病院は謎だらけ１
　― 高遠紀和子、病院の日々 ―

　都筑　一郎

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プロローグ　　　　　　

　　主な登場人物

　　高遠 紀和子たかとおきわこ　　　病院病理部　臨床検査技師　本編の主人公
　　神 城 稜 一かみしろりょういち　　　　　同　　　病理医　『俺』

　　仲 原 道 匡なかはらみちまさ　　　　　 同　　　病理部長兼副院長
　　武 村 弓 子たけむらゆみこ　　　　　 同　　　臨床検査技師　係長
　　大 友 睦 美おおともむつみ　　　　　 同　　　事務担当　病理部の『ヌシ』
　　小 平 佳 子こだいらけいこ　　　 臨床検査部技師　高遠紀和子の親友

　　石 田 逸 郎いしだいつお　　　 乳腺外科部長　　　外科医　三人組のひとり
　　芦 田 伴 之あしだともゆき　　　 臨床検査部部長　　内科医
　　服 部 史 和はっとりふみかず　　　 消化器内科医　　講師　肝臓専門医

　
　　


　　 プロローグ

　十月一日の朝、地下鉄を大学病院前で降り、階段を上って地上に出た。地下鉄
の出口は病院に続く小規模な商店街の外れにあり、そこからは軒を並べる店舗の
向こうに、通りを隔てて十四階建ての横浜大学医学部中央病院の建てものを望む
ことが出来る。
　この病院は十数年前までは横浜大学医学部の唯一の附属病院だったのだが、医
学部と附属病院が横浜市の南の外れに移転してしまい、改築と同時に今の名前に
改称されたのだ。横浜の下町の中心的な病院である今も医学部附属の病院である
ことに変わりはない。それなのに名称からは『附属』という言葉がはずされ、普
段は医学部中央病院とか単に中央病院と呼ばれて、内部では第二病院と揶揄やゆされ
るこの病院が今日から俺の職場だ。
　商店街の上には雲ひとつない十月の空が広がっていて、まあ、新しい職場にど
んなことが待っているか知れないが、天気の神様は俺を後押ししてくれているん

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プロローグ　　　　　　

だろう、などとつまらぬ事を考えながら歩き出そうとしたとき、背後から階段を
駆け登ってくるあわただしい靴音が響いてきた。
「ああ、ごめんなさい、遅刻しそうで」
　階段を昇り終えたうら若い娘が俺の脇をすり抜けて行こうとした。俺は身を寄
せて通そうとしたが、声の主は敷石のわずかな段差につまずいて足を滑らせた。
「きゃあ」
　バランスを崩したその娘はけたたましい声をあげながら俺にもろにぶつかリ、
肩から下げていた鞄にしがみついてきた。鞄かばんは衝撃に耐えられずに肩からずれ落
ち、娘はそのまま一緒にずるりと尻餅をついた。その拍子に歩道の脇に止められ
ていた自転車にスカートの裾が引っかかり、幅広のプリーツの入ったグレーの洒
落たスカートが俺の目の前でパァーッと捲くれ上がった。
　娘は何が起きたか分からないらしく、尻餅をついたまま呆然としていたが俺の
視線に気づいて、はっとして両足を縮めた。捲くれあがったスカートの裾を両手
で掴んで引き下ろし、剥き出しだった部分をあわてて隠した。
　薄い麦わら色のブラウスに紺色の上着を着たその娘は不自然に脚を縮めたせい
か、立ち上がろうとしてうまく立ち上がれない。俺は笑いだしたいのを懸命にこ

　
　　
らえ、謹厳な顔をして手を差し出した。娘はその手にしがみついてようやく立ち
上がった。
「あ、有難うございます。あの、見苦しいものをお見せして」
　縁なしの眼鏡をかけた背の高い娘だった。背が高いだけでなく、手足も長くて
もてあましている様子だが、セミロングの髪をなびかせ、少し大きめの口を半開
きにして喘いでいる。
「いやいや、見苦しいなんてことはないよ。こちらこそ勿体ないものを」
　そう言うと、その娘はぱっと頬を染めた。
「勿体ないなんて」
　小さな声で呟いて、顔を赤らめたまま俯いてしまった。
　それしか言いようがないじゃないか。まさか、若い娘のお尻を見苦しいなんて
言えないし。
「あ、有難うございました。あの、遅刻しそうなので、お先に失礼します」
　そう言って俯いたまま走り出し、病院に向かう商店街からはそれて細い路地に
入って行きかけた。左手には自分のバッグを持ち、右手には俺の鞄を掴んだまま
だ。ちょっと待ってくれ、俺の鞄を返してくれ、と口にしかかったところでその

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プロローグ　　　　　　

娘も気がついて足を止めた。
「ご、ごめんなさい、お返しします」
　長い手足をもてあましながら路地を走り去っていく姿を俺は呆れながら見送っ
たが、ちょっと残念な気もした。もしかしたら俺が向かっている病院に勤めてい
るのかと期待したのだ。こんな娘と一緒に仕事をするなら、病院勤めも決して退
屈はしないで済むだろう。
　待てよ、朝、出掛けに俺の奥さんが予言したのはこれか。俺が憂鬱な顔をして
病院初出勤に臨もうとしているのを見て励ましてくれたのだ。
「そんな顔をしないで行ってらっしゃい。きっと何かいいことがあるわよ」
　彼女の傍では十歳になった双子の娘が口真似をして、一緒に俺を見送ってくれ
た。奥さんの予言がこれではちとけち臭いが、何もないよりはましだ。
　
　ハプニングのせいもあり、始業時刻に少し遅れて病院の五階にある病理部に顔
を出した。その日が病院に異動になった初日だったので、病院の副院長を兼任す
る仲西なかにし道匡みちまさ病理部長がスタッフをカンファランス室に集めて、俺に挨拶をしろ
と促して来た。

　
　　
　それではと、何人かの医師と臨床検査技師、それに事務担当の女性を前に神城かみしろ
稜一りょういちと名乗って簡単に挨拶を終えようとしたとき、病理部の入り口のほうから
ばたばたと足音が聞こえ、白衣姿の臨床検査技師が一人、集まっていた技師たち
の中に加わってきた。
「すみません。朝寝坊で……」
　俺は聞き覚えのある声に振り返った。白衣に着替えてもやはり手足をもてあま
したさっきの娘が口を開いたまま言葉を飲み込み、眼鏡の奥の眼を見開いて俺を
見つめて突っ立っている。
「どうしてここに……」
　と、言いかけてぱっと頬を染めた。部長や他の医師、それに俺の周りに集まっ
ていた技師たちも一斉に振り向き、視線がその娘に集まった。あまりの慌て振り
に部長は俺とその臨床検査技師の顔をかわるがわる見比べている。
「高遠たかとおさんとなにかあったの？　神城先生」
「いや、別にたいしたことじゃないんです。ついさっき地下鉄の駅を出たところ
で……」
　と、言いかけたところで俺は遮さえぎられた。

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プロローグ　　　　　　

「だめえ、言わないで、お願い」
　大丈夫だ。俺だってそれぐらいは心得ている。若い娘がパンツ姿を晒したなん
て言わないさ。
「いや、地下鉄の出口で躓つまずいて、もろに私に体当たりして来たんです」
　カンファランス室がどっと沸き、後ろの方で若い男の技師がぼそりと呟いた。
「これで、伝説がまた一つ増えた」
　一同の笑い声を浴びてその娘はフォローの甲斐なくますます縮こまってしまい、
長い手足がよけいに余ってみえる。挨拶は中途半端になり、結局、みんなの笑い
のうちにそのまま解散となった。


　皆がそれぞれの持場に戻っていったあと、係長の武村弓子たけむらゆみこがその娘こと俺を呼
び止めた。
「神城先生、紹介しておきますね。遅れて来たのが高遠さんです。ごらんのとお
り、おっちょこちょいが白衣を着て歩いているような娘ですけど」
「ああ、地下鉄の出口でとてもユニークな自己紹介をしてくれたよ。よろしく、

　
　　
高遠さん。名前はなんていうの？」
「あ、あの、紀和子きわこといいます。どうぞよろしくお願いします。紀州の紀に平和
の和です」
　紀和子？　字は違うが同じ音だ。俺は改めてその顔を見つめたが、さりげなく
視線を逸らした。俺の素振りには気づかぬ様子で紀和子という名の娘は続けた。
「あの、言わないでくれて有難うございました」
　おいおい、せっかく俺がうまくフォローしたのに自分でばらしてしまっている
じゃないか。
「やっぱり何かあったの？ 高ちゃん」
　係長に高ちゃんと呼ばれて、その娘は両手で口を押さえた。
「いやあ、だめです。係長、とても言えません」
　その娘は俺を振り返って、今度は胸の前で手を組合わせた。
「先生、言わないで、お願い」
　大丈夫だ、俺を信じてくれ。
「もちろん言わないよ。二人だけの大事な秘密にしておくよ」
「二人だけの秘密だなんて、もう恥ずかしい」

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　高遠紀和子は後ずさりし、仕事に行きますと言ってくるりと向きを変え、小走
りにカンファランス室を去っていった。
「しょっちゅうなのよ、あの娘。去年の春に入職して、一年間、いろいろな部署
を廻って勉強したあと、今年の春から生理検査室に配属になったんです。それな
のに、この夏にちょっとした事件があって病理に配属換えされることになったん
です。頭はいいし、よく仕事をするんですけど、もの凄いおっちょこちょいなん
ですよ。どうせ先生の前で転んでパンツが見えたかどうかしたんじゃないんです
か」
　図星だ。まったく女の勘は恐ろしい。

　俺はその日の朝の地下鉄の駅の出来事を思い出した。高遠紀和子のパンツ姿で
はない。走っていくその娘の後姿を見送りながら期待した事だ。期待通り、退屈
はしないで済みそうだが、子守役に苦労するのは俺になるという予感がした。



　
　　
　
　
　
　
　
　　
　病院は謎だらけ
　第一話　　再　発
　
　
　
　
　
　

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第一話　　再　発

　１　リンパ節

　病院勤務を始めて二週間ほど経った日の午前中、俺は覗き込んでいた顕微鏡か
ら身体を起こした。
　集中していた意識が顕微鏡の中に広がる世界から離れると、今朝も病理部のど
こかから誰かの悲鳴やら憤激の声が耳に入ってくる。
　この病院の病理部で俺があてがわれた部屋は医師検鏡室の奥にあって、本来は
撮影用の顕微鏡置き場として用意されたところだ。部屋の仕切りは途中までで扉
があるわけではなく、隣の部屋だけでなく、技師たちの作業室あたりの音も全部
聞こえてくる。賑やかな騒動の中心はもちろん高遠紀和子だ。俺の初日の予感の
半分はその通りになっている。
　見ていた標本は昨日、釜台かまだい病院で受け取ってきたものだ。大学病院に勤める医
者は誰でも週に一日ほど外の病院に出向いていく。外勤と称されているこの仕事
は権利なのかそれとも義務なのか、なかなか判然としない。俺が週に一回、午前


　　

中に出かけていく病院はベッド数が二百五十床ほどで、常勤の病理医はいない。
病院の奥にある病理検査室の片隅に机が並んでいて、そこに何台かの顕微鏡が置
いてある。
　その日は釜台病院へ出向いて朝から病理標本を検鏡しているところに、珍しく
外科の医師が相談があると電話をしてきた。標本を見終わればいつでもいいと伝
えておいた。
　昼すぎになってその日の病理標本を見終え、技師と雑談をしているところに、
まだ若くて小柄な清水医師が現れた。この春までは俺のいる医学部中央病院の外
科に勤めていて、四月に医局のローテーションでこの病院に赴任してきたのだと
いう。
　
「先生、お忙しいところをすみません」
　俺が椅子をすすめるとそれに腰をおろし、べらんめえ調で清水医師が用件を切
り出してきた。
「実は先週、うちの耳鼻科で生検した腋窩えきかリンパ節に癌の転移が見つかった患者
がいるんですよ。大学の病理学教室から来ている中川先生が病理標本を見てくれ

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第一話　　再　発　　　　

たんですがね、転移性の癌、それも乳癌の転移だろうと言うんですね。中川先生
は神城先生も知っているでしょう。それで病理の報告書を見た耳鼻科の先生が私
のところに転科させてきたんですよ」
　そういうことなら相談相手は中川だと思うが、とりあえず先を促した。
「患者さんはまだ若いですし、高校生のお嬢さんもいるというので出来るだけ早
く先生のいる大学病院に転院させて、治療を始めるのがいいだろうと思うんです
ね」
「私のいる病院でというなら石田のところかな」
「そうです。石田先生のところにお願いするんですが、あの先生に頼むからには
乳癌だと確認しておきたいんです」
　なるほど、それで俺に頼んできたというわけか。リンパ節の病理診断をしたと
いう中川は医学部の第二病理学教室に所属している。自分の研究には熱心だが、
病理診断はやりたがらず、外勤先の病院では出来るだけ手抜きをしようという奴
だ。幸いに外勤の曜日が違っているから、係わり合いになることはないと思って
いた。ちなみに俺は第一病理に所属している。
「それなら、手術歴を確認して、以前の手術のときの組織と今回のを比べてみれ

　
　　
ばいいんじゃないか」
「そのとおりなんですが患者さんはこの病院は初めてで、以前のカルテも標本も
ないんですよ。それで私から免疫染色をして欲しいって頼んだんですがね、中川
先生はこれ以上は不要だって言うんです」
「どうせ大学病院に行くんだから、そっちで染めてもらえって言われたのかな」
　清水医師はそのとおりだと言う。
「それで、患者はいずれ先生の病院に紹介することになりますから、先生のとこ
ろで早めに免疫染色をお願いできないでしょうか」
　まあ、やむをえない、というか中川への反発だ。未染標本を十枚ほどを用意し
てくれれば、持って帰って染色しておくと伝えた。
　未染標本というのは薄切したパラフィン切片をスライドガラスに貼り付けただ
けのものだ。まだ染色していないから必要に応じて好きなように染められる。持
ち運ぶのに便利だから自分のところで出来ない染色を頼むのはたいがいはこの状
態で手渡しするか、宅配便で送ればいい。
　俺がその気になると技師の畑中さんが既に用意されていた未染標本とＨＥ標本
をすぐに渡してくれた。手渡された黒い標本箱からＨＥ染色を施したしたスライ

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第一話　　再　発　　　　

ドガラスを取り出した。ＨＥ染色は紺色と茜色の二種類の染料で標本を染めたも
ので、通常はこれで病理診断をしている。
　スライドガラスにはイトウミチコと患者の名前が印刷されたシールが貼ってあ
り、それを顕微鏡にセットして覗き込んだ。視野には美しく二色に染め上げられ
た組織が広がり、そこに歴然とした癌細胞が見える。
「なるほど、これなら私も転移性の癌だと診断しますよ。腋窩のリンパ節という
なら乳癌からの転移の可能性が高いですけれど、確認するには確かに免疫染色が
必要だね」
「中川先生も同じ事を言ってました。手術材料があればそれと比べればいいし、
ないならこのリンパ節生検の材料を免染すればいいと言うんですね。確か、ＥＲ
とＰｇＲ以外に肺癌由来でないこと、消化管の癌由来でないことを調べておけば
いいだろうと言っていました」
　そこまで抑えておけば確実だ。そんなによく分かっているなら自分でオーダー
して自分で検鏡すればいいものを、やっぱりここでも手抜きをするのか。俺は中
川の顔を思い出し、不愉快になった。幸いにもあいつと顔を合わせることがない
のがせめてもの慰めというわけだ。

　
　　

「実は、もう一つ問題があるんです」
　清水医師が話を続けた。
「最初に耳鼻科の先生が患者さんに病歴を尋ねたとき、十年以上前に大学病院で
手術したことがあるって言ったらしいんです。ところが私のところの外来で確認
しようとしたらそんなことはないって言うんですね。そもそも癌の手術なんかし
たことないって言い張っているんです」
　なんだか奇妙な話だが、手術をしていようがしていまいがこのリンパ節には紛
れもなく癌の転移がある。
「清水先生、患者さんを診察したんでしょう。だったら皮膚に手術の痕跡あとがあっ
たんじゃないですか」
「いや、それがね、少なくとも私が診察した限りでは判りませんでした。あまり
丁寧に診られなかったんですよ。簡単に触診したんですけど、その限りでは乳房
腫瘤はありませんでした」
　まあいい。清水医師に聞くと患者は伊藤美智子いとうみちこということだから、もし俺のい
る医学部中央病院で手術したのなら、名前からコンピューターで探せば直ぐに見

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第一話　　再　発　　　　

つかるだろう。
「いいですよ。うちの病院に戻ったら病理システムで検索してみます。手術して
いればその時の手術材料の組織と見比べて、必要なら一緒に染色してみますよ」

　そういうわけで昨日の午後、俺は預かってきたリンパ節の未染標本を係長に渡
して免疫染色を頼んでおいた。ＨＥ染色標本だけは手元に残しておいたので、仕
事に一区切りをつけて、それを見ていたのだ。
　乳癌の転移で間違いなかろう。後は頼んでおいた染色が出来上がるのを待てば
いい。俺が病理を始めた十年以上前なら免疫染色もようやく使えるようになった
ばかりで、限られた抗体しか手に入らなかったから、殆どの検体はこのＨＥ染色
だけで診断していた。いい時代だったなと考えているうちに現実世界のことを忘
れてしまった。


「……先生」
　遠くから声が聞こえてくる。となりの医師検鏡室の誰かを呼んでいるのだろう


　　
と思っていたら、ひそやかな踊るような足音がして、探るような声が耳のすぐ後
ろから聞こえてきた。
「神城先生、眠っているんですか？」
　これは高遠の声だ。別に眠っていたわけではないが、その声に現実に呼び戻さ
れた。俺はため息をつきながら瞑想の世界に別れを告げた。
「おいおい、まだ、午前中だよ。いくらなんでも……」
　と、呟つぶやきながら振りむくと、縁なしの眼鏡をかけた顔が興味津々という表情で
俺を覗き込んでいる。互いの鼻先をぶつけそうな距離で俺は高遠紀和子と顔を突
き合せていた。
「うわっ、高遠」
「きゃあ、先生」
　二人で同時に声を上げ、俺を覗きこんでいた高遠はあわてて身体を起こした。
「ごめんなさい、先生。あんまり静かなんで眠ってるかと思っちゃいました」
　まったくなんて奴だ。いくら今日は暇だからといって午前中から眠っているわ
けがないだろう。まあ、たしかに瞑想に耽っているうちに意識がなくなることは
あるが、それはだいたい午後の話だ。

