論文のことは病院の幹部も知っ
ていて、どうするかという議論が以前からあったんです。結論が出ないうちに本
人が辞職すると申し出て来たんだそうです」
　こういう結末になるのか。しばらくの間、俺は料理とお酒を味わった。これが
病院のけじめなのだろう。
　紀和子がちらりと時計に眼を走らせた。まだ、宮崎は現われない。
「これでやっとカルテのことはわかりました。あとは湯山さんの治療が何とかな
るといいんですけれど」
　紀和子が何気なく呟いたが、これは妙だ。
「紀和子、俺が今朝、転送しておいたメールを読んでいないのか？」

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第五話　行方不明のカルテ

「え、メールって何のメールですか？　今日は読んでいません。あ、ちょっと待
ってください」
　紀和子がスマートホンをバッグから取り出し、あわてて操作して表示されたメ
ールを読んでいる。読み終えると顔を上げた。
「これって、どういうことですか」
「それは湯山さんのリンパ節の材料からアポチロシンキナーゼ遺伝子とイミュノ
グロブリンのエンハンサーとの融合が見つかったという知らせだ。俺が国立がん
研究所の知り合いに資料を送っておいたんだ。アポチロシンキナーゼが過剰発現
しているなら、今ちょうど治験ちけん中のマテバチニブが効く可能性が高いから、その
治験に入れてもらえるという連絡があったんだ。血液内科の部長にもメールは転
送してあるから、もう動き出しているだろう」
　紀和子が文字通りスツールから飛び上がった。眼鏡の奥で目を輝かせ、俺のほ
うに手を差し伸べて来た。
「先生、凄い。これで湯山さん、治りますよね。マテバチニブって、ほとんどの
患者さんが寛解かんかいするっていうんでしょう」
　まあ、まだ紆余曲折うよきよくせつはあるだろうが、湯山さんの治療も期待していいだろう。

　
　　
紀和子のこの嬉しそうな顔を見られるなら、いささか憂鬱だった今度の事件に関かか
わったのもよしとしよう。

　俺は差し出してきた紀和子の手とハイタッチをした。紀和子が高揚したまま手
を預けてきて、俺は紀和子の手を握ろうとした。
　しかし、神様は意地悪だ。俺の視野の片隅に店の扉が開くのが見え、背の高い
男が入ってきた。それが見えるはずもないのに、紀和子が体をくるりと回してそ
の男のほうを向いた。せっかく握りかけた紀和子の手は離れてしまい、男は俺た
ちのほうに向かって歩いてくる。
　宮崎侑、お前は白馬の騎士の資格十分だ。それは認めるからせめてもう五分遅
れて現わればいいものを。

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第五話　行方不明のカルテ

《注》
アポチロシンキナーゼは空想上の遺伝子です。したがってこの遺伝子とイミュノ
グロブリンのエンハンサーとの融合遺伝子によるアポチロシンキナーゼの過剰発
現は架空の病態です。マテバニチブという薬剤も空想上の新薬です。







　
　　

　
　　
　　
　病院は謎だらけ
　第六話　症　候　群

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第六話　症候群

　
　　

　１　セレウス菌

　カルテ事件以来、たいしたこともなく夏は過ぎていった。この夏の出来事とい
えば、横浜中央病院にもキャンサーバンクの分室が出来て病理部では俺がその担
当にさせられたことと、紀和子が月曜日に手首と首筋にうっすらと日焼けをして
病院に現れたことぐらいだ。
　キャンサーバンクは手術で採取された癌の一部を超低温で凍結して保存してお
くというシステムだ。液体窒素を用いて急速に凍結した癌組織はうまく常温に戻
せば凍っていた細胞が復活して培養することが出来るし、何しろ超低温だから癌
組織は変性せず、遺伝子変異を後になっても調べることも出来る。
　実際にはバンクに保存することを承諾した患者の手術が決まると、俺たち病理
部の医師と技師も術前カンファランスに顔を出すことになった。あらかじめどう
いう癌なのか知った上で手術で採取された組織を受け取るというわけだ。同時に
これはキャンサーボードのケーススタディーにもなっているということだった。

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第六話　症候群

　おかげで俺は時折、夕刻に術前カンファに引っ張り出されることになり、紀和
子と一緒に病棟のカンファランス室に出かけることになった。はじめのうちは技
師は適当に手のあいた誰かという事だったのが、いつの間にかもっぱら紀和子が
行くことになっていた。そういうところに顔を出して、病院のいろいろな職種の
人と顔をあわせるのが楽しいというのだ。

　そうこうしているうちに暑い季節は終わり、秋雨の季節になっていた。その日
の終業時刻を大分過ぎた頃に紀和子が俺の小部屋に現れた。
「先生、血液培養でセレウス菌なんて出るんですか」
　現れるなり書棚の隅に積み上げられたミステリーに眼もくれず、紀和子はいき
なり聞いてきた。
　血液培養は患者の血液から細菌を培養することで、陽性ならそれは検出された
菌が患者の血液内で増えていることを意味している。菌血症きんけつしようとか 敗血症はいけつしようと呼
ばれる状態だが、人間の血液にはそう簡単には細菌は入り込まないし、少々入っ
たからといって健康な人では増えたりしない。勿論、誰にでもそんな検査をする
わけではなく、何かの理由で疑われた患者に行う検査だ。