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第一話　　再　発　　　　

　俺より一足早くこの九月に病理に配属になった高遠は、のっぽで長い手足を持
て余しているだけならいいのだが、いつも前振りなしの予測のつかない言動で周
りを驚かせている。
　大体、人事は春が普通で、臨床検査技師が秋に別の部署に配属換えなんてのは
普通はあり得ない。事務をとり仕切っている大友さんから仕入れた情報では、生
理検査を担当していたこの夏に、心電図を採ったあとによろけたついでにお尻に
手を伸ばしてきた患者の手を、高遠は『すけべ爺い！』と罵ののしってぴしゃりと叩い
たのだ。
　その患者は有力市議会議員だったから後が大変だった。議員は病院にいろいろ
をいちゃもんをつけてきて、理由を知った病院の幹部が慌てまくったらしい。一
部始終を見ていた同僚の技師の証言もあってさすがに高遠を処分をするわけにも
いかず、生理検査部門の担当からはずして、あらぬ時期に病理部に配置換えする
ことで事を納めたらしい。
　もっとも病理部に飛ばされた本人は、以前から病理に配属してほしいと言って
いたから大喜びしたらしいが。


　
　　
「高遠か、相変わらず心臓に悪い現れ方だな。まだ心臓がどきどきしているぞ」
「先生、それはあんまりです。いくら背が高すぎて手足が余っているからって化
け物みたいに言わないでください」
　そう訴えながら高遠は手足を縮めている。本当はかわいい娘なのだ。眼鏡越し
の好奇心に満ちた眼差しと一緒に表情がくるくる変わるし、頭の中で思いついた
ことがあまりにも短絡的に言動に繋がっているので奇矯に見えるだけだ。背が高
いには違いないが本人が気にしているほどやたら高いわけではない。要するに自
意識過剰だ。背丈のわりに手足はたしかに長いようで、病院支給の白衣では、ま
あ少しつんつるてん気味だ。
「心臓に悪いのは高遠の手足じゃないさ。それでいったいなんだ」
　高遠はぐいと眼鏡を押し上げて、スライドガラスの並んだマッペをぬっと突き
出してきた。眼鏡を押し上げるのは気合を入れるときの癖らしい。
「昨日、先生がオーダーした急ぎの免疫染色ができました、はい。残りは明日染
めます」
「高遠が染めたのか。仕事を覚えるのが随分速いじゃないか」
「普通の染色は以前にやったことがありますし、通常業務では自動染色機でやり

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第一話　　再　発　　　　

ます。少し前から免疫染色を教えてもらっているところです。これは是非やらせ
て欲しいって、わざわざ引き受けたんです。先生、それでこのリンパ節の診断は
何ですか」
「免染のついでに見たんだろう、ＨＥ染色の標本」
「見ましたけれど、わかりませんでした。生検した釜台病院ではリンパ腫疑いだ
って、申込書に書いてありましたけど」
「わからないって言うからには高遠もリンパ腫とは思わなかったわけだ」
「そりゃあ、これでも一応病理の技師ですから」
　と、言いながら高遠は胸を反らして見せた。まったく高遠は自分の言動が他人
にどう思われるか、まるで意識しない。まあ、胸を張ったからって、だぶついた
白衣じゃ大したことはないのだが。
「でもそれじゃ、何なんですか」
「リンパ節でピンクっぽいのは炎症かそれとも癌の転移だね。リンパ腫ならまず
は真っ青だよ」
「やっぱりそうなんだ。癌だと思いました。でもどうして転移だってわかるんで
すか」

　
　　
「おいおい、高遠紀和子、リンパ節に癌は発生しないぞ。リンパ節に癌があった
ら、それは転移だろう。どこかで発生した癌が転移してきたものだ」
　高遠はしまったという顔をした。こいつの顔を見ていると、何を考えているか
すぐに判るから、それだけでも面白い。
「ああ、そうでした、恥ずかしい。生理検査に飛ばされている間に病理のこと、
すっかり忘れてしまいました。常識ですよね」
　飛ばされていた？　逆に生理検査から病理に飛ばされたんだろうが。まあ俺も
飛ばされたようなものだからお互い様か。
「そうさ、納得したか」
「わかりました。でもそれじゃ、どこからの転移なんですか？」
「大体の見当はついているが、それを確実にしたいから免染を頼んだんだ。見て
みるか」
　免疫染色は特殊な染色方法だ。普通のＨＥ染色だけでは癌の病理診断がしきれ
ないときに、組織に発現している抗原をそれに結合する特異抗体を使って染色す
る方法だ。これを使えば最終的な病理診断が下せるから、それに基づいた治療が
出来る。

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第一話　　再　発　　　　

　マッペからＡＥ１／ＡＥ３とラベルの貼られたスライドガラスを手に取って明
るい方にかざした。
「これは顕微鏡で見るまでもないな。肉眼でも茶色に染まっているのが判るよ。
一応確認しておこう」
　スライドガラスを顕微鏡のステージにセットして接眼レンズから覗くと、期待
通り、癌細胞が茶色に染まっている。俺が椅子に座ったままで身体をそらしてス
ペースを空けると、さっそく高遠が顕微鏡を覗き込んだ。
「ええと、ＡＥ１／ＡＥ３はサイトケラチンで上皮細胞のマーカーですよね。こ
れが染まっていればその細胞は癌だとわかるわけですね」
「その通りだよ。次はどうだ」
　ＥＲの抗体で免疫染色されたスライドガラスを顕微鏡にセットした。傍で高遠
がお預けをくった子犬みたいな表情で待っている。癌細胞が期待通りにＥＲの抗
体で染まっているのを確認してから、待っている高遠を振り返った。
「高遠、いいのか。今日は木下さんに何か教えて貰っているんじゃないのか」
「ああ、もう、先生、意地が悪い。大丈夫です。今日は主任じゃなくて係長に教
えてもらっています。だから見せてください」

　
　　
「染色したときに一度見ているんだろうが。まあ、いい、ほらＥＲだ。染まって
いるだろう」
　もう一度、顕微鏡の前を高遠に譲った。屈みこんだ高遠が俺のすぐ脇で顕微鏡
を覗き込んでいる。ナース仕様の白衣は一番上のボタンがはずされていて、眼鏡
をかけた横顔と白い首筋が間近に見えている。厳粛な病理診断を下そうとしてい
るのに、これはいささか刺激的な眺めだ。俺が眼をそらして視線をさまよわせて
いると高遠のクールな声が聞こえてきた。
「ＥＲはエストロジェンリセプターですよね。本当ですね、癌細胞の核がみんな
茶色に染まっています」
「そうさ、確実に陽性だ。次のＰｇＲはどうだ」
「ええと、それじゃ」
　高遠は次のスライドガラスと取り替え、また顕微鏡を覗き込んだ。ステージを
動かしたり、ピントを合わせようとダイヤルを熱心に回している。夢中になった
高遠がさらに屈みこんできて、肩が俺の胸に押し付けられてきた。体をひねって
もっとスペースを作ろうとしたが、バランスを崩しそうでそれ以上動けない。ど
うもこのシチュエーションは具合が悪い。

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第一話　　再　発　　　　

「さあ、もういいだろう。ＰｇＲも陽性だ」
「先生の言うとおりＰｇＲもＥＲと同じで、細胞の核が陽性です。でも先生、こ
のＰｇＲってなんの略ですか？　これもホルモンの受容体ですか」
「そうだよ。プロジェステロンリセプターの略だ。どうだこれで決まりだろう」
「決まりって、これで転移の元の癌がわかるんですか」
　顔を上げて顕微鏡を離れ、高遠が俺のほうを向いた。ようやく俺は不自然な姿
勢から解放された。
「そうさ、今見えている癌細胞はエストロジェンやプロジェステロンの影響下に
ある細胞というわけだ。これならわかるだろう」
　高遠が考え始めたから、残りの免疫染色をチェックすることにしたが、顕微鏡
を見始めると背後からすぐに声がかかった。
「エストロジェンは卵胞ホルモンのことで、プロジェステロンは黄体ホルモンの
ことですよね。それなら卵巣癌ですか？」
　スライドガラスをマッペに戻しながら俺は解説してやった。
「卵巣は二つのホルモンを作るところだよ。免疫染色に使ったのはどちらもリセ
プターの抗体だからホルモンの受容体が染まるはずだ。陽性なら二つのホルモン

　
　　
の支配を受ける組織だよ。それに卵巣癌じゃ腋窩のリンパ節に転移してくるには
さすがに遠いだろう」
「エストロジェンとプロジェステロンの作用を受けるんですか。それなら子宮内
膜ですけど、それじゃ卵巣と同じで腋窩のリンパ節は遠いです。あ、わかりまし
た。乳癌ですね」
「そういうこと。それで念のため、肺癌や胃癌を否定するための染色も頼んだん
っだ。そっちは陰性だからこのリンパ節の癌は乳癌からの転移だと断定していい」
　
　高遠は俺をまじまじと見つめてきた。眼を丸くして尊敬の眼差しだ。
「先生、凄い。まるで探偵ですね。名探偵になれます、きっと」
　俺は苦笑した。
「おいおい、これくらいで名探偵になれるなんて言うと、シャーロッック・ホー
ムズが眼を剥くぞ。病理をやるからにはこれは常識だよ。そんなに感心しないで
くれ」
「分かってます。探偵なんて冗談ですよ」
とニッと笑う。何てやつだ、こいつ。いい歳をした俺をからかうとは。

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第一話　　再　発　　　　

「それより、高遠、コンピューターの前にいるなら突っ立っていないで、そのシ
ステムでこの患者の病理の検査歴を調べてくれ」
「あれ？　だってこの患者さん、まだこの病院に来ていないんでしょう。この標
本、こちらの病院のＩＤも病理の受付番号もないから検索できません」
「いや、釜台病院の耳鼻科で生検されたとき、以前にこの病院で乳癌の手術を受
けたと言ったらしいんだ。本当に受診しているならこちらのシステムで名前から
検索できるだろう」
「わかりました。それじゃ捜してみます。ええと、名前は確か伊藤美智子さんで
したよね」
　近くにあった丸椅子を引き寄せて座り、モニターを見ながらマウスを操作しは
じめたが、その一方で口のほうは相変わらず滑らかに動いている。
「プロジェステロンのことは忘れていましたけど、私だってもう少し病理をやっ
ていればいろんな事を覚えます。期待していてください。これでも結構、物覚え
はいいんです」
　確かに期待できるかもしれない。何しろ俺としゃべりながらコンピューターを
このスピードで操作しているのだ。と、感心したところで首をひねりはじめた。

　
　　
「あれ、おかしいですね。変な画面が開きます。あれれ？」
　首をひねり、何回かかちゃかちゃとやっていたが、ぱっと画面が変わった。
「やったあ！　ほらこれで分かります」
　何のことはない。高遠は目的ボタンの隣を間違えて何度もクリックして首をひ
ねっていたのだ。俺の冷ややかな視線に高遠が首をすくめた。
「これでも一生懸命やっているんです。そんな眼で見ないで下さい」
　ふむ、期待するのはこのおっちょこちょいが治ってからにしよう。
　コンピューターの端末を操作していた高遠が手を止めた。
「病理システムでは乳癌の手術をした伊藤美智子さんはいないです。カルテシス
テムには同姓同名の伊藤美智子さんという方が二人いますけれど、年齢が合いま
せん。それに、その二人は乳癌の患者さんではないです」
　この端末からカルテシステムにも入れるのか、それは知らなかった。とにかく
伊藤美智子のデータはカルテシステムにも病理システムにも残っていない。
「確かにいないな。それならよその大学病院で手術したのかもしれないから、清
水先生に聞き出して貰うよりないか。まてよ、ここの病理のシステムは最近新し
くなったんだろう。何年前だ。もしかしたら、更新前のデータは見られないって

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第一話　　再　発　　　　

ことはないか？」
「係長は古いデータも見られるって言っていました。更新されたのは三年か四年
前ですけれど、それ以前のデータも取り込んだはずだって。それにこの病院に来
たことがあればカルテシスムに名前は残るでしょう？」
　言われた通りだ。それでも病理システムでどこまで遡（さかのぼ）れるのか確
認しておきたかった。
「病理のシステムで昔のデータはいつまで遡れるんだ？　これは高遠にきいても
無理か。大友さんに訊いてみてくれ」
　頼んでも高遠は動こうとしない。代わりにモニターの前でなにやらマウスとキ
ーボードを操作している。
「先生、わざわざ大友さんに聞く必要はないです。ためしに十年前の病理受付番
号を適当に入れてみたら、ほらちゃんデータが全部表示されます。先生、何年前
まで見られるか試しにやってみてください。私は折角ですから大友さんにも確認
してみます」
　そう言いながら椅子から立ち上がった。なるほど、こっちのほうが簡単だ。
　それならと、俺が一年づつ試しているうちに高遠が戻ってきた。

　
　　
「大友さんは十二年前までは病理診断の内容も調べられると言っています。患者
の名前と検査材料、それに病理診断だけでいいなら十八年前までは可能だそうで
す」
　俺が試してみた結果と同じだ。ついでに高遠は病理のシステムと病院のカルテ
がつながったのは病院がカルテシステムを導入した三年ほど前で、それ以前はあ
くまで医事システムで、カルテは全て紙カルテだったという。
「よし、それじゃとにかく清水先生に連絡しておくよ。乳癌の転移だろうから、
乳腺を調べて貰うのと、よその病院で手術しているなら標本を何とか取り寄せて
くれって頼んでおこう。その間にこちらは追加の免疫染色をして、抗癌剤の感受
性も調べておけばいいだろう」
　追加染色のオーダーのメモを書きこんでいると、脇からそれを覗き込んできた
高遠が口を挟んできた。
「ふうん、先生、いままで研究ばかりしてたんでしょう。その割に臨床病理もよ
く知っているんですね。その抗癌剤の感受性って、免疫染色でわかるんですか」
　憎たらしい事を言う奴だ。そういえば俺のところに標本を届けに来てからずい
ぶん時間が経っている。

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33

第一話　　再　発　　　　

「感受性がわかる理由を教えてやりたいのはやまやまだが、賭けをしようか。そ
ろそろ染色室からいなくなった高遠を探して武村係長が呼びに来るぞ」
　高遠ははっとっして背筋を伸ばした。後ろを振り返って、それから声を落とし
て囁いた。
「大丈夫です。係長はとても優しいです」
　と口にしたとたん、遠くで『高遠さん、高遠紀和子さん、どこいるんですか』
と呼ぶ声がする。高遠が顔をしかめてため息をついた。
「ああ、もう。折角、勉強できると思ったのに」
　笑い転げる俺に顔をしかめて見せながら小部屋から出て行く高遠が、失礼きわ
まる事を言ってくれた。
「さっきの染色のことは夕方、帰る前に教えてください。病理のことはちゃんと
していても、神城先生ってコンピューターをいじるのは下手くそですね」
　なんてことを言うんだ。病理のことがちゃんとしているのは当たり前だろう。
コンピューターを使うのが下手なこと事とは関係ないだろうが。



　
　　

　２　乳腺外科医

　翌日、十二時過ぎに検鏡が一段落したところで昼食を取ろうとカンファランス
室に出向いた。その部屋は実際にカンファランスにも使うが、普段はスタッフが
食事をしたり、お茶を飲む部屋として使われている。その日は珍しく病理部長兼
副院長も一緒に弁当を広げていた。
　大友さんがいつもの通り、話題の主導権をとっている。
「ねえ、宮地先生って知っている？」
　研修医らしい医師の名前を聞いて、技師達が顔を見合わせている。その微妙な
空気に気づかないらしく、高遠が真っ先に応えた。
「あ、知っています。生理検査にいた時に聞きました、スーパー研修医がいるっ
て。そのドクターじゃないですか」
「そうよ。夏には内科で超音波を勉強をしているときに何か酷い事を患者さんに
言って、問題になったんでしょう。今は石田先生のところにいるのよ」

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第一話　　再　発　　　　

　それまで静かにしていたベテランの木下主任が口を開いた。
「あれはどこかおかしいわよ。このあいだ、乳腺外科から届いた針生検の本数が
書いてなくて、電話をかけて確認したら、『忙しいんだから、それくらいそっち
で記入してくれよ』って威張っているのよ。そういう問題じゃなくて医療安全上
の問題だからって言ったら、切れかかっていたわ」
　話を聞いていた武村係長がため息をつきながら付け加えた。
「宮地先生って、どこかの偉い先生の息子さんだっていうんでしょう。嫌になる
わね」
　大友さんが一緒に食事を取っていた病理部長を見やったが、素知らぬ顔だ。
「先生、何とかならないの？　相当な悪評よ。一度ガツンとやっておいたほうが
本人のためよ。それに石田先生のところで何かあったら、可哀そうでしょ」
　そのころ流行っていた韓流の映画スターかのように大友さんは乳腺外科の石田
を崇拝していて、その石田に累るいが及ぶのを心配しているのだ。しょうがない、と
部長兼副院長が口を開いた。
「宮地先生はね、名古屋のほうの大学の外科教授の息子です。東京の医科大学を
卒業して、初期研修を済ませてからこちらの外科の教授に預けられたそうですか

　
　　
ら、そう簡単にあしらうわけにもいきません。目に余るようでしたら申し出てき
てください」
　今まさにその状況だと思うが、部長にとってはこれくらいでは眼に余らないら
しい。俺は隣に座っている高遠に訊いた。
「しかし、何でスーパーなんだ」
「先生、スーパーはスーパーでも方向が違います。向きが反対にスーパーなんで
す。前の病院で研修していたときに、塩化カリウムを点滴じゃなくて注射器で直
接静脈に入れようとして、オーベンが焦りまくったという話が伝わってきていま
した」
　オーベンとは随分と古い言葉だ。今では指導医と呼ばれている。とにかくどこ
にでもこの手の困ったった奴はいる。しかし、このときはまだこの宮地という研
修医と実際に係わることになるとは思っていなかった。

　カンファランス室で昼食を取る技師たちの話題は次々に移って行き、俺はそれ
を聞き流しながら自分の弁当をゆっくりと楽しんでいると、白衣のポケットで院
内ＰＨＳが鳴り出した。いったい誰からだろうと、訝いぶかりながらポケットから取り

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第一話　　再　発　　　　

出して耳に押し当てると聞き覚えのある嗄れ声が聞こえてきた。
『神城先生、外科の石田です。随分と久し振りですが、覚えていますか』
　もちろん覚えている。釜台病院から石田のところに患者が紹介されるというこ
とも聞いたばかりだ。
「いやいや確かに久しぶり。中央病院に勤めていることは知っていたけれど、挨
拶もしていなかったな。それにしても相変わらずいいタイミングだね。病理じゃ
ちょうど今、石田が話題になっていたところだよ」
『いやあ、とにかく嬉しいですね、また一緒に仕事が出来るなんて。それにいろ
いろ面白い話も伝わってきていますよ』
　どうやら石田は俺が病理学教室を出ることになったいきさつも知っている口ぶ
りだ。
「それより何か用があるんでしょう、先生。釜台病院の清水先生の患者さんのこ
とじゃないか」
『そうでした。先生に組織標本を見てもらった伊藤美智子さんのことなんです。
実は昨日、清水から連絡があって、その患者さんのことを聞きました。先生にい
ろいろご迷惑をかけているようです』

　
　　
「いや仕事だから迷惑ってことはないよ」
　そう言いつつ、俺は武村係長を見た。係長は俺の電話のやり取りを気にしてい
る様子はない。
『いやそれで、迷惑ついでにもう一つお願いがあるんですけどいいですかね。そ
の人の抗癌剤感受性を、うちの病院でやっているプロトコルに従って調べて欲し
いんです。清水から聞いた限りでは抗癌剤を使い分ける格好の症例なんでね。彼
はその患者さんはこちらに転院させることになるだろうと言っていますから』
　その免疫染色はもう頼んであるから、患者が受診したら病理検査のオーダーを
してくれるようにと石田に伝えた。
　俺と石田のやり取りに聞き入っていた高遠は、自分で用意してきた昼飯のおに
ぎりを食べる手を休めて嬉しそうな表情をしている。その隣では大友さんは何故
か複雑な表情をしている。
　石田は次に釜台病院に行ったときに、清水からまた話があるだろうと俺に告げ
てＰＨＳを切った。
　電話が済むと、それを待っていた大友さんが早速、俺に迫ってきた。
「神城先生、石田先生と知り合いなの？　ずいぶん気安そうに話していたわね」

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第一話　　再　発　　　　

「ああ、石田は二年くらい第一病理の研究室に出入りしていたからね」
「あら、そうなの」
　大友さんはちょっと残念そうだ。自分の英雄を少しばかり横取りされた気分の
ようだが、気を取り直して続けた。
「石田先生はね凄いのよ。化学療法をするときに、免疫染色法を使って薬剤感受
性を調べてからやるでしょう。それを石田先生が癌治療学会で発表したのよ。そ
れが評判になって、少し前に週刊誌でも取り上げられたでしょ。それ以来、東京
からも患者が来るようになったんですって」
　確かに石田は化学療法と手術を組み合わせて効率のよい乳癌の治療が出来るよ
うにと研究をしていたし、それが評判を呼んでいることも知っていた。
　武村弓子が大友さんの話に割り込んできた。係長として一言、言っておくべき
ことだと思ったようだ。
「大友さんにとっては石田先生は英雄みたいですけど、あれは結構大変なんです
よ。免疫染色のオーダーがすごく増えましたしね」
　と、散らし寿司の弁当を頬張っている病理部長をちらりと見た。部長は少し間
を置いてから悠然と答えた。

　
　　
「まあまあ、係長。そうやって名前が出ることは週刊誌とはいえ、やっぱりいい
ことなんですよ。病院にとっては売物があるのは大事ですからね。ま、技師さん
たちには負担をかけますけれどよろしく頼みますよ」
　大友さんによれば、病理部長は副院長になってから以前にもまして貫禄が出て
きたという。その部長に頼まれた武村係長は、しょうがないわねという表情で鷹
揚に構えている。部長、いや副院長もうまい。

　週が開けて月曜日の午後に、釜台病院の清水医師から電話があった。
『神城先生、先日は石田先生から先生に電話をしたようで、お世話をかけます。
それで、その件ですけれど、今日の午前に伊藤さんが私の外来に来たんですよ。
いくつかの検査をしたあと、神城先生の病理診断も伝えてそちらの大学病院に転
院して治療を受けたほうがいいと言ったんです。でも患者さんはこちらの釜台病
院で治療して欲しいって繰り返して、転院を嫌がりました』
「それならいいじゃない、先生がそっちで治療すれば」
　どうも俺はこういうことに執着心が足りないらしい。つい、流れに身を任せて
しまいたくなる。

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第一話　　再　発　　　　

『そうは行かないんですよ、先生。化学療法の感受性テストもこっちじゃできな
いですし、何より外来化学療法の体制が整っていないんですよ。先生のいるそち
らの病院でないと。先生だってそう思いませんか』
「そりゃそうだが、それじゃ説得するよりないね」
『そのとおりなんです。ですから、説得しました。乳腺の手術をしたことがない
んならオカルト癌かもしれないから、きちんと乳腺を調べたほうがいいとか、石
田先生が横浜一帯では最高の乳腺外科医だからと説得して、それでやっと紹介状
を渡しました。そちらの病院にちゃんと行ってくれるといいんですがねえ』
　オカルト癌は検査で見つかっていない癌で、そこからリンパ節への転移が先に
見つかることもたまにはある。そういう場合には徹底した検査が必要なのに、清
水医師の説得は心もとないようだ。何より一度は手術を受けたと言っておきなが
ら、後になってそれを否定して大学附属病院で治療を受けるのを嫌がる理由が分
からない。
「そういえば病院のコンピュータで調べたけれど、伊藤さんの乳癌の記録は見つ
からなかったよ。病理のシステムはおろか病院のカルテシステムにも伊藤美智子
の受診記録はないんだ」

　
　　
『そうですか。そのことも良くわかりませんねえ。とにかく石田先生には高校生
の子供がいるとかの事情を話して、是非、面倒見て欲しいと伝えておきます』

　清水医師から電話があったあと、乳腺外科からは何の連絡もなかった。普通な
ら患者はすぐにもこちらの病院に来ていいはずだ。やはり清水医師が危惧したよ
うに受診しないのかと思っていたら、木曜日にやっと石田から連絡があった。カ
ンファランス室で弁当を広げたままＰＨＳを手にすると、高遠だけでなく大友さ
んも耳をそば立てたのが分かった。この昼飯時の電話というのはどうも都合が悪
い。噂話の大好きな大友さんに話が筒抜けになってしまいそうだ。
『神城先生、例の釜台病院の患者さんが今朝、わたしの外来に来ました。なかな
か来ないんで心配していたんですが、まあ、とにかく来てくれて良かったです。
診察をしたときに先生がやってくれた免疫染色の結果を話して、乳癌の手術を受
けたことはないかって訊いたんですが、そうしたら清水のときと同じで、急に態
度が硬くなって乳癌の手術なんか受けていないって、言い張るんです』
「先生の所でも同じなのか」
『そうなんだ。手術歴がないなら乳房の精密検査を薦めたんですが、その必要は

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第一話　　再　発　　　　

ないの一点張りなんですよ。リンパ節の腫瘍の治療が必要なら、すぐに始めてく
れって言うばかりなんです。転移先の治療だけしても、癌の原発巣が残っていた
ら無意味になるから、是非、両方の乳腺もきちんと調べて治療したほうがいいっ
てずいぶん言ったんですがね、駄目でした』
　石田が嗄しわがれれ声で続けた。
『結局、次の診察の予約の取れないまま診察を終わりましたから、あの人はもう
来ないかもしれません。それでもこちらの病院を受診したのでカルテが作れまし
たから、抗癌剤感受性の染色をしてください。本人が来なくてもその結果が出た
ら、一度こちらから連絡を取ってみます』

　いくら治療成績が向上したといっても、癌は今でも生死にかかわることに変わ
りはない。ましてやリンパ節転移だ。
　心配そうな顔で俺と石田の電話のやり取に耳を傾けていた高遠が訊いてきた。
「患者さん、病院に来ないんですか。何でそんなに嫌がるんですか」
　問われても俺だってわからない。まだ高校生の娘がいる身で、治療をためらう
ほどの理由がなにかあるのだろうか。その日も一緒に昼食をとっていた仲西部長

　
　　
が俺に代わって答えてくれた。
「それはね、高遠さん、単にパニックになっただけじゃないんですかね。結構、
中年のおばさんにいるんですよ。癌と診断されるとそれだけでどうしていいか判
らなくなりましてね、取り敢えず診療拒否というのが。それにその年齢なら子供
がいれば中学生か高校生ですから、程度はともあれパニックになるのが当たり前
ですから」
　おばさんという言葉に係長と大友さんがキッと部長を見たが、そんなことに気
を使っていては副院長は務まらない。素知らぬ振りをしている。
「それって変じゃないですか、仲西先生。普通、リンパ節の生検をするときに悪
性の可能性があるからって説明されてるんじゃないですか？　そう言っておかな
いと生検なんかできないでしょう。次に病院に来るまでの間にそれなりの覚悟が
出来ていると思いますけど」
　まったく遠慮のない奴だ。俺と話をするときと同じように頭にひらめいた事を
そのまま口にして、仲西部長に迫っている。その隣では副院長様に何てこと言う
の、とばかりに大友さんが眉をつり上げるのが視野の片隅に見えた。
「まあまあ、高遠さん、論理的に考えられないのがパニックですから」

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第一話　　再　発　　　　

　部長兼副院長は悠然と高遠をいなした。
　実際に患者が診療の途中で来なくなってしまうことはよくあることだ。いくら
皆保険だといっても、入院したり、長い期間通院して治療を受けるのには何かと
費用がかかる。その負担に耐えられない人がいるし、癌の場合はもっといい病院
で治療を受けたいと考える患者も多い。その場合は紹介状を貰うのが普通だし、
今ではセカンドオピニオンを求めて他の病院にいくのは、建前上どこの病院でも
嫌がらないはずなのだが。
　
　その日のうちに感受性確定のための免疫染色も出来上がってきたが、これも無
駄になるのだろう。染色の結果は俺の予想通り、高感受性のパターンを示してい
た。これなら化学療法が有効だし、その後に手術するにしても完全治癒の可能性
が十分ある。石田が患者を説得できるといいのだが、と思いながら俺は病理シス
テムに追加の免疫染色の結果を入力した。
　患者は別の病院に行ってしまい、多分この病院には来ないだろう。この話はこ
れで終わりになると思っていた。
　しかしそうはならなかった。

　
　　

　３　母　娘

　秋もだいぶ深まってきて、病院の玄関前に一本だけある桜の木の葉も色づき始
めた。病院で毎日病理標本を見る日々にも慣れてきたはずなのに、それを上回っ
て病理標本が増え続けている。今年の夏に病院の一部改修が済んで、病棟も外来
もフルに稼動し始め、それに伴って生検も手術も増えているのだ。
　乳癌の再発患者のことは気にかかっていたが、病理医ではやれることはなにも
ない。それならと病理学教室でやっていた実験のデータを引っ張り出し、何とか
空き時間を作って整理することにした。
　データを見るたびにいやなことが思い出されて、とてもはかどるとは言いがた
く、その日もだいぶ遅くなった。続きはこの週末に家でやろうか考えていると背
後からなにやら子犬みたいに落ち着かない足音と、ペタペタというサンダルの足
音が響いてきた。落ち着きのない足音はすぐに分かったが、もう一人の足音は誰
のものか分からない。振り返ってみると、青い手術着に白衣を引っ掛け、素足に

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47

第一話　　再　発　　　　

サンダル履きというスタイルの背の高い男が、高遠に案内されて部屋の入り口に
立っていた。
「神城先生、石田先生です。この間の患者さんのことで相談があるそうです」
　好奇心ではちきんばかりになっている高遠に案内されて来た石田は、髪にちら
ほらと白いものが混じっているが、昔と変わらない陽気な嗄れ声で話し始めた。
「先生、お久しぶり。この間から何回か電話で話していますけれど、もう何年も
会っていませんでしたね」
　言われたとおり、実際に顔を合わせるのは病理学教室以来のことだから、少な
くても五年か六年ぶりだ。
「それで先生、覚えていますか。例のリンパ節転移の患者さん。折角、先生が高
感受性だと調べてくれたのに、なかなか来なかった患者さんです」
　もちろん覚えている。
「伊藤さんでしたっけ。で、どうしました？」
「来ることになったんです。来週早々に娘さんと一緒に来院するそうです。娘さ
んがいろいろ調べたらしくて、その娘さんに引っ張られて受診するそうです」
「本当？　それはよかった。とにかく来ることになったんなら、まだ特に問題は

　
　　
ないんだろう？」
「そうですね、受診するのが遅れたといっても、せいぜい十日かそこらだから、
急に進行しているってこともないでしょう。良かったです。いやそれでね、先生
に頼みがあるんです。今度病院に来るときに詳しく話が聞きたいから、病理の先
生に同席して欲しいと言ってきたんですよ。とくに娘さんが病理の結果を詳しく
知りたいようです」
　すぐには返事をしなかった。医者になってから殆ど患者と接したことのない俺
にこんな依頼は初めてだ。病理外来というのを開いている病院があるとは知って
いるが、病理医に患者の相手をしろというのは悪い冗談だ。それなのに脇にいる
高遠が眼鏡の奥で眼を輝かせた。
「先生、格好いいです。患者さんに説明する病理医なんでテレビドラマみたい」
　まったく、自分のことではないから無邪気なものだ。
「あのなあ、高遠、患者と顔をあわせるのが苦手だから病理を選んで研究室に長
いこと籠こもっていたんだぞ。医者になって以来、患者を相手にしたことなんかな
いんだ」
　俺と高遠のやり取りを聞いていた石田が嗄れ声を上げて笑った。

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第一話　　再　発　　　　

「先生、大丈夫です。神城先生は病理のことだけでいいんですよ。分からないこ
とは全部こっちに振ってくれればいいです。データは全部用意しておきます」
　それに石田は既に病理の仲西部長には話をつけてあるという。さすが外科医、
やることが速い。
　高遠のおだてに乗ったわけではなく、結局、このやせた乳腺外科医の太っ腹な
態度に負けて、俺はその患者に説明することを引き受けた。もちろん、これは例
外中の例外だと断って。

　次の月曜日の夕方、俺は打ち合わせどおり、八階東病棟のスタッフステーショ
ンに出向いた。既に石田がいくつかの書類を抱えて、看護師と雑談を交わしてい
る。今日は珍しくケーシースタイルの上に白衣をきちんと着ている。もっとも俺
もロッカーのハンガーに掛けっぱなしにしてあるニットのネクタイを締めて白衣
を着た。おかげで大友さんと武村係長の傍を通る時には珍しい動物を見るような
顔つきをされたし、高遠にはもっと露骨に驚かれた。そんな顔をしないでくれ、
俺だって一応、礼儀くらいわきまえているんだ。


　
　　
「神城先生、ちょうどよかった。たった今、伊藤さんとお嬢さんが面談室に向か
ったところです。先生が着き次第、われわれも行くことになっています」
　二人して面談室に続く廊下に出ると、歩きながら石田が小声で囁ささやいてきた。
「病棟師長に確認したんですが、伊藤さんは離婚しているか、シングルマザーの
ようです。一応心得ておいてください」

　俺と石田が担当の看護師を伴って面談室に行くと、こざっぱりとした身なりの
中年の婦人と緊張の面持ちの制服姿の女子高校生が、デスクの前の折りたたみ椅
子に座って待っていた。壁際には診療端末が置いてあり、そこでＣＴやＭＲＩの
画面を見ながら説明できるようになっているし、取り込んだ顕微鏡写真も見るこ
とが出来る。今日も何かと役立つだろう。
　席に着くと早速、石田が俺を紹介した。
「伊藤さん、病理専門医の神城先生です。伊藤さんの病理診断を担当しました。
釜台病院で採取したリンパ節の生検材料を詳しく調べてくれた先生です。あとで
病理の結果を説明して貰います。それから、そちらはお嬢さんですね」
　女性は頷いて俺に自己紹介した。

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第一話　　再　発　　　　

「伊藤美智子です。こちらは娘の綾香あやかです。この子がインターネットで調べて、
横浜では石田先生が一番の乳腺外科医だと言います。綾香が強く言うので、それ
に負けて今日、診察を受けました」
「分かりました。インターネットの評判はともかく、診察に来ていただいてあり
がたかったです。ほかの病院で治療を受けることになるにしても、こちらの病院
からの紹介状が必要でしょうし、それには診察結果や検査結果が必要ですから。
どちらにしろ今日の診察や今までの検査結果を可能な限りお伝えしますから、こ
ちらの病院で治療するか、それともほかの病院にいくかよく考えてください」
　ベテランの外科医にふさわしく、石田は落ち着いた話し振りだ。
「先生の評判とは関係なく、私はまだこちらで治療を受けるか決めたわけではあ
りません。仕事の都合もありますし」
　頷いた石田は落ち着いた様子で説明を始めた。
「釜台病院での検査結果は既に清水から説明があったと思いますので、簡単にし
ます。私の考えは同じで、生検で採取したリンパ節以外に左の腋窩に結節がまだ
一つ残っています。左右の乳腺は触診上はしこりはありません。釜台病院で検査
したマンモグラフィーとエコーの結果は私も異常ないと思います。リンパ節の生

　
　　
検材料は標本を取り寄せて神城先生に見てもらいました」
　石田はよどみなく釜台病院とこちらの病院での検査結果を説明していき、最後
に病理診断の結果を話してくれるように俺を促した。
　促されて石田の話しを引き継いだ。伊藤美智子の隣では娘の綾香がメモを取っ
ている。
「リンパ節の組織の病理診断は三段階で行いました。最初は提出された組織の切
片をＨＥで染色して顕微鏡観察するものです。今、モニターに映っているのがそ
れです。このとおり異型の強い細胞が見られ、癌細胞に間違いありません。リン
パ節に癌細胞が見つかれば、それはどこかの癌の転移ですので、確実な治療のた
めには元の癌を捜すことになります」
　一息ついたところでメモの手を休めた綾香が緊張の面持ちで訊いてきた。その
隣で伊藤美智子が手をぎこちなく握り締めている。
「あの、それでどこの癌からの転移なんですか？」
「ええ、それを調べるためにすこし特別な染色をしました。釜台病院から取り寄
せた標本を免疫染色という方法で染めました。これが第二段階です。調べた結果
は、ＥＲとＰｇＲの免疫染色が陽性でした。これでリンパ節に見られた癌は乳癌

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第一話　　再　発　　　　

の転移だとわかりました」
　娘の綾香が母親の手に自分を手の重ねて握りしめた。
　石田が話を引き取った。
「伊藤さんの治療は抗癌剤の投与をしてから、必要なら手術をすることになると
思います。ただ、治療を開始する前に原発巣の確認と転移がほかにないか確認す
る必要があります」
　石田は一息入れ、咳払いをして話を続けた。
「それで、もう一度確認したいのですが、こちらの病院で乳癌の手術……」
　そこまで口にしたところで石田は遮られた。
「先生、清水先生にも申しました。わたしは乳癌の手術はしていません。こちら
の病院に掛かったことはないって、はっきり申し上げました。清水先生はそれに
は関係なく、こちらで治療してもらえるからって言ってくれたんです。乳癌の手
術のことを仰るんでしたら他所よその病院に行きます」
　伊藤美智子は硬い表情で椅子から立ち上がりかけた。あわてて娘の綾香が押し
とどめた。
「お母さん、駄目よ。ここで治療を受けてちょうだい。石田先生が乳癌の治療で