　
　　
「セレウス？　何だ、それは」
　俺は読んでいた病理専門誌をぱらぱらめくりながら答えた。俺の目の前にすら
りと背の高い高遠紀和子が立つている。白衣ではなくすでに私服姿だ。今日は雨
のおかげで一日中薄ら寒く、それにあわせてレインコートを羽織っているし、片
手には傘まで用意している。なんとも用意がいいが、私服姿で俺のところに現れ
る紀和子はつまりいつでも出かけられますよ、というアピールなのだ。そういえ
ば、今日は木曜日で宮崎が外勤に出ている日だった。
「何か話があるんなら、どこかで夕飯を食べるか。酔来軒でよければ奢るぞ」
　そうこなくちゃと紀和子は喜び、ニマッとしてそれじゃ佳子ちゃんが病院の玄
関で待っているはずですと告げた。異議を唱える暇いとまもなく、俺はまんまと紀和子
の術中にはまり、臨床検査部にいる親友の小平佳子こだいらけいこと一緒に酔来軒に向かうこと
になった。

「いらっしゃい、神城先生。鬱陶うつとうしい天気ですけど二階のいつもの席にどうぞ」
　昼飯は売店で買う弁当かたまに奥さんが作ってくれる弁当で済ませるが、夜は
時折、石田のお気に入りのこの店に来るので店のおかみさんとはすっかり馴染み

266

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第六話　症候群

になっている。
「最近、石田先生はすっかりお見限りで、来てくれないんですよ。今度一緒にい
らっしゃってくださいな」
　そう言いながら紀和子と小平佳子から注文を聞いている。俺は面倒だから紀和
子に任せたのだ。
「先生、たまにはどこかで豪勢にご馳走してください。先生と来るといつもこの
ぼろい中華料理屋です」
　おかみさんが降りていくと紀和子がひどいことを言ってきた。
「こらこら、そんなことを言うな、おかみさんに聞かれるぞ。大体、いつぞや石
田にご馳走になったときは素敵な店だと言っていただろうが」
　俺が言うと紀和子は首をすくめながら答えた。
「あれは社交辞令です。でも先生にはそんなの要らないでしょう」
　隣で小平佳子が笑っている。まったくなんというやつだ。俺に社交辞令は要ら
ないのは構わないが、言い方が露骨だ。
「ご馳走は宮崎にしてもらうんだな。あいつなら喜んで食わせてくれるだろう」


　
　　
　三人で届いたビールで乾杯をしながら宮崎を持ち出すと紀和子はわざとらしく
しかめ面をした。
「宮崎先生って、いつも横浜の駅前の浜屋で、先生と同じくらい渋いです。せっ
かく貰った給料はぼろい車のガソリン代と、採集した蝶や虫の標本箱を買うのに
使っちゃうんです。あれって高いんですよ」
　確かに浜屋じゃここと似たりよったりには違いないが、標本箱の値段まで知っ
ているとは二人の間は順調に進んでいるようだ。隣で小平佳子がにこにこと余裕
の表情を見せている。そういえば小平佳子のほうは順調に進んでいて、この秋に
結婚するという話を紀和子から聞いたばかりだ。
「それより何か話があるんだろう」
　促すと紀和子が眼鏡の奥で眼を輝かせた。
「そうでした。さっきも話しましたけど、血液培養で変な菌が出て、それが臨床
検査部で問題になっているって、佳子ちゃんが言って来たんです」
　そうだったな、それならと俺は小平佳子を振り返った。
「紀和子にも聞いたけど、そのセレウス菌って、いつもそこらへんにいる菌じゃ
ないのか」

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第六話　症候群

「環境中の常在菌ですから、その通りですけれど、血液培養ではあまり検出され
ないはずです」
　常在菌というのは当たり前にそこいらにいる菌で普通は病原性を持たない。そ
れでも時には感染症をおこすし、まれには敗血症になることがある。
「血培ではそんなに珍しいのか、セレウスって」
「私もよく知りませんけど、一％くらですから、例がないわけではないそうです。
大嶺おおみねさんがそのまま報告を出したら、検体を出してきた先生がそんなのあり得な
いって、クレームをつけてきたんです。部長がそういうことならコンタミだろう
から、それを調べろって言い出したんです」
「コンタミか。そんなに珍しい結果ならどこかで検体が汚染されたと疑ってみて
調べるのは普通だと思うけれど。それをつぶさないと結果をそのまま簡単に信じ
るのも危ないな」
　コンタミとはコンタミネーション、つまり余計なものが調べるべき資料に混入
して、間違った結果を出すことだ。
「ああ、あんまりです。先生は芦田あしだ部長の肩を持つんですか」
　やり取り聞いていた紀和子が割って入ってきた。

　
　　
「こらこら、紀和子、どんなに落ちぶれても、俺が芦田の肩を持つわけがないだ
ろう」

　ちょうどそこに注文した料理が届き始めた。並び始めた料理を見て小平佳子が
眼を見張り、紀和子に笑顔を向けた。
「高ちゃん凄い、こんなの頼んだの。これらなら中華街の立派な料理店と変わら
ないわよ」
「佳ちゃん、ここはいい店だって言ったでしょう」
　さっきはぼろいと言っておきながらなんというご都合主義だ。おまけに人の財
布だと思って、紀和子は遠慮というものを知らないのか。
　紀和子は俺に向かってニマッと笑って見せ、それから美味しそうにスープを一
口飲んでから本題に戻った。
「佳ちゃんは部長が大嶺さんを苛いじめているんだと言っています。私もそう思いま
す」
　大嶺さんは細菌培養を担当しているベテランの技師だ。俺が大友さんから仕入
れた話だと芦田が臨床検査科の部長になって以来、何人かのベテランの検査技師