　
　　
は一番なのよ」
　石田は難しい顔をして母娘のやり取りを見ている。どうやら俺の出番らしい。
「伊藤さんとお嬢さん、聞いてください。病理検査の第三段階をまだ話していま
せんでした。それを説明します。これは免疫染色を追加して、一番よく効く抗癌
剤を決めるというものです。結果は伊藤さんの癌はルミナルＡと呼ばれる抗癌剤
が一番よく効くタイプでした。石田はこれをずっと研究していて、抗癌剤治療と
手術を組み合わせていい結果を出しています。私からも言えます。ここで治療を
受けるのが一番いいと思います」
　伊藤美智子はそれでも難しい顔をしたままだ。代わって娘が懇願した。
「お母さん、お母さん、お願い。お母さんが……」
　といいかけて一瞬口をつぐんだ。それから言葉を継いだ。
「お母さんがいなくなったら、わたし、独りぼっちになっちゃう」
　伊藤美智子が大きく息を吸った。自分を娘の手を握り返し、さらに肩を抱いて
引き寄せた。それからようやく宙空を見つめている石田に向かって決然とした口
調で言った。
「先生のところで治療を受けます。でも、ここで手術はしていません。ですから

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55

第一話　　再　発　　　　

以前の手術の話はもうお仕舞いにして下さい」
　しばらくもとのままの姿勢で腕組みをしていた石田がようやく体から力を抜い
た。
「伊藤さん、わかりました。もうその話はしません。ですが検査だけはさせてく
ださい。可能な限り調べた上で治療します」
　伊藤美智子がうなずくのを確認して石田は娘に笑顔を向けた。
「大丈夫だよ、お嬢さん、綾香さんっていいましたっけ。心配しないで。私が責
任を持ってお母さんを治すから」
　娘の綾香が母親にしがみついた。母親はやっと緊張を解いて優しいまなざしで
娘を見ながら髪をなでていた。


　面談室を出て行く母娘を見送ってから、俺と石田は連れ立って医局フロアに向
かった。医局に着くと石田が自分の部長室に俺を誘った。石田は外科に所属して
いるが、准教授だし乳腺外科の担当部長だから部長室が持てるのだ。
　小さな応接セットのソファーを指し示して俺を座らせ、石田は机の引出しから

　
　　
ウイスキーの壜とグラスを二つ取り出し、それぞれに琥珀色の液体を注いだ。
「多分、言いすぎだよね。必ず治すなんて、いまどき医師は言えないものな。本
当はデータを示して、五年生存率何％とか言わなくちゃね。用意していたデータ
を伝えるチャンスがなかったですよ。先生には問題医者の片棒を担がせてしまっ
たような気がします。しばらく面倒をかけることになりそうです。ついでに少し
早いですけど、ウィスキーを一杯、付き合ってください」
　あのときあれ以外の答えようがあるわけもない。確かに時間はだいぶ早いし、
医局といえどもこの病院内での飲酒はご法度だが、構うものか。
「付き合うよ」
　俺は琥珀色の液体の入ったグラスを手に取った。
「ムンテラなんて慣れているつもりでしたけど、今日はちょっと疲れました」
　グラスをカチンと合わせて俺達は禁断のアルコールを喉に流し込んだ。

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57

第一話　　再　発　　　　

　４　酔来軒

　翌日、俺はいつもより遅めに病院に着いた。これは都合が良かった。その日は
終日、高遠が何か言いたげな様子をしていたし、それに対抗するかのように大友
さんも俺を捕まえようとしていた。幸か不幸か相変わらず標本がたくさんあり、
しかも午前中に部長が俺の部屋に現われて病理学会に提出する書類のチェックを
してくれと頼んできた。気楽に引き受けたが、なんと期限は先週だったという。
いつもならカンファランス室に出向いてとる昼食も自分の部屋で済ませ、何とか
午後早くに部長に渡した。おかげで標本の検鏡は午後に始めたから、夕方になっ
てもまだその日の標本は見終わっていなかった。

　終業時刻が過ぎてしばらく経った頃、部屋の入り口にひそやかな足音がした。
「先生、少しいいですか？」
　こうなるとは予測していたが、どう対応するか考えていたわけではない。心の

　
　　
準備不足だが、このどん詰まりの部屋では物理的にも逃げることが出来ない。や
むをえない、俺は覗き込んでいた顕微鏡から離れて高遠と向き合った。
「何だ、高遠、昨日の伊藤さんとの面談のことなら言えないぞ。医者の守秘義務
だ」
「ええ、わかっています。先生の口から言えないことぐらい。でも夕べのうちに
病棟の看護師さんには筒抜けになっているみたいです。今朝、ロッカールームで
看護師さん達が何人も話題にしていました。伊藤さんがこの病院では治療は受け
ないって言い張り、石田先生はこの病院で治療を受けなけりゃ救からないって宣
告したので、お嬢さんが泣いて治療を受けるようにお母さんに頼んで、大騒ぎに
なったって」
　何で昨日の面談の話がこんなに早く伝わるんだ。これでは俺が一人で守秘義務
に忠実でいても何にもならないじゃないか。それに話の伝わり方があんまりだ。
「ちょっとまて、高遠。石田がそんな乱暴な事を言うわけないだろう。石田はど
この病院で治療をしてもいいって言っていたよ。患者が嫌がったのはこの病院で
以前に乳癌の手術をしたかどうかを詮索することで、伊藤さんはそれをしないで
欲しいと言い張ったんだ。そうでないなら石田の治療は受けないって……」

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59

第一話　　再　発　　　　

　そこで俺は言葉を切った。高遠が泣き出しそうな顔をしている。
「でも、お母さんがいなくなったら一人ぼっちになっちゃう……」
　高遠が鼻をぐずぐずさせ始めた。伊藤美智子の娘と同じだ。
「おいおい、どんな話をロッカールームで聞いたか知らないが、なんで高遠がめ
そめそするんだ。最後の結論はちゃんと石田の治療を受けることになったんだ。
石田がお嬢さんに必ずお母さんを治すから心配するなって安心させたんだ」
　俺の説明に高遠はまだ涙を湛たたえた眼をしばたたいた。
「本当ですか？　本当に石田先生が約束したんですね？　良かった本当に良かっ
た。きっと大丈夫ですよね」
　まったく無責任な噂話は罪作りだ。高遠は涙ぐむし、俺は守秘義務違反をする
羽目になってしまった。それにしても高遠がこんなに涙もろいとは意外だった。
どこかひどく敏感なところに触れているようだ。とにかく俺の守秘義務違反のお
かげで高遠が元気になったのは良かったが、眼鏡をはずし、指で涙をぬぐって疑
問をぶつけて来た。
「でも、何でなかなか病院に来なかったり、この病院で手術したことはないなん
て言い張るんですか」

　
　　
「何か事情があるんだろうが、俺だって分からないな。それより手術しているの
に、それを確認出来ないまま再発や転移の治療なんて、外科にとってはそれこそ
有り得ないことだろう。石田は詮索しないって言っているから、俺たちで何とか
した方がいいな」
　伊藤さんの手術歴を調べようと口にすると、途端にさっきまで涙目だった高遠
の眼が輝きだした。
「伊藤さんのカルテを調べるんですね。先生、手術を受けているのなら、必ず記
録があるはずです。一緒に探しましょう」
　確かに手術を受けているなら記録はあるだろう。高遠はすっかりその気になっ
ている。まったく俺には到底ついていけない立ち直りの早さだ。まあいいさ、元
気でおっちょこちょいの高遠の方が扱いやすい。
「それじゃ記録を捜す前に、まずは伊藤さんがこの病院で本当に手術を受けてい
るか確認しよう」
　いつもと同じように元気になった高遠はその晩のうちに伊藤さんの手術を確認
する方法を考えると宣言し、自分だけではなく俺にも一緒に考えるようにと迫っ
てから、ようやく帰っていった。

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第一話　　再　発　　　　

　高遠に迫られて何か考えるとは言ったものの、さてどうしようか。と思案して
いると、幸いにも翌日の午後に石田から電話があった。夕飯でも付き合わないか
というのだ。ちょうどいいタイミングだ。勿論、伊藤さんの件に違いない。
　その日の夜、約束の時刻に病院の玄関に行くと、背の高い石田がいるのはいい
として、何故か隣に高遠が立っている。
「いやね、先生、夕方に病理に用事で行ったら、高遠さんに会ったんです。ずい
ぶんこの件に興味があるみたいだから、ご馳走するから来ないかって誘ったんで
すよ」
　石田が誘ったんなら異を唱える理由はないが、俺の疑惑を見透かすように、高
遠がにこにこと口を開いた。
「神城先生、ずるいじゃないですか。私だって一緒に考えると言ってあるのに石
田先生と二人だけで相談なんて。でも知らなかったんですよ、ほんとに。たまた
ま大友さんのところに行ったら石田先生が来ていたんです」
「石田、どうして高遠がそんなに興味を持っているか知っているんだ」
　石田は笑った。
「病理部には大友さんがいるじゃないですか。別にこちらから訊かなくたって病

　
　　
院中の情報をいろいろ教えてくれますよ」
　なるほど、月曜日の面談のことといい、この病院では秘密は筒抜けというわけ
だ。よく覚えておこう。

　石田が俺たち二人を病院から少し離れたところにある酔来軒に連れて行ってく
れた。俺も学生時代に来たことがある店で、石田は今でもよく来ているという。
この店だと告げられたときの高遠の表情はなかなか面白かったが、感心にも何も
口にしなかった。三人は二階の座敷に案内され、おかみさんらしい中年の女性が
お絞りと水を持って現れ、石田が馴染みらしいその女性に料理の注文を始めた。
「それじゃ、最初はビールでいいですね。そうそう、ここは餃子がうまいからそ
れを人数分頼みましょう。あとはそれぞれ注文してください」
　と、俺たちを促してから高遠に話しかけた。
「高遠さん、この店、気さくでいいでしょう」
「素敵です。こういうところで格好いい男性にご馳走してもらえるのって、夢見
たい」
　どう見てもありふれた街の中華料理店なのに、高遠はどこかのしゃれたフラン

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第一話　　再　発　　　　

ス料理かイタリア料理店かのように喜んではしゃいでいる。俺に対するときとは
随分と違う態度だ。大体、さっき見せた表情とはかけ離れているぞ、と思ってい
るうちにビールが届き、俺たちはグラスを合わせた。ここしばらく飲んでいなか
ったビールが食道から胃へ降りていく。
「ところでどう？　高遠さん。病理部の居心地は」
　ビールを空けながら石田が高遠に話しかけると
「なんか病理に来てまだ二ヶ月にもならないですけど、とっても自由になった気
分です。どうしてでしょう」
　と、応じている。もちろん石田に分かるわけもない。俺が代わりに答えてやっ
た。
「それはな、高遠、臨床検査部では放って置くと危ないから紐つき鎖つきの監視
つき、病理部じゃ素頓狂な悲鳴を上げるくらいじゃ大して実害はないからほった
らかしの野放しだからだろう」
　石田がビールを噴出しかけて大笑いをした。
「わっはっはっは。これはいい。高遠さんはいったいなに？　虎、ライオン、そ
れとも女の子だから彪かな。あーはっはっは」

　
　　
　石田の豪快な笑い声に高遠はむすっとしている。
「もう、石田先生、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
「いやいや、高遠さんは病理の水が合っているよ。それに馬の合う先生がいるか
らじゃないかな」
　そう言って石田が俺をちらりと見てきた。
「ちょっと待ってください、石田先生。どこが神城先生と気が合うっていうんで
すか。神城先生って意地悪く、私をからかってばかりいるんですよ」
「それが何よりの証拠ですよ。今日、大友さんと話していたら言ってましたよ。
どう見ても神城先生と高遠さんの性格は似ていないのに、なんでこんなに相性が
いいのかなって。二人は前世の縁があるんだって確信していましたよ」

　どうも大友さんは俺と高遠を同類にしたがっているようだ。幸いに料理が届き
始めたから、三人が集まった理由を思い出させることにした。
「そんなことより伊藤さんの件だろう。それで高遠、昨晩は何かうまい方法を思
いついたか」
　話を振ると、手にしていたビールの入ったグラスをテーブルに置いて、高遠は

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第一話　　再　発　　　　

眼鏡の奥の眼を輝かせた。
「手術したことはないって言い張っていることですか？　それならもう考えまし
た。伊藤さんはうちの病院で手術をしています」
　高遠は自信に満ちている。
「ずいぶん、簡単に答えるじゃないか。根拠はあるのか？」
「根拠は伊藤さんがむきになって否定していることです。うちの病院で手術して
いないのなら、あんなに否定することはないはずです」
　確かに一度は口にした手術を否定するのは尋常ではない。それはなにか隠した
いことがあるからだ。
　やり取りを聞いていた石田も高遠の推理というか勘に肯定的だ。
「神城先生、高遠さんは正しいと思いますよ。彼女、伊藤さんは乳癌の手術をし
ています。自分の病院で手術しているなら、やはりどんな手術だったのか確認し
ておきたいですからね。二人には少し厄介な仕事をやっても貰わなければならな
いようなんで、今日は買収しておきますよ」
　石田はにやりとしながら高遠のグラスにビールを注ぎ足し、高遠はそれを受け
てグラスを口に持っていく。

　
　　
「私はいいですよ、先生。こんなにご馳走になるんですから、喜んでお手伝いし
ます」
　高遠もちゃっかりしている。自分で調べる気になっているのだから、買収され
る必要はないだろう。それにいくらなんでもこの店じゃ安すぎるが、俺は買収さ
れるつもりはないから放っておくことにした。それより高遠の出した結論を裏付
ける何かがあるらしい。
「証拠がなにかあるのか？　まさかカルテシステムに入っていないカルテが見つ
かったなんてことはないだろうな」
「カルテではないです。もっと直接的なことですよ。昨日、伊藤さんが外来に来
たので改めて左のお乳を直接診察したんです。ほんとに目立たないんですけれど
が、左のお乳の内側に確かに手術の痕がありました。傷の大きさから考えて小さ
な部分切除か、もっとずっと小さい核出かくしゅつ術ですね。それも小さくて飛びっきり
上手な手術です」
　石田の説明を聞きながら高遠が嬉しそうな顔をして俺の方を振り返った。
「ああ、やっぱりそうなんだ。私の推理も捨てたもんじゃないでしょう」
「高遠の推理は正しいと思うが、石田の言っていることとは同じじゃあないよ。

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第一話　　再　発　　　　

高遠は伊藤さんがうちの病院を受診していることの推理だし、石田が見つけたの
は乳腺の手術をしているということの証拠だから」
　理屈っぽい議論に高遠は頓着しない。
「でも、石田先生、両方を合わせれば、患者さんはうちの病院で乳腺のを手術し
たことになりますよね」
「たしかに、言うとおりですよ。伊藤さんはうちの病院で左乳腺のきれいな手術
をしています」
　それなら疑問の一つが解けたことにはなるが、それでも矛盾は残ったままだ。
「じゃ、何でカルテがないんだ」
　疑問を口にすると、高遠がすぐさま反応してきた。
「神城先生、カルテがないんじゃなくて名前が違うんじゃないですか。女性です
から姓が変わっているかもしれません」
「それはありそうです。私が直接じゃないほうがいいでしょうから、看護師さん
に聞いてもらいましょう。結婚したのはいつかと子供が出来たのはいつなのかと
か」
　患者の生活歴を尋ねるのは通常の手続きだが、伊藤さんは独身時代の姓を明か

　
　　
してくれない気がする。それならもう一つ、別な方法がある。
「結婚して姓が変わっても名前は変わらないはずだ。このあいだは姓と名前を一
緒にして調べたんだろう。美智子という名前の患者で手術の内容の合う患者さん
を探してみればいいんじゃないか」
　俺が言うと高遠がすっかり乗り気になった。
「わかりました。それは私が病理システムで調べてみます。でも、やっぱり変で
すよね。結婚して姓が変わっただけでしたら、何もそんなに嫌がる必要はないは
ずです」
「そうだな、何か別な理由があるのかもしれないな。そうだとすると高遠の努力
も無駄かも知れないぞ」
「それは構いません。それだけ可能性を狭めることになりますから」
　二人のをやり取りを聞いていた石田が、それでも駄目なら最後の取って置きの
手段があるという。
「名前が当てにならないなら、名前に関係なく捜す手がありますよ。釜台病院の
耳鼻咽喉科で、伊藤さんの手術は十年以上前だったと言っていたはずです。それ
なら十年以上前の乳癌の手術で、伊藤さんに見合う症例を手術記録で探せばいい

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第一話　　再　発　　　　

でしょう」
　十年以上前の手術と言われて高遠が驚いている。
「ええ？　そんなに時間が経ってからの癌の再発ってあるんですか。それだと伊
藤さんは二十歳代だったことになります。そんなに若い人の乳癌なんてあるんで
すか？」
　確かに二十歳代の乳癌も、十年以上たってからの癌の再発というのも珍しいが
ないわけではない。
「あるんですよ、高遠さん。乳癌には若い人の発症も、晩期再発というのもあっ
て、中には二十年以上たっての再発というのも時々あります」
　石田の答えに、乳癌の手術記録を調べる気になった高遠は素早く計算した。
「そうなんですか。そうするとこの病院で毎年数十件の乳癌の手術がありますか
ら十年分で四、五百件くらいですか」
　俺は首をすくめた。高遠はそれだけの手術記録を調べる作業がどれくらい手間
を取るか気づいていない。病理の報告書とは違って手術記録はとんでもなく分厚
い。古い時代なら手書きで二十ページくらいまでの症例がざらにあるはずだ。石
田がにこにこと高遠の心を蕩とろかすような魅惑的な笑みを浮かべた。

　
　　
「そんなに調べる必要はないと思いますよ、高遠さん。この病院で部分切除を始
めたのは私の前任者の吉村先生が赴任してしばらくしてからですから、それは十
五、六年ほど前です。だからそれで範囲が絞れます。ですから、まあ、実際には
十年も調べないで済むでしょう。それに百件近くも手術するようになったのはこ
の数年ですよ。部分切除だけなら吉村先生の時代は年に十件もないでしょう」
　説明に高遠は感心している。
「凄い、石田先生、それでずいぶん絞れました。それなら、もっとほかに絞り込
む方法はないですか？」
　返事をする代わりに石田が俺に振ってきた。
「ほかにないですかね、神城先生」
　それならもう一つ、重要な手がかりがある。
「伊藤さんの手術の跡がごくわずかで、とびきり上手な手術だったって言ってた
な。それなら、そんな綺麗な手術をする先生は限られているんじゃないか」
　石田が頷いた。
「それだ、先生。あの手術は外科の手術じゃないです。あれは形成外科が手術の
最後に入ったんじゃないかな。吉村先生が乳癌の部分切除を始めたちょうどその

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第一話　　再　発　　　　

頃に、手術の跡を出来るだけ綺麗に仕上げようという機運が盛り上がっていたん
です」
　高遠が眼を輝かせた。
「これなら大分絞られました。今から十年以上前に部分切除を受けた患者で、年
齢は二十歳代、形成外科が関与した乳癌手術。これなら、手術を特定できそうで
す」
「よし、それじゃあ、高遠さん。手術記録探しは任せるよ。これで私は伊藤さん
の治療に専念できる。伊藤さんは今週中にいくつか検査をして、それが済んだら
化学療法を開始しますよ」

　手術記録を探しだす方針も決まったのに、それまで元気一杯だった高遠が眉を
寄せて難しい表情になった。
「でも私が記録探しやっていいんですか」
　いつもの勢いはなく、どうしようかなと迷っている。
「どうした、何か心配か」
「だって、私、まだ病理に移って二ヶ月にもならないのに、こんなことしていた

　
　　
らまた係長に叱られそう」
　高遠め、意外にまじめな奴だ。それなら俺も少し石田に倣ならって高遠を焚たきつけ
てやろう。
「大丈夫だ、高遠。俺の仕事を手伝わされていると言えば武村さんも文句は言わ
ないだろう」
　石田を見ると俺に向かって頷いてニヤニヤしている。
「ああ、それがいい。期待していますよ」
「分かりました。一応、名前の美智子で調べて見ますが、それで分からなかった
ら手術記録を調べます」
「よし、時間外なら文句も言われないだろう。それに免疫染色を教えてもらって
いる最中に探偵業に気を取られなきゃ、叱られることもないさ」
　高遠は慌ててぱっと頬を染めた。
「神城先生、それは言わないで、お願い。反省してます」
　俺と石田は声を挙げて大笑いをした。
「石田先生、こうやって神城先生って私をいじめるんですよ」
「高遠さん、それはね苛めているんじゃなくて可愛がっているんですよ。これは

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第一話　　再　発　　　　

確かに大友さんの言うとおり、前世で二人は兄妹だったのかもしれないね」
　大友さんはそんなことを言いふらしているのか。そんなの嫌ですと高遠も石田
に抗議している。
　どうやら話は逸れていき、石田と高遠がなにやら料理の話で盛り上がってスペ
イン料理からイタリア料理、地中海料理と話が移っている。さらにワインの話に
移っていき、二人してビールを注ぎあっている。病理の研究室に一緒にいた頃か
ら石田の酒豪ぶりは知れわたっていたが、高遠が酒に強いという話は聞いていな
い。石田に付き合えるとは思えなかったが結構健闘していて、それを石田が喜ん
でいる。とはいうものの高遠は大分酔ってきたようだ。
　話題が次から次に話題を変わっていき、石田が面白そうにそれに付き合ってい
る。いい気持ちになった二人の話題はめまぐるしく移り変わり、俺には到底つい
ていけない。
　急に高遠が話題を変えた。
「それで石田先生、以前から神城先生のこと知っていたんですか」
「ああ、知っていましたよ。私が医学部の外科にいて、病理の勉強をしに第一病

　
　　
理に出入りしていたとき、神城先生がいたんだ」
　これは危険な徴候だ。
「何しろ、名高き大学の大学院を途中で放り出した御仁（ごじん）だからね。医
学部に入学して以来有名だったけど、今度も勇名を馳せているよ」
「そんなに有名なんですか、神城先生って。いったい何をしたんですか？」
　無遠慮に高遠は俺の顔を覗き込んできた。
「ノーコメント」
　俺のおどけた言葉に石田は豪快に笑い声を上げる。
「いいねえ、高遠さん。私が言わなくてもそのうちわかるよ」
　石田が言っている間にも酔った高遠の顔が迫ってくる。これはどうも具合が悪
い。こいつの家はどこだ？　願わくば俺の帰る方向と逆だとありがたい。

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第一話　　再　発　　　　

　５　手術記録

　木曜日の午後、俺は事務コーナーで大友さんに捕まっていた。
「神城先生、検査部の藤峰ふじみねさんて知っている？」　
　臨床検査部の技師なんて俺は殆ど知らない。隣の部門だし、この病院に来て一
月も経っていないのだ。
「凄い人気らしいわ。美人で可愛くて、独身の研修医のもっぱらの話題になって
いるんですって」
「申し訳けない。俺は美人には縁がないらしい。俺の周りには高遠みたいな奴ば
かりだ」
　ちょうどそこに片手にプリントアウトを持って高遠が現れた。
「あら、かわいそうよ。そんなこと言っているから本人に聞こえちゃったわよ」
「え、何ですか？　また私がなにか失敗したんですか」
　聞いてくる高遠は大して心配している様子はない。少々のドジにはすっかり免

　
　　
疫がついているようだ。いやいや高遠とは関係ない、美人に関係することだと口
にしかかったが、なんとか思いとどまった。
「いやね、大友さんが臨床検査科の藤峰さんを知っているかと訊くんだ。高遠は
知っているか？」
「あ、知っています。藤峰さんは私の二期先輩で、生理検査にいたときにいろい
ろ教えて貰いました。凄い美人なんすですよ。彼女がどうかしたんですか」
　俺はもともと言い出したのは大友さんだからと話を振った。
「そうなのよ。藤峰さん、若いお医者さんに人気らしいわよ。私のところにいろ
いろ情報が入ってくるわ」
　高遠がため息をつく。
「羨ましいです。美人て得ですね。私もあんなにモテたらいいのに」
　片手を上に挙げて白衣から突き出してことさら長く見せた。あわてて大友さん
がフォローしようとする。
「高遠さん、そうでもないのよ。私のところに入ってくる噂はそんなにいいもの
ばかりじゃないわ。臨床検査部の課長代理は若い男の技師の気が散って困るとい
うし、なんだか、宮田部長ともいろいろ微妙なこともあるらしいわ」

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第一話　　再　発　　　　

　藤峰のよくない噂に高遠が反応した。
「そんなことないです。藤峰さんはとてもいい人です。モテない人の僻ひが みじゃな
いんですか」
　高遠は自分に親切にしてくれた先輩の藤峰を庇かばっている。
「高遠さん、いいのよ。あなたぐらい表裏がなくて率直なほうがいいのよ」
　俺も大友さんの言うことに異論はない。もっとも、率直というよりは脳みそ手
足口短絡症候群みたいなものだ。頭で考えたことが口や手足に短絡しているだけ
で、裏表がないというより脳内回路にあるべき何かが抜けているにちがいない。
　それより、高遠が持っているプリントアウトのほうが気になった。俺の素振り
に高遠も思い出だしたらしく、口を尖らせていた顔がぱっと変わって、手にした
プリントアウトをいきなり突き出してきた。
「先生、やはり伊藤さん、見つかりませんでした」
　誰のことを言っているかはすぐに分かったが大友さんが何の話かと耳をそばだ
てている。
「まてまて、高遠、いったい何の話だ」
「ああ、もう。先生だって判っているんでしょう。石田先生の患者さんです。昨

　
　　
日、ビールを飲みながら三人で推理したじゃないですか」
　相変わらず紀和子はあけっぴろげだが、大友さんにこの話を知られるとどこに
広まるか分ったものではない。俺は高遠を急せきたてて、医師検鏡室の奥の小部屋
に向かった。

「そうか、伊藤美智子の乳癌手術は見つからなかったか」
「ええ、見つかりませんでした。病理のシステムで十八年前から八年前までの乳
癌の手術を検索してそれをプリントアウトしました。十年間で三百八十件の乳癌
手術検体が病理に出されていて、その中に美智子という人の手術は全部で三例あ
りました。でもこの三人はみんな伊藤さんより大分年上です」
　なるほど。それなら本人が言い張るように、伊藤美智子はこの病院で手術を受
けていない。
　これはいよいよ外科の手術記録に逐一当たるほかなさそうだ。
「それなら早めに手術記録を調べ始めたいです。それに石田先生のところに何か
新しい情報が入っていないか知りたいです」
　机の上に放り出しておいた院内ＰＨＳを借りるといって、高遠がさっさと石田

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第一話　　再　発　　　　

と連絡を取ってくれた。
「石田先生はちょうど今、手が空いているから、すぐに来てくれるそうです」
　ＰＨＳを俺に返しながら、石田のバックから伝わってくる病棟の様子も伝えて
くれた。
「看護師さんたちが楽しそうに話している声が聞こえました。病棟ってどんな感
じなんですか、いいですね」
　乳腺外科の病棟が楽しそうなのは石田のキャラクターのせいだ。どうせスタッ
フステーションで与太話をしながら、看護師たちと楽しくしているんだろう。

　待っているあいだ、高遠はもの珍しげに俺の部屋の書棚を眺め回している。
「初めて見るわけでもないだろうに、そんなに本が珍しいか」
「いえ、本は珍しくないですけど難しいのばかりですね。でも先生、ここにとっ
ても素敵な本が積んであります」
　高遠が書棚の端に無造作に積み上げておいたミステリーの文庫本に気づいた。
まったく余計なことに気がつく奴だ。
「興味があるのか？　なんなら貸してやるぞ」

　
　　
「ほんとですか？　私の読んでない本がたくさんあります。先生、ほんとに借り
ていいですか。ミステリー、大好きなんです」
　なるほど、ミステリー好きね。それで探偵気分か、と思ったところに、隣の医
師検鏡室からペタペタとサンダルの音が伝わってきた。
　小さな部屋の入り口に現れた石田は片手に大きな紙袋を下げている。高遠は医
師検鏡室から空いていた椅子を一つ押してきて石田に勧め、自分は部屋にあった
丸椅子に腰をかけた。
「どうでした、そちらは。何か判りましたか」
　紙袋を床にに置いて石田が訊いてくると、高遠がさっきのプリントアウトを手
にして、もう一度同じことを繰り返した。年齢の合う乳癌患者に美智子というの
名前の患者はいなかったと告げられて、珍しく石田が考え込んでいる。
「自分の名前で乳癌の手術を受けなかったことになるな」
　独り言のように呟いてから、病棟で仕入れてきたことを話し始めた。
「看護師さんに訊いてもらいましたけど駄目でしたね。結婚したのはいつとか、
旦那さんはどうしたのかははっきりしません。分かったのは母一人娘一人で暮ら
していることと、仕事は法律事務所の事務をやっていることぐらいです」

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第一話　　再　発　　　　

　高遠は石田の後ろで渋いというより暗い顔をしている。
「看護師さんはこの病院で手術したかどうか訊いたのか？」
　無駄だとは思ったが確かめてみた。
「それも駄目でした。病棟師長が何気なく訊いてくれたんですが、やはりひどく
硬い態度になって、その話をするならよその病院にいくと言ったようです。そう
いうわけですから高遠さん、よろしく頼みます」
　そう言いながら石田は床に置いてあった紙袋から分厚いファイルを取り出して
サイドデスクに積み上げた。全部で五冊あった。高遠が暗い顔をしていた事をす
っかり忘れて眼を輝かせた。
「わあ、これが手術記録ですか。これだけならたいした事ないですね。頑張れば
二、三日で終わりそうです」
　石田は俺の方をちらりと見て、高遠に優しく諭すように話し掛けた。
「高遠さん、これは十年前の一年間に第二外科が手術した症例全部です。その中
に乳癌の手術が一緒に綴じてあります。全部調べるにはこれと同じくらいのファ
イルが年数分あります。残りは後で持ってくるように秘書の高橋さんに頼んであ
りますよ」

　
　　
　眼鏡と同じくらいに眼を丸くして高遠が石田を見つめた。
「これで一年分ですか。そんな……」
「手術記録も今ならカルテシステムに書きますけど、システムが導入される以前
は手書きしたのをファイルしていたんですよ」
　石田は手術記録のファイルを調べるよりないと念を押している。手術記録の山
を眺めて高遠の闘志がこれで萎なえては困る。フォローしたほうがよさそうだ。
「そんなにがっかりするな、俺も手伝ってやるよ。何とか時間作るから」

　まだ仕事がたくさん残っていると病棟に戻っていく石田を送り出し、高遠がま
た渋い顔に戻った。
「石田先生にしてやられました。先生は気がついていたんですか。こんなのがあ
と十年分あるんでしょう？　どうしましょう」
「どうしましょうって、引き受けたのは高遠だろう。俺はあくまで手伝いだから
な、間違えるなよ」
　とは言ったものの、口を尖らせる高遠を宥めておいたほうがよさそうだ。
「大丈夫だ。これで十年前なら、遡っていけばファイルはだんだん薄くなるし、

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第一話　　再　発　　　　

全部に目を通す前に見つかるさ」
　ついでに石田の金で買収することにした。
「それにしても大変そうだな高遠。だけどいいことを教えてやろう。片がついた
ら石田はまたご馳走してくれるぞ。今度はイタリア料理がいいかもしれない。上
等なワインつきなんてのはどうだ」
　高遠が急に嬉しそうな顔になった。
「ほんとですか？　この前あんなにご馳走してくれたばかりなのに、またご馳走
してくれますか」
「ああ、大丈夫だ。俺が保証する」
「先生の保証じゃあてになりません」
　俺の保証を危ぶみながら、それでも高遠は元気に自分の仕事に戻っていった。

　その日の分の検鏡が済むと、外科の手術記録を少し調べてみることにした。夕
方には外科の秘書を勤める高橋さんがさらに二年分の手術記録を届けてくれたか
ら、俺は一番古い十二年前の記録から調べはじめた。
　丁寧に記録された手術の記録には診断に到るまでの症状とＣＴを含めて検査結

　
　　
果から始まり、術前カンファランスで指摘されたこと、決定された手術の術式が
事細かに記載記録され、手術中に問題があった場合はそれも必ず書き記されてい
る。稀には術前の判断が誤っていることもあり、その場合、どう判断して、どう
手術手技を変更したかも丁寧に記録されている。
　記録を繰くっていくと十件か二十件に一件くらいの割合で乳癌の手術記録が綴じ
られている。今では乳腺外科が独立しているが、この十二年前のファイルには当
時の第二外科の手術記録が全て一緒に綴じられているのだ。
　石田は手術記録をくまなく目を通す必要があると言っているが、それは手間が
かかりすぎる。まずは紀和子が打ち出したリストに載っている乳癌のうち、年齢
の合いそうなのを選んでファイルから記録を見つけだして調べることにした。手
術が問題の伊藤美智子に合っているかどうか調べるのだが、そもそもリストで年
齢のあう症例は滅多にない。まあ、当然のことだ。癌はあくまで成人病だから、
普通は六十歳くらいを越えた患者が多い。
　ようやく一件の若年性乳癌患者を見つけ出して調べ終えたところに高遠が現れ た。白衣で現れるかと思っていたら私服に着替えて、上着を手にしている。
「先生、ごめんなさい、遅くなりました」

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第一話　　再　発　　　　

「なんだ、着替えてきたのか。ファイルは古いから、結構埃っぽいぞ」
「いいんです。これからやることは業務じゃないという私なりのデモンストレー
ションです」
　もちろんつんつんるてん気味の白衣姿より私服のほうがずっといい。
　記録を調べる手順を教えると、高遠は頷いて眼鏡をぐいと押し上げ、十年前の
ファイルを手にした。
　俺の直ぐ近くで夢中になり、ファイルを捲ってはリストと照らし合わせている。
度の強い眼鏡の奥で、ときおり二重まぶたと長い睫まつげを瞬しばたたかせて俺に話しかけて
きた。
「面白いですね。手術の記録ってこんなにきちんと書いてあるんですね。これが
外科の大事な記録だと言うのがよくわかります」
　さっきはあんなに不平を鳴らしていたのに今はすっかり夢中だ。俺も高遠の横
顔ばかり見ていないで、ぼちぼち調べていくことにしよう。

　手術記録の調査ははかどらなかった。夜の九時を回っても大して進んでいない
し、単純作業に俺は早くもうんざりしてきた。高遠はどうかと見ると相変わらず

　
　　
集中しているが、眉を寄せて難しそうな顔をしている。
「どうした、何か分からないのか」
　声をかけるとふうっとため息をついて振り向いた。
「手術記録は面白いんですけど、なんだか知らない言葉ばかり出てきます。エン
ドＧＩＡって何の道具ですか」
「エンドＧＩＡ？　それは自動縫合機かなんかじゃなかったか」
「さっきからバイポーラーとか、サテンスキーとかそんなのばかりです」
　高遠が口にしたのは電気メスと鉗子かんしの一種なのだが、どうやらだいぶ疲れてき
たようだ。
　これは一休みするのがよさそうだと、俺はカンファランス室に出向いてコーヒ
ーを二人分用意した。戸棚からクッキーを見つけ出して戻ってみると高遠が何か
考え込んでいる。どうやら今日はこの辺が潮時のようだ。
「もうだいぶ遅いから今日はここまでにしよう。こんな時間までつき合わせて悪
かったな」
「別に悪くないです。これは私の仕事ですから」
　なかなか殊勝な奴だ。ちゃんと自分の仕事と心得ている。これで余計な一言が

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第一話　　再　発　　　　

なけりゃほんとに可愛いんだが。
「それより先生、思ったより根性がないですね。まだ九時ですよ」
「これは根性の問題ではない、体力の問題だと言いたいところだが、正直言うと
こういう作業には耐えられない。もっと賢いやり方がないかな。病理のシステム
を使う上手い方法を考え出そう」
　俺の本音に高遠が笑い出した。
「神城先生、正直ですね。そういうところは素敵すてきです。わかりました。今日はお
しまいにしましょう。今晩のうちに二人で何かいい方法を考えて、明日、また頑
張りましょう」








　
　　

　６　病理システム

　翌朝、高遠は張り切って病理部に現われた。昨夜の間に伊藤美智子の乳癌の手
術を突き止める方法を考えたのだろう。俺を捕まえて話したがっているのが見え
みえだった。
　高遠の様子には気がついていたけれど、通常の業務の上にその日の晩は高遠は
当直だというし、俺も夕方には部門委員会に出なくてはならない。それなら午後
にでも相手をしてやろうと考えていたら、前日に続いてその日も午前中から病理
解剖の依頼が入った。内科から病理部に派遣されている鈴木医師が当番で仲西部
長が指導する予定だったが、部長は会議が午前中からあるという。結局、俺が代
わりに相手をする羽目になった。
　病理解剖の指導は普通なら最後まで付き合わず、重要な部分を済ませると解剖
から抜け出すのだが、その日は慣れていない鈴木医師を一人にするわけにも行か
ず、最後まで付き合ってしまった。

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第一話　　再　発　　　　

　解剖室から引き上げてきたときは三時近くだった。一人で遅い昼飯を取り始め
たところに、河村果穂かわむらかほが部屋にやってきた。カンファランス室の一角にセットし
てあるディスカッション顕微鏡の前に腰を下ろし、乳癌手術の術中迅速診断を一
緒に見て欲しいという。迅速診断は手術で癌の取り残しがないことを凍結標本を
作って確認するもので、切片の作成にも診断にも熟練が必要なのだ。河村果穂は
病理専門医の資格を取ってまだ二年ほどで、いつも俺か部長が一緒に見ることに
なっている。
　二人して待っているにもかかわらず、凍結切片の標本はなかなか届かない。
「今日の解剖はどこの科の症例だったんですか」
　手持ち無沙汰に河村が訊いてきた。
「呼吸器内科の症例で、小細胞癌の進行が速くて手の施しようがなかったようで
す。全身への転移が酷い症例でした」
　河村さんは静かにうなずいている。とにかく静かな女医で、笑うときも声を立
てずに笑っている。そんな話をしている間にようやく武村係長が凍結切片を持っ
て現われた。
「河村先生、すみません。高遠さんがクリオスタットを使っているんですけど、

　
　　
なかなか切れなくて遅くなりました。ほとんど脂肪組織なんです」
　とりあえず二枚だけ、と言って武村係長は凍結切片の乗ったスライドガラスを
置いて、高遠に発破を掛けに戻っていった。河村さんが標本がセットし、俺も一
緒にディスカッション顕微鏡を覗きこんだ。幸いに癌の転移はなかった。
　俺が昼食に戻っても続きの凍結切片がなかなか届かない。食事を済ませ、お茶
を飲み始めたころになってようやくパタパタと足音をさせて高遠が現われた。
「あれ、凍結切片を作っているんじゃなかったのか」
「ああ、それを言わないでください。どうしても切れないんです。今、係長が私
に代わって切っています。だから取り合えず一枚です」
「いいですよ、高遠さん。そんなに焦らなくても」
　普段と同じように心優しい河村さんは高遠を慰めている。凍結組織を薄切する
にはそれなりの技術が必要だから、高遠の腕ではまだ無理なのだろう。それなら
高遠の技術向上に俺も少し寄与することにするか。
「高遠、こう見えても俺は散々凍結切片を切ったことがあるんだ。コツを教えて
やろうか」
「まさか！　信じられない、神城先生が凍結切片つくる名人だなんて」

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第一話　　再　発　　　　

　別に名人だとは言っていないが、勝手に名人だと思わせておくことにして、秘
伝の奥義おうぎを教えることにした。
「凍結切片をうまく作るにはとにかくクリオスタットを愛めでるんだよ。暇があっ
たら綺麗に磨いてやって、一心にクリオスタット姫を見つめて、ただただ集中す
るんだ。はやく仕事を終えて何かしようなんて下心があると、クリオスタット姫
が臍を曲げるんだよ」
　せっかくの極意を教えてやったのに高遠はふくれっ面だ。
「いつも綺麗にしておけというのは、さっき係長にも言われました」
　俺と高遠をやり取りを聞いていた河村さんが声を立てて笑いだした。驚いて二
人して同時に河村さんを振り返った。河村さんの笑い声を聞くのは二人とも初め
てだった。
　そうこうしている内に武村さんが最後の凍結切片を持ってきた。
「河村先生、これで終わりです。高ちゃん、もういいわ。今日はどうも仕事にな
らないみたいだから、クリオスタットの掃除が済んだら神城先生の手伝いをしな
さい。集中力のない人は危ないですから。でも今日だけよ」
「いいんですか、係長。素敵、大好きです」

　
　　

　迅速診断は滞とどこおりなく済んで、高遠は俺の小さな部屋で病理システムを操作し
ている。昨夜考えたという手順で乳癌の症例を絞り込もうとしているのだ。いつ
ものように口は滑らかに動かしながらだ。それなら俺は高遠のコンピューターの
腕前を見守ることにした。まだ検鏡しなくてはならない標本があるが、その報告
は週明けになっても差し支えないだろう。
「とりあえずこの前と同じ条件にして、十八年前から八年前、外科、乳癌で検索
します。ええと、こうですね。これでよし、と」
　コンピューターは作業の終了まで少し待てと表示している。結果が出るまで待
つ間、高遠は俺を相手に話し始めた。
「武村係長って、厳しそうで優しいんですね。私がうずうずしているのをちゃん
と気がついてくれたんですね。憧れます」
「あのなあ、高遠、係長が優しいのには反対しないけれど、別に優しいからじゃ
なく、そのうずうずのせいで今日は仕事にならないって見抜いたんだよ。まるで
子猫が遊びたくて我慢しきれないようにしか見えないよ。少しは大人になったら
どうだ」

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第一話　　再　発　　　　

「ああ、それは酷いです。でも子猫ならいいか。ほら、ちょっと可愛いでしょ」
　両手を突き出して高遠はにこっとしたが、それから両手を開いてそれを交互に
眺めてため息をついた。
「子猫にしてはこの手、大きすぎですよね」
　その間にもコンピューターは仕事を続けている。モニターの表示がぱっと切り
変わり、高遠が意識を画面に戻した。
「この間と同じで、全部で三百八十件です。この中から若い人を選びます。今四
十歳でしたよね。そうすると十年前なら三十歳でしょう。それでしたらどうしま
しょうか、どうせなら二十五から三十五歳にしましょうか。さあ、これでどうで
すか」
　今度は結果が出るのに一瞬もかからなかった。
「先生、結果がもう出ました。この年齢では十一例しか出ませんね。もう少し年
齢幅を広げましょうか」
　問いかけておきながら返事など待ちもせず、操作を続けている。
「それじゃあ二十歳から三十五歳にしましょう。さあ、これでどうですか。十六
例になりました。取りあえずこれくらいでいいですね。これを印刷して見られる

　
　　
ようにします。あっ、待ってください。確か左の乳腺でしたよね」
　条件を入力すると八例に絞られたが、これは注意が必要だ。
「左右は入れないほうがいい。左右をちゃんと書かない申込書が時々あるんだ。
それだと漏れてしまう症例があるぞ」
「ええ？　まさか。左右を書いてこないんですか」
　まさかというが、実際にそういうのがある。今ならカルテシステムを見に行け
ば大概はどこかに書いてあるが、十年以上前ではカルテシステムはないからそん
なことは出来ない。
「それじゃ条件を戻します。この十六例ですね、先生。印刷します」
　部屋の隅に置かれているプリンターが動き出して、たった今検索したばかりの
十六例が印刷されて出てきた。プリントされたデータにさっと眼を通して高遠が
それを持ってコンピューターの前から立ち上がった。
「先生、あとはこの中から左の乳癌で形成外科が関係した症例を捜せばいいんで
すね。いよいよ大詰めです」

　外科の手術記録は一旦、返すことにして、紙袋に戻したファイルを二人して外

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第一話　　再　発　　　　

科の医局に持っていった。そこから十六例の手術記録を改めて高橋さんに選びだ
して貰った。その抜き出された手術記録を前にして高遠が張り切っている。
　取り敢えず二人して基本的な部分だけを調べてみた。左と記載されているのは
全部で九例だった。コンピューターで選び出した件数は八例だったから、やはり
左右の記載がもれているのが一例あることになる。
　さらに手術に参加した医師を調べていくと、形成外科が手術の最後に入って手
術後の皮膚を綺麗に仕上げた症例は六例あることがわかった。
「どうやら、この時期、形成外科が乳腺の手術にずいぶん興味を持ったようだ。
とくに若い患者の手術には力を入れたみたいだな」
　六例まで絞り込まれたから、あとは手術記録を丁寧に読み込んで伊藤さんとう
まく合致する症例を探し出せばいい。
　そこまでたどり着いたところで高遠が丸椅子から立ち上がった。当直に入る時
間だという。ということは俺も面倒な委員会に出なくてはならない時刻だ。
「六例なら当直の間に調べられます。先生の部屋で調べればいいでしょう？」
　それだけ絞り込まれていれば俺が調べても今晩中には済みそうだが、最後の詰
めは自分でやりたいらしい。

　
　　
「それでいいよ。石田には週明けにでも伝えればいいだろう」
「分かりました、先生。明日の朝までには結論を出しておきますから、先生も病
院に来てください。どうせ、今日、見終わらなかった標本がたくさん残っている
んでしょう」
　俺はそう言う高遠を見上げた。今は夢中になって伊藤さんの手術を突き止めよ
うとしているが、突き止めた後が気になる。いいだろう。明日の土曜日、俺も病
院に出て来よう。


　高遠がどうしているかと気にかけながら土曜日は十時前に病理部に着いた。医
師検鏡室を通り抜け、その奥の小部屋に辿りつくと机に高遠が突っ伏して眠って
いた。周りには開いたままの手術記録と何枚かのメモ用紙が散らばっている。俺
の気配に気づいて高遠が頭を上げて左右に振っている。見ると髪には寝癖がつい
ているし、腫れぼったい顔をしている。
「ああ、いけない、眠ってしまいました。先生、早いんですね、もっと遅いと思
っていました。すぐ片付けます」

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第一話　　再　発　　　　

　そう言いいながら立ち上がったが、いつもの活気がない。
「夕べは眠らずに調べていたのか」
「少しは眠りました。でも、朝、早くに眼が覚めてしまって、それからずっと調
べていたんです」
「何か分かったか」
　問われてもすぐには返事をしない。
「何とか絞り込みました。この二人のうちどちらかだと思います。でも、先に顔
を洗ってきます。話はそれからでいいですか？」
　のろのろと俺の机やサイドデスクに広げていた手術記録をまとめ始めた。
「歳を取るとだんだん世の中のことが見えてきました。見えてくると世の中って
残酷ですね」
　俺から見ればまだ十分若いというのに、ずいぶん年寄りじみた事を言う。高遠
は手術記録をまとめて部屋のサイドテーブルに積み上げた。
「引継ぎは九時に済ませていますから、もう私の当直は終っています」
　そう言って高遠は静かに部屋を出て行った。


　
　　
　少しして高遠は俺の部屋に戻ってきた。さっきよりは少し元気が出てきたよう
だ。髪は梳かしたたのだろうか、少し湿って寝癖は直っている。
　メモを広げて説明を始めた。
「六人のうち、一人は二十二歳でした。手術は十二年前で、その時はまだ独身で
した。伊藤さんは、今、四十歳で、十六歳か十七歳の高校二年生のお嬢さんがい
ますから、この患者さんは合いません」
「他人の名前でカルテを作ったからには本当の伊藤さんの年齢ではない可能性が
高いぞ。それはどうなんだ」
「それも考えました。この人、そもそも左の乳癌には違いないんですが、癌の場
所が違います。伊藤さんの傷跡はお乳の内側ですが、この患者さんは外側です」
　なるほど、それでは話が合わない。ほかの一人は背が高すぎで、伊藤さんには
合わないという。
「それから三十五歳と三十四歳の患者さんは十三年前と十五年前に手術をしてい
ます。三十五歳の患者さんは左のお乳の外側下方で場所が合いません。三十四歳
の患者さんは場所は合いますが、かなり大きな部分切除でした。それにこの方は
だいぶ太っていて、少々のダイエットではとても伊藤さんほどになれません」

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第一話　　再　発　　　　

　高遠は相変わらず淡々と話を続けている。
「昨夜は忙しかったのか」
「ええ、当直の仕事も結構忙しかったですけれど、別のことであまり眠れなかっ
たんです」
　少し間をおいて高遠が話を続けた。
「残ったのは二人です。一人は十三年前に手術をしています。患者さんは大出さ
んという方で、三十一歳でした。その当時はお嬢さんが一人いることになってい
ます。この方だったら、計算すると伊藤さんは二十七歳の時に手術を受けたこと
になります。お嬢さんは三、四歳ですね。見舞いに来れば、伊藤さんをお母さん
とかママって呼びそうです。この子が見舞いに来たという記録もあります」
「ほかに見舞いに来た家族は？」
「ええ、来ています。お母さん、ご主人、それに弟さんも見舞いに来ています」
　高遠が結論を出した。
「この大出さんではないと思います。理由は幸せすぎます。こんな幸せな家族が
いるのに危険な事をする必要はないですし、今、必死になって隠す必要もないで
す」

　
　　
「それじゃもう一人は？」
「最後の一人は葛城祥子かつらぎさちこさんという方です。手術したときは二十八歳で、十六年
前となっています。十六年前なら本物の伊藤さんは二十四歳で、お嬢さんは一歳
になる前です」
　なるほど、うまく合いそうだ。
「カルテを見ていたら、葛城さんの入院中にお姉さんが何回か見舞いに来ていま
すが、看護師さんの記録ではお姉さんは授乳中の赤ちゃんを抱いていたと書いて
あります。でもお姉さん以外には見舞いに来たという記録はありません」
　いつもはおしゃべりの高遠がそのまま口をつぐんで黙っている。
「答えは出たようだな。後はそれをどうやって確認するかだ」
「ＤＮＡ検査ですね」
「そうだな。今は法医学が発達しているから、この患者の組織と伊藤さんの組織
からＤＮＡを抽出して調べれば直ぐにけりが付くだろう。そうでなくても葛城さ
んが伊藤さんなら、手術で摘出された乳腺の組織には何か授乳期の特徴的な組織
の変化がある筈だ。病理の報告書に何か書いてなかったか」
　俺の疑問に高遠は首をかしげた。

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第一話　　再　発　　　　

「病理の報告書は読みましたけど、そのことは何も書いていませんでした」
「まあいいさ。診断に関係ないことは書かない病理医はいくらでもいるからな。
どうせ標本を見ればすぐわかる」
　高遠は静かに淡々と話をしている。
「ＤＮＡはどこで調べるんですか。ここの病院じゃ調べられませんよね」
「ああ、そうだな。医学部の法医学教室に知り合いがいるから、そこに頼めばい
いだろう。一、二週間は掛かるかもしれないが」
　それでも高遠の表情は冴えないままだ。
「そんなに心配するな。石田の知りたいのはどんな手術で、どんな組織だったの
かだけだ」
「わかっています。でも、知らないほうが良かったのかなと思って」
　その通りだ。世の中には知らないほうがいい事がたくさんある。それでも知ら
ないままでは先に進めない。
「きちんとけりをつけよう。それで一番いい方法を考るさ」
「わかりました。二人の標本を用意します。でももう一つ、大事な問題が残って
います」

　
　　
　そのせいで高遠は暗い顔をしているのだろう。俺が黙って待っていると高遠は
大きなため息をついた。随分と言いにくそうだ。
「もう少し待って、ＤＮＡの検査がすんでからにしましょう。そうすれば確実に
なりますし」
　高遠の顔にはいつもは見られない疲労の色が見える。
「そうだな。ＤＮＡを調べるのなら、葛城さんのほかの組織があるならそれも調
べてもらおう」
「それは何のためですか」
「この乳癌とは別に葛城さんの検体が病理に出でていれば、その検体から本当の
葛城さんのＤＮＡが分かるということさ。それで、葛城さんのことが少しはわか
るだろう」
「そうですね。パラフィンブロックを貸し出すほうがいいんですか、それとも切
片でいいんですか？」
「パラフィン切片でいいはずだ。ブロックは貸し出さないルールのはずだ」
「わかりました。今日、帰る前に切片を用意します」
　高遠はそう言ってブロックを捜しに出て行った。

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第一話　　再　発　　　　

　昨日の残りの標本を見始めて少し経ったころに、高遠が何個かのパラフィンブ
ロックとスライドガラスを手にして戻ってきた。
「先生、これでＤＮＡを調べられますよね。それから葛城さんは乳癌の手術の後
に、子宮内膜の掻破術を受けていました。今から四年前でした。その標本がいっ
しょです」
「ああ、それでいいよ。確か十ミクロンぐらいの厚めの切片が一、二枚あれば検
査には十分なはずだから、予備を含めてそれぞれ四、五枚くらいづつ用意してく
れればいいだろう。ガラスには貼り付けずにエッペンドルフのチューブに入れて
くれ。用意が出来たら釜台病院の未染標本の残りと一緒に送ろう」
　高遠はパラフィンブロックを持って、厚切りの切片を作りに静かに部屋を出て
行った。

　一時間もしないうちに高遠が切片を入れたエッペンドルフチューブと未染のス
ライドガラスを持って戻って来た。あい変わらず疲れてはいるようだが先ほどと
は違って決然とした表情だ。
「送り先を教えてください。これを送ります」

　
　　
　俺は訝いぶかって高遠の顔を見たが何も言わない。俺は黙って用意しておいた手紙と
封筒を渡した。
「少し休んでから帰ったらどうだ。このまま帰るのは危ないぞ」
　高遠は素直だった。
「そうですね、それじゃ封筒に切手を貼って帰りがけにポストに入れることにし
ます。ここで少し休ませてください。家に帰っても一人です」
「高遠、お前、一人暮らしなのか」
「母と二人ですけど、今日の午前は仕事に行っています」
　何気ない答えに俺は戸惑った。高遠は片親だったのか。
「いいよ、好きにして。俺は標本を見ている」　
　事務コーナーで切手を封筒に貼り、戻ってきた高遠が書棚の前の丸椅子に腰を
おろした。程なく、後ろからかすかな寝息が聞こえ始めえた。振り向いて静かに
眠る高遠の顔を見つめた。眼鏡は外してサイドデスクの上に置き、長い手足を縮
めて膝の上にかるく腕を組んで眠っている。頭をかしげて時折寝息を立てる高遠
に予備の白衣を掛けてやった。

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第一話　　再　発　　　　

　誰もいないカンファランス室で軽い昼食を済ませて部屋に戻ると、ちょうど高
遠が眼を覚ましたところだった。目の前で大きく伸びをした手足がことさら長く
見える。俺に気づいて身体の上に伸ばしていた手を縮めた。
「ああ、先生、失礼しました。おかげですっきりしました。いま、夢を見ていた
んです」
「へえ、どんな夢だ」
「最初は何かとても嫌な状況で悲しかったんですが、最後にとて素敵な私のお兄
ちゃんが出来たんです。いいでしょう」
　高遠は椅子から立ち上がって身体をほぐしている。
　俺が無言でいると不思議そうに俺の顔を見てきた。
「どうかしたんですか、先生。私、何か変なこと言いましたか？」
「いやなんでもない。ちょっと思い出したことがあるだけだ」
「なら、いいですけど。ああ、よく寝ました。少しは気が晴れました」

　高遠が帰っていった後、俺は資料室に行ってパラフィンブロックを一件探し出
した。その切り出し面を見た。表面はパラフィンで覆ってあるが何とか標本の形

　
　　
がわかる。もう一度カセットに書き込んである番号を確認した。月曜日になった
ら武村さんに見つけ出したブロックの厚切り切片を頼むことにした。
　そのあと、高遠が出しておいてくれた葛城祥子と大出幸恵の乳癌の顕微鏡標本
を確認した。結論は同じだった。葛城祥子は伊藤美智子だ。

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第一話　　再　発　　　　

　７　病　棟

　伊藤美智子の検査は順調に済んで、次の週から抗癌剤の点滴が始まることにな
った。不測の事態に備えて最初の週は入院して、二週目からは通院で化学療法が
出来るという。それが済んだら残っている腋窩の小さなリンパ節を切除する予定
になっている。抗癌剤の感受性が高いことがわかっているから、手術は簡単に済
むだろう。
　治療が順調に進み出したのはいいのだが、病理部が奇妙に静かになってしまっ
た。静かなのも一日、二日は良かったが、いつもの響き渡る悲鳴やら驚きの声が
聞こえないのはかえって落ち着かない。検鏡の済んだ標本と申込書を持っていく
たびに大友さんが迫ってくる。
「ねえ、神城先生、高遠さんどうしちゃったの？　ここのところなんだか元気が
ないわよ」
　俺に言われても困る。分かってはいるが大友さんには言いたくない。

　
　　
「いいじゃないか、静かで。おかげで仕事がはかどるよ」
　はぐらかそうと言ってみたが、見透かすように大友さんは追及してくる。
「もう、先生は冷たいんだから。先生のせいじゃないの？　二人で内緒で何かし
ていたでしょう」
　これは気をつけないと大友さんに嗅ぎ出されそうだ。法医学の立花講師からの
返事はまだだが、伊藤さんの件をこれからどうするか、石田と一緒に考えておい
たほうがよさそうだ。もちろん高遠も一緒に。
　しかし、俺のやることはいつも後手に回る。石田をなかなか捕まえられないう
ちに伊藤さんの事件はもっと劇的な形で終わりを告げることになった。


　木曜日の夕刻に安全管理室でアクシデントについての会議があり、俺は病理部
長の代理でそれに出ていた。一ヶ月以上前に悪性と病理報告が出たのに臨床の医
師がそれを確認しないでいて、患者が再来院するまで放置されたという件があっ
た。それについての会合が持たれていたのだ。幸い放置された期間がそれほど長
くないので実質的には問題はなかったが、けっこう議論が長引いた。ようやく会

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第一話　　再　発　　　　

議が終わって病理部に戻り、医師検鏡室を通りかかると石田が外科から来ている
山崎医師と話しこんでいた。俺に気がつくと声をかけてきた。
「神城先生、待っていましたよ。病理の報告書をちゃんと見ていない内視鏡医が
いたんだって？　しょうがないなあ」
　と、俺が出ていた会議の内容を知っている口振りだ。石田は山崎医師との話を
打ち切り、俺のあとについて狭い部屋に入りながら続けた。
「そういう間抜けな医者につける薬はないんだが、病院としては安全管理上の大
問題だな」
　呑気に話をしているが、石田がわざわざ俺の所に来たからにはこんな話をした
いわけではないはずだ。
「ああ、緊張感がないとしか言いようがないんだろうが、人のことは言っていら
れないさ。気を緩めればいつ、同じ立場に陥らないとも言えない仕事だからな。
まあ、それはともかく本題に入ろう」
　それじゃあ、と石田が話を切り出した。
「手術記録の調査に手こずっているって話を大友さんに聞いたけれど、どんな具
合なんだ。手に余るようだったらうちの若手を貸そうか」

　
　　
「それは有難い申し出だけど高遠がもう突き止めてくれたよ。手こずっているわ
けじゃなくて、最後の詰めを法医学に頼んでいるところだ。その返事を待ってい
るところだ」
　石田が驚いた表情をした。
「あんなにあるファイルをもう調べたのか」
「調べたよ、と言いたいところだが、さすがにあの記録を全部見るのはあんまり
だから、二人で知恵を出してコンピュータで出来るだけ絞り込んだんだ」
「何だ、残念だな。せっかく高遠さんをこき使おうと思ったのに」
　まったく石田も相変わらずだ。人をおだててうまく使いこなすのを趣味にして
いる。
「金曜日の夕方までにコンピューターで六人に絞った上で、最後は高遠が当直の
合間に手術記録と突き合わせたんだ。最後まで残ったのは二人だけだった」
「分かったのか」
　石田の顔付きが引き締まった。身を乗り出して訊いて来た。
「ああ、分かったよ」
「それじゃ、伊藤さんは誰の名前で、いつ手術したんだ」

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第一話　　再　発　　　　

　高遠が出した結論を伝えようとしたちょうどそのとき、石田のポケットの院内
ＰＨＳが鳴り出した。気楽にＰＨＳを耳にあてがった石田が眉をひそめた。相手
の声は分からなかったが、何か病棟で異変が起きたようだ。
「あいつか、まったくしょうがない奴だな。わかった。直ぐ行くからそれまで何
とか伊藤さんを思いとどまらせておいてくれ」
　しばらく前からスーパー研修医が石田のところを回っているという話を知って
いるから、俺にも見当がついた。石田は慌しくＰＨＳのスイッチを切り、俺をち
らりと見て一緒に来いという。患者に直接顔を合わせるのは苦手だが、伊藤美智
子とは前にも一度顔を合わせている。やむを得ない、俺は石田の後を追った。病
理部の入り口で細胞診の検体を回収してきた高遠とすれ違った。高遠は俺たちの
慌あわたただしい様子に振り返って何か言いたそうな表情をしたが、それにかまわず病
棟に向かった。
　伊藤美智子の入っている四人部屋に近づくと、中からなにやら険しい声が響い
てきた。部屋に辿り着き、二人して中を覗き込むと、扉に近いベッドの前には若
い男の医師が憮然とした表情で突っ立っていて、ベッドに腰掛けた女性が黙った

　
　　
ままバッグに私物を整理している。看護師長が何とか思いとどまらせようと声を
掛けているが、その女性は無言のままだ。カーテンの隙間からその様子を同室の
患者がこわごわと覗いている。
　石田は部屋の様子をちらりと見て俺に中に入るように促し、自分は看護師長を
部屋の外に呼びだした。俺が病室に入ったとき、また騒ぎが起きた。若い医師が
ふて腐れたまま、何か言ったのだ。ははあ、こいつが問題のスーパー研修医か。
荷物の整理をしていた女性がきっとなって振り返り、近くにいた看護師があわて
てとりなしている。
「いいえ、結構です。わたしは家に帰ります」
　そう言いながらその女性は左手に固定してあった点滴の針とチューブを引き抜
いた。抜けた針先から輸液が滴り落ち、腕からは赤い血が流れ出した。

　後ろであっと声がした。背の高い白衣姿の女が俺の脇をすり抜けてベッドに駆
け寄った。いつの間にか病室に来ていた高遠だ。脇をすり抜けるとき俺は腕を掴
もうとしたが、それを振り払ってベッドの脇に膝を突いた。血の流れ出る腕を傍
の看護師からもぎ取るようにして受け取ったガーゼで押さえながら毅然とした声

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第一話　　再　発　　　　

で話しかけた。
「伊藤さん、駄目です。綾香さんのことを考えてあげてください」
　娘の名を聞いて伊藤さんは表情を曇らせ、戸惑っている。顔を知らないから、
白衣を着ている高遠を医師と誤解しているのだろう。
「私も母一人子一人なんです。高校生の頃、母が病気をして入院しました。その
とき、どんなに心細かったか、わかってあげてください。伊藤さんの病気はこの
病院で石田先生の治療を受けるのが一番です」
　さっきの若い看護師が急いで駆け寄って高遠が抑えているガーゼを 絆創膏ばんそうこう で
留めて止血しようとしている。そのときスーパー研修医がまたぼそぼそとふて腐
れたまま呟いた。
「治療を受けたくないってんだから、それでいいじゃないか」
　高遠がきっとなって振りむいた。
「あなたみたいな人が医者だなんて信じられない。患者さんを苛めるのがそんな
に楽しいの」
　そう言ったかと思うと高遠は立ち上がって右手を振り上げ、激しい勢いでスー
パー研修医の横面を張り飛ばした。いや実際には高遠の手は慌ててブロックする

　
　　
研修医の手に当たって、派手な音が部屋中に響きわたり、研修医はよろめいてそ
のまま驚きに眼を見開いている。部屋の入り口に石田と一緒にいた沈着冷静な看
護師長も、はっと息を呑んだまま言葉がない。
　スーパー研修医が何か言いかけると、高遠が研修医に詰め寄った。
「何か文句があるの？　もう一度、打ぶたれたい？」
　研修医は後ずさりし、気圧けおされて入り口ににじり寄っていき、高遠の厳しい視線
がそれを追っていく。高遠の気迫に周りはしんと静まり返って、伊藤美智子は驚
いてその様子を目を見張って見つめたままでいる。

　高遠の登場と剣幕には仰天したが、さてこの場はどう決着がつくのかと思った
ところで、それまで部屋の入り口に立っていて成り行きを見守っていた石田がタ
イミングよく介入して、事態の収拾に乗り出した。
「伊藤さん、申し分けありません。私の教育が行き届いていませんでした。研修
医は二度と伊藤さんの部屋には来させません。廊下で伊藤さんと顔を合わせそう
になったら、まわれ右をして戻るように言っておきます」
　石田部長の宣言に研修医は口を開きかけたが結局何もいわず後ずさりし、部屋

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第一話　　再　発　　　　

の入り口からこそこそと出て行った。
　スタッフステーションからやって来たらしい若い看護師が看護師長になにやら
囁き、師長は石田に向かって一人部屋の用意が出来たと伝えた。石田は手を止め
たままの伊藤さんにその部屋に移るように促し、そこで落ち着いて話をしたいと
申し出た。石田の支配力は抜群だった。そこにいた人たちが石田の言葉に従って
動き始め、伊藤美智子もどうやら落ち着いて来た。
　出番はなさそうだから俺はまだ緊張した面持ちの高遠と一緒に病室を出ようと
したところで目ざとく気づいた石田に引き止められた。
「神城先生と高遠さん、少し待っていてください。伊藤さんが部屋を移ったら皆
んなで話をしましょう」
　石田の申し出に伊藤美智子はしばしあいまいな表情をしていたが、結局は同意
した。

　二人して廊下に出ると高遠がよろめいて俺にぶつかってきた。あの派手な活劇
の緊張感に良く耐えたなと思っていたらそうでもないようだ。高遠を抱えるよう
にしてエレベーター室の裏にある階段に向かった。

　
　　
　人気のない階段室に入ると高遠はぐったりとして疲れきった表情で手すりに寄
りかかった。大きく粗い息をしながら俺を振り向いた。
「ごめんなさい、先生、考えもなしで。とても我慢できなかったんです」
「いやいや、いい事をしたよ、高遠は。俺や石田じゃやれない事を代わりにやっ
てくれたんだ」
　高遠は驚いて、顔をくしゃくしゃにした。
「神城先生もひっぱたきたかったんですか？」
　と泣き笑いだ。
「いや、違うね。俺は過激だからあいつを叩きのめしたくなったよ。あの根性が
治らないならこの病院からご退場願いたいね」
　ますます眼を丸くして驚いた顔をしている高遠が何か言いかけたところに俺の
ＰＨＳが鳴りだした。石田からの呼び出しだ。高遠と一緒に伊藤美智子の新しい
病室に来るようにという。五分したら高遠を連れて一緒に行くと返事した。
　どうやら落ち着いてきた高遠が俺の顔を見た。
「どうして五分後なんですか」
「どうしてって、高遠、その手と顔くらい洗ってから行くだろう。俺だって少し

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第一話　　再　発　　　　

は喉を潤してからにしたいね。それに大丈夫だ。多分この騒ぎもこれでけりがつ
くだろう。伊藤さんも全部話す気になったんだ思う」

　高遠と一緒に病棟のスタッフステーションに行ってみると、看護師たちは何事
もなかったかのようにいつもの仕事をこなしている。石田は奥の部屋で病棟師長
と話しながら俺たちを待っていた。
「ちょうど良かったよ。今、伊藤さんは一人部屋で落ち着いているよ。師長が手
配してくれて、明日の夕方に退院するまでは一人部屋にいられることになった。
退院したら後は外来で化学療法が出来るからね」
　高遠がこわごわとスタッフステーションを覗き込んでも、スタッフは誰も高遠
に注意を払わず忙しく立ち働いている。ほっとして高遠が石田を見た。
「良かった。どんな顔をすればいいのかと思っていました。でもいいんですか？
　私なんかが一緒に行って」
　石田はにこにこしている。
「だって、高遠さんがさっきの騒ぎにけりをつけてくれたんでしょう。いやあ、
久しぶりに気持ちよかったね。それにいろいろ調べてくれたのも高遠さんだし」

　
　　
「ああ、でも、明日のうちには病院中に話が広まってしまいます」
「大丈夫。さっき、宮地をひっぱたいたことは黙っているように看護師長とあそ
こにいた看護師とで口裏あわせしておいたから。宮地にも今日のことは言いふら
すなよって、厳しく言ってある」
　高遠は疑わしそうな表情をしたが、それでもどうやら安心したようだ。

　病室に入っていくと、落ち着いた表情の伊藤美智子が小テーブルの前に座って
待っていた。俺たちは軽く会釈して用意してあった椅子に腰を下ろした。
　全員が席に着くと石田が口を開いた。
「それじゃ、伊藤さん。さっき申し上げたとおり、私達三人の知っていることは
すべてお話します。最初にお断りしますが、知っているのはこの三人だけですか
ら安心してください。話を聞いてから伊藤さんも可能な範囲でいいですから話し
てください」
　石田の提案に伊藤美智子が静かに答えた。
「そうですね、分かりました。先ほど、そちらの方の仰ったことで、私も考えを
変えました。娘のためにもきちんとお話して治療を受けます。でもどこまでご存

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119

第一話　　再　発　　　　

知なんですか」
　さっきの活躍に触れられて、顔を赤らめた高遠を石田が紹介した。
「それはこの高遠さんが一番良く知っています。以前、癌の手術歴があるとなし
では、伊藤さんのこれからの治療に大きな違いが出ると申しました。手術検体は
全て病理部に提出されて、顕微鏡で検査されています。問題の手術検体は病理部
の神城先生と高遠さんが捜してくれました」
　病理部で調べた事を話すようにと石田に促されて高遠が覚悟したらしく、眼鏡
をぐいと押し上げて話し始めた。
「十六年前に葛城祥子という名前で乳癌の手術を受けた方が伊藤さんだと思いま
す。違いますか」
　いきなり核心を突かれても伊藤美智子は驚いた表情もせず、頷いて高遠を促し
た。
　高遠は先週の当直明けの日に俺に話してくれたことを繰り返した。石田がかす
かな手術の跡に気づいたこと、病理システムを使って可能性のある患者を絞り、
手術記録と照らし合わせてその中から状況の合う手術は二人に絞った事を告げる
と、伊藤美智子がゆっくり息を吐き出した。

　
　　
「やはり専門家の方には分かるんですね。石田先生は私を診察したときに何も仰
りませんでしたから、もしかしたら気がつかなかったのかと思いましたが、やは
りそんなことはなかったんですね。そこまでして調べてくださったんですか。今
はそう言う時代ですものね。仰るとおり、この病院で葛城祥子の名前で手術を受
けました。葛城祥子は私の姉です」

　しばらくは伊藤美智子の言葉が沁みこむのを待つかのように誰も黙っていた。
ようやく石田が口を開いた。
「伊藤さんも認めていますからそれでいいんですけれど、高遠さん、二人のうち
葛城さんだと決めた客観的な根拠は何かあるの？」
「顕微鏡標本です。乳腺の顕微鏡標本は神城先生が見てくれました」
　高遠が俺に話を振ってきた。そうか、そういえばその結論は高遠には伝えたが
標本は俺だけしか見ていないかった。俺は説明した。
「授乳中の乳腺の組織にはその特徴が出ます。葛城さんの名前で出された乳腺組
織の顕微鏡標本の癌のない部分には、はっきりと授乳中の特徴が出ていました。
候補になったもう一人の方の組織はそうでありませんでした。年齢から逆算する

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第一話　　再　発　　　　

と伊藤さんが手術したとき、お嬢さんはまだ授乳中だったはずです」
　伊藤さんが頷いた。
「そのとおりです、手術を受けたのは娘が九ヶ月のときでした」
　高遠がさらにもう一つの根拠について話し始めた。
「それに、それを裏付けるために葛城さんともう一人の方の標本からＤＮＡを抽
出して遺伝子を調べることが……」
　そこまで言って高遠が口をつぐんだ。しまったという顔をしている。高遠紀和
子、余計なことをするからこういう破目はめに陥るんだ。
「その説明でかまわないよ。続けて」
「ええ、でも」
　とまだためらっている。
「法医の立花先生には標本を選び直して送っておいたよ」

　石田はへえっ、という顔をして俺と高遠を交互に見ている。高遠は驚いて俺を
見ている。
「神城先生、知っていたんですか」

　
　　
　頷くとようやく先を続ける気になったようだが、今までの歯切れのよさが嘘の
ようにしどろもどろだ。
「ええと、ですから、顕微鏡用の標本からでもＤＮＡ検査が出来るので、その、
それを手配してあります」
　そんな話じゃ何をしたか判らないだろうに、それでも伊藤美智子は黙って頷い
た。今度は高遠が驚いている。
「伊藤さん、ご存知なんですか」
「はい、ＤＮＡで親子や兄弟の鑑定が出来ることは知っています。髪の毛や手術
で取った材料からでも出来るということも知っています。もうそこまで手配して
あるんですか」
　高遠がほっとしている。ほっとしたのはいいが、最後の問題を持ち出しいてい
ない。俺が小声で囁くと、頷いて話を続けた。
「後は何でそんなことをなさったかということだけです」
「もう判っているんでしょう？」
「いいえ、分かるのは手術のとき伊藤さんは何かの理由で健康保険が使えなかっ
たんじゃないかということぐらいです」

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第一話　　再　発　　　　

　伊藤美智子はそれを聞いて、目を閉じて眉根を寄せていたが、それからゆっく
り眼を開き高遠の言ったことを肯定した。
「仰るとおりです」
　そう言ってあらためて高遠に向かって話し出した。
「高遠さんの仰ったとおりです。私が手術を受けなくてはならなくなったとき、
私は健康保険を使えませんでした。手術の費用を出すことも出来ませんでした」

　伊藤美智子が噛み締めるように手術を受けた当時のことを話し始めた。高遠は
自分のことのように辛そうな表情でその話を聞いている。
「私はその年の春、学生時代から付き合っていた人と別れました。既にお腹には
綾香を身ごもっていて、仕事はアルバイトしか出来ません。それでも国民健康保
険には入っていたのですが、支払いを滞らせてしまい使えない状態でした。実家
とは彼との同棲をめぐって断絶状態でしたから、頼ることは出来ませんでした。
　やむなく私は姉の健康保険で手術を受けたのです。それからの数年間は一番つ
らい時期でした。姉は出産の費用を出してくれましたし、暫く仕事の出来ない間
も私を助けてくれました。正式に雇ってくれるところはなかなか見つからず、私

　
　　
たちの生活が落ち着いたのは八年前に今の所に勤め始めてからです。
　事務所の所長は親切なかたで、未婚で子供を持っている私を分け隔てなく受け
容れてくれました。それからです、本当に社会に受け容れられたと思えるように
なったのは。決して高い給料を貰っているわけではありませんが、私も今は健康
保険に入っていますから自分の責任ですべてを済ませたいと思っています。姉に
ももう随分迷惑をかけましたからこれ以上の迷惑は掛けたくありません。
　それに覚悟を決めました。入院する前に娘には全てを話しました。娘は先生方
に全部を話して、きちんと治療を受けて欲しいと言われています。返さなくては
ならないお金があるなら、それを含めて必要なお金は自分が稼ぐとまで言ってく
れたんです。ただ、私はつい先ほどまで、まだ本当には決心がついていませんで
した。それから、あと四年……」
　と、話を続けようとする伊藤美智子を石田が制した。
「もう、いいでしょう。私の知りたいことは全部わかりました。伊藤さんの治療
は順調に行くでしょう。今までの経験からも化学療法を終えたあと、簡単な手術
をすればまずは心配は要りません。伊藤さんの病気以外のことをこれ以上知りた
い人はこの病院にはいません」

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第一話　　再　発　　　　

　それでも伊藤美智子は言い掛けた。
「そうはおっしゃっても……」
　高遠は先週の土曜日にこの状況を察していたのだろう、隣で黙り込んでいる。
これはどうやら俺の出番のようだ。
「伊藤さん、先週、病院の医事課長にそっと訊いてみたんです。古い請求間違い
を調べられるかってね。そうしたら彼が言うには、病院の今のコンピューターシ
ステムで調べられるのは五年前までだそうです。私が何かを調べて欲しいと言い
出すと思ったらしく、きつく言われました。間違い請求もコンピューターに記録
のない時代のものなんて、調べて請求し直すなんてのは不可能だそうです」
　高遠は怪訝な表情をしたが、やがて納得したらしく表情が柔らいだ。石田は呆
れ顔をして苦笑している。

　伊藤美智子は黙ったままゆっくりと視線をめぐらし、俺たち三人をかわるがわ
る見たあと、ゆっくりと頭を下げた。



　
　　
　翌日の午後、伊藤美智子は迎えに来た娘と姉の葛城祥子に付き添われて退院し
ていった。来週からは外来で抗癌剤の点滴を受ければいいことになったのだ。そ
れを見送った石田が病理部に降りてきて、そのときの様子を伝えてくれた。伊藤
さんは晴れやかな顔つきで退院して行き、俺と高遠に感謝の言葉を伝えてくれる
ようにとのことだった。
　俺の部屋に現れたとき、石田の後ろには高遠が付いて来ていて、三人分のコー
ヒーを小さなお盆に用意していた。今日の午後は新しい抗体を使った免疫染色を
係長に教えてもらうんだと言っていたような気がしたが、まあ、いいだろう。俺
の狭い部屋で三人そろってコーヒーを飲みながら石田は満足げだった。
　高遠がコーヒーと一緒にお盆に載せていた封筒を差し出した。
「さっき、私宛に届きました。法医学教室の立花先生からの返事です」
「微妙なタイミングの返事だな。で、どうだって？」
　高遠が広げた報告書を俺と石田が覗き込んだ。
「私たちの結論と同じでした。釜台病院で採取した伊藤さんのリンパ節とこの病
院で手術した十六年前の葛城さんの乳癌の検体とは同じ人のもので、葛城さんの
子宮内膜の検体は乳癌の検体とは兄弟姉妹の関係にあると結論を出しています」

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第一話　　再　発　　　　

　立花先生に送ったのはそれだけではないはずだ。
「返事はそれだけか？」
　俺が催促すると高遠は言いにくそうに小さな声で答えた。
「あの、ええと、私が送った乳癌の組織検体は赤の他人のものだそうです」
「わざわざ法医を煩わすこともなかったけれど、確認が取れたわけだ。いやあ、
それにしても神城先生、最近になくいい話だったね」
　部屋の入口近くで丸椅子に座っていた高遠が、そんなことはないという。
「石田先生、そんなに良かったですか？　私は気が気じゃありませんでした」
「伊藤さんが最後に時効の事を言い出しかけたんで、確かにちょっとばかり焦っ
たけど、神城先生の演技は迫真ものだったし」
　俺がにやりとすると、高遠が驚きの声を上げた。
「ええ？　まさか。あれは嘘だったんですか？　本当ですか。ひどい、私は信じ
たんですよ」
「俺があんな面倒な事をするわけがないだろう」
　と言うと石田も同意してくれた。
「まあいいじゃない、高遠さん。あながち嘘でもないんだよ。もし医事課に問い

　
　　
合わせればまさにあの通りの返事が返ってくると思うね」
　そういうものですか、と言いながら高遠が聞いてきた。
「伊藤さんがお姉さんの健康保険で手術を受けたのを、二人とも知っていたんで
すか？」
「他人の保険証を使ったのだろうとは気が付いたよ。手術はしているのに名前が
見つからないとなるとまずはそれしかない。この間、石田も言っていただろう」
　俺に言われて高遠は何やら思いめぐらしていたが思い当たったようだ。
「先週の木曜日ですか。あれはそういう意味だったんですね。あの時はぜんぜん
気がつきませんでした」
　にこにこと聞いていた石田は、以前に一度経験があるのだという。
「同じような例に出会ったことがあります。やはり保険料を支払えずにいて、健
康保険が使えなくなった人でした。今は保険料を滞納していても保険診療を受け
られるようになりましたけれど、一時は必要以上に厳しかったんです。それにあ
と四年だ。高遠さんも知っていたんでしょう？」
「ええ、葛城さんを突き止めたあの晩に気がついて、どうしたらいいか考えてい
たんです」

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第一話　　再　発　　　　

　俺達のやり取りに石田がにやりとした。
「それで、誰か無関係の人の病理標本を代わりに法医に送ったんだ。やるねえ、
高遠さん」
　俺は声をあげて笑った。
「いやいや、あのときの顔は一生忘れられないな、高遠紀和子」
　石田と俺にからかわれて高遠はなんともいえない複雑な顔をしている。
「ああ、もう思い出させないでください。あれは気の迷いです。前の晩よく寝て
いなくて判断力がなかったんです。心神喪失です」
「いいんだよ、高遠。誰かが世の中のひずみに足を取られているのなら、それを
援けて何の悪いこともない」
　石田もにこにこと頷いている。
「でも、高遠さん。言っておくけど、これで三人は共犯だからね。一人だけ抜け
るのはなしだよ」
　そう言いながら石田は椅子から立ち上がり、俺達を三人組の共犯者に仕立てて
病棟に戻っていった。
　三人組か、まあいいだろう。これこそ病院勤めの初日に俺の奥さんが予言して

　
　　
くれたことに違いない。


　石田と俺のおだてに乗って高遠もすっかり元気になった。残ったコーヒーの最
後の一口を飲みながら高遠が宣言した。
「トリオですか、素敵です。これからこのトリオで病院のミステリーをどんどん
解決しましょう」
「そんなにミステリーなんてあるものか。大体、こんなところで油を売っている
と……」
　と、言いかけたところで遠くから誰かが『紀和子、紀和子』と呼ぶ声がする。
どうやら声の主は木下主任らしい。主任に限らず病理部の技師たちは高遠を普段
は高ちゃんと呼んでいるが、お説教をするときは呼び方を変えるのだ。それなの
に高遠の耳には入らないらしい。それなら俺も主任に倣ならうことにした。
「おい、紀和子、紀和子。木下さんが高ちゃんじゃなくて紀和子って名前で呼ん
でいるぞ」
　高遠ははっとして眼をきょろきょろさせている。自分がどういう状況なのか咄とつ

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第一話　　再　発　　　　

嗟さに分からないらしい。
「木下さんは免疫染色がどうのって言っているみたいだぞ。あれはかなり怒って
いるぞ」
「ああ、いけない。発色の途中だったわ、先生、どうしよう」
　どうしようって言われたって、発色の途中でコーヒーを飲んで話し込む奴がい
るか。どうせ今頃スライドガラスはまっ茶色だ。高遠は慌てて俺の小部屋から小
走りに去っていった。
　そのついでに俺が飲んでいたコーヒーカップを机の上にひっくり返していった
が、それに気づきもしない。俺はこぼれたコーヒーを片づけて、折角だから用事
のついでに染色室を覗いてみた。長い手足を縮めて高遠が木下主任の前で小さく
なっていた。






　
　　

　
　　
　
　
　
　
　　
　病院は謎だらけ
　第二話　ホワイトクリスマス
　
　
　
　
　
　

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第二話　ホワイトクリスマス

　１　イ　ブ

　十二月二十四日、その日は朝からうそ寒く、降り始めた冷たい雨は午後には雪
になると予報が出ていた。世間では十年ぶりのホワイトクリスマスになると喜ん
でいるが、俺の顕微鏡の脇では病理標本が山積みになって検鏡を待っている。何
もクリスマスイブにこんなに標本が押し寄せてこなくてもいいのにとぼやくと、
この時期には年内に治療を済ませようと患者が病院に押しかけてきて、病理に出
される標本も増えるのだと、大友さんが講釈してくれた。
　朝から検鏡作業を続け、午後になってようやく生検材料を見終えることができ
た。昼飯もそこそこに顕微鏡に齧かじり付いていてさすがにひと休みが必要と、追加
のコーヒーを貰って医師検鏡室の奥にある小部屋に戻った。以前は顕微鏡置き場
だった小さな部屋の窓から外を見てみると、冷たい雨は朝の天気予報どおり雪に
変わっていた。
　後回しにしておいた手術材料の標本に手をつけはしたが、気力がわかない。

　
　　
　気合の入らないまま検鏡を続けているうちに午後も遅くなり、病院に全館放送
が入った。雪を降らせている低気圧が予想以上に発達して横浜と東京に大雪警報
が出たから、支障のない限り職員は早めに帰宅するようにと促していた。交通網
の混乱が必至だというから、検鏡作業を切り上げてしまうには都合がいい。とは
いうもののマッペの山を放置しておくわけにもいかない。
　一応、予報を尊重して雪に強いトレッキングシューズで出勤していたし、実際
にはたいしたことにはなるまい、今しばらく標本を見てからでも家族と一緒にク
リスマスケーキを楽しむ時刻には帰れるだろうと、たかを括くくって顕微鏡を見続け
ていた。
　そこに足音を忍ばせて近づいてくる誰かの気配がした。足音はいつもと違うが
こういう風にわざとらしく現れるのは病理部に一人しかいない。
「高遠紀和子、何か用か」
　後ろを振り返りもせず声をかけると、俺の期待通り驚いた声が返ってきた。
「あれ、どうして私だって判わかったんですか。もしかして、先生って背中に目が付
いているんですか？」
　まったく高遠はいろいろと俺を楽しませてくれる。面倒な細工なんかしなくて

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第二話　ホワイトクリスマス

も、後ろから近づいてくる足音と気配は他の誰からも区別がつくようになってい
た。こいつだけは間違いようがない。
「高遠にしちゃ独創性がないし、発想が随分と陳腐だな。俺は高遠と違って化け
物じゃないから背中に眼なんかついていないさ」
　俺は後ろを振り向いた。長めの濃紺のスカートと厚手のセーターの上にコート
を羽織って、既に帰り支度をした高遠が立っている。なかなかお洒落な姿と言い
たいところだが、何故か雪の日にスカート姿で、おまけにスノーブーツというち
ぐはぐなスタイルだ。

「ああ、先生、ひどい。私だって化け物じゃないです。背中に眼なんかついてい
ません」
　独創性がなく、おまけに発想が陳腐だと貶けなされて、高遠が膨れ面をして言い返
してきた。
「それならちゃんと考えてみるんだな。ミステリー好きなんだろう。趣味を満足
させてやるよ」
　俺に挑発された高遠は眼鏡をぐいと押し上げ、部屋の入り口に立ったまま考え

　
　　
始めた。いや、今ここで考えろと言ったわけではない。俺は急いで付け加えた。
「答えは今じゃなくていいよ。それより用事は何だ」
　帰り間際のこんな時刻に、それも大雪の夕刻に現われたからには何か理由があ
るはずだ。
「そうでした。先生、約束どおりミステリーを貸して下さい。帰ろうとして病院
の玄関まで行ったら、外はものすごい雪で思い出したんです。今晩はミステリー
三昧ざんまいです」
　そういえば二、三日前に俺の部屋に現われたときに、新たに積み上げておいた
文庫本に興味を示したので、どれでも好きなのを貸すと言っておいたのだ。雪と
ミステリーの関係は分からなかったが、俺が了解すると高遠は一人で嬉しそうに
何か呟きながら書棚の隅の文庫本の山を漁り始めた。
「嬉しい、先生。先生と私のミステリーの趣味、ばっちり合っています。これと
これは読みました。これも読みたいですけど、今晩はこっちがいいです。スケル
トン探偵シリーズ、以前に何冊か読んだんですけど、ここのところ読んでなかっ
たんです。これを貸してください」
　そう言いながら三冊ばかりを見せてきた。もちろんどれでも結構だ。

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第二話　ホワイトクリスマス

　高遠は眼鏡の奥の眼を輝やかせ、シュシュで束ねた髪を振って意気揚々として
いる。こういう時のこいつは本当に可愛い。
　可愛いのは大いに結構だが、十月の初日のハプニングを高遠はすっかり忘れて
しまっているようだし、乳癌再発患者にまつわる事件からも随分と日にちが経っ
てしまっている。これはいささか刺激がなさすぎだ。俺から借りた文庫本をトー
トバッグにしまい込んでも高遠は何故か書棚の前でぐずぐずしている。ちょうど
いい、少し気分転換をしよう。
「高遠、私服姿はなかなかお洒落だな。大雪の晩にスカートとスノーブーツとい
うのはユニークな組み合わせだが、それは新しいファッションなのか」
　高遠は自分の足元に眼をやり、顔を上げると俺を睨んできた。
「ああ、ひどい。自分だって格好悪いと思っているのに、それをわざわざ口にす
るなんてあんまりです」
　両腕を縮めて睨んでくる姿を見て俺は笑った。
　高遠はしばらく俺を睨んだままだったがようやく視線をはずした。
「本当は今晩、一人でミステリーなんか読んでいたくありません」
　俯うつむいている高遠の横顔が憂いを含んでいる。

　
　　
「何でだ？」
　と、笑いを引っ込めて訊いてみると高遠は顔を上げてもう一度、キッと俺を見
据えてきた。
「先生、まさか今日は何の日か知らないんじゃないでしょうね」
「十二月二十四日、クリスマスイブだろう。天気予報だと素敵なのを通り越して
凄まじいホワイトクリスマスになりそうだな。待てよ、まさか高遠、クリスチャ
ンなのか」
「違います。でもクリスチャンでなくても、若い女性には大事な日なんです」
　高遠は元気がない。そういうことか。
「なんだ、高遠、それじゃデートに誘ってくれる男がいないのか。見かけによら
ず、意外とモテないな」
　高遠はますます暗い顔をする。
「もう神城先生って、いつも言うことが露骨過ぎます。少しは乙女心を慮おもんばかって
ください」
　俺は思わず噴出しそうになった。乙女心を慮ってくれって、高遠の口から出る
言葉とは思えなかった。

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第二話　ホワイトクリスマス

「藤峰さんなんか、今日はデートだって、少し前から嬉しそうに言ってました。
佳子けいこちゃんだってデートなんです。ああ、どこかにいい男はいませんか」
　溜息をつきながらバッグを肩にかけ、部屋から出て行こうとする。
「それならちょっと待て」
　と俺は呼び止めた。
「まあ、そんなに落ち込むな。一緒に帰ってくれる男がいないなら、俺じゃ不足
だろうが一緒に帰ろう」
　誘いに高遠は急に元気づいて振り向き、眼を輝かせた。これは迂闊うかつだったかと
思いつつ、嬉しそうな顔に負けてつい続けてしまった。
「こんな天気だし、帰る地下鉄は同じ方向だ。これを見終わるまでちょっと待っ
ていてくれ」
「本当ですか？　それでしたらさっき借りた本を読んで待っています」
　おいおい、中年で家族持ちの俺と一緒に帰るぐらいでそんなに喜んでもしょう
がないだろう。しかしまあ、こんなに嬉しそうにするならいいとするか。高遠は
丸椅子を引き寄せてバッグから取り出した文庫本を開き、早くもミステリーの世
界に入りこもうとしている。俺は黙ったまましばらくその横顔を眺めていたが、

　
　　
その視線に気づきもしない。
　それならと俺も仕事に戻ることにして、顕微鏡を覗きながら昨晩、石田から仕
入れたばかりのニュースをさり気なく披露することにした。
「四月に山崎先生に代わって新しい外科医が病理部に来るらしいぞ。あいつの話
じゃ乳腺外科を専門にやりたいそうだ」
「ああ、そうですか、楽しみですね」
　せっかくの俺のニュースにも高遠は生返事だ。高遠は早くもミステリーに没入
している。
「卒後五年で、まだ独身だそうだ」
　今度は生返事すら帰って来ない。おい、たった今、いい男はいないかと言って
いたじゃないか。若い娘がそんなにミステリーに心を奪われず、少しは独身の若
い男に興味を持てよ。

　高遠の相手をしていたせいで標本を見終えたのは大分遅くなってしまった。そ
の間に病理部の技師も病理医も次々に帰ってしまい、俺たちが帰ろうとした時に
はもう病理部には誰も残っていなかった。

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第二話　ホワイトクリスマス

　二人で病院の玄関ホールに出てみると、病院の外は警報どおりに粉雪の舞う大
雪になっていて、風が出てきたこともあってほとんど吹雪だった。脇の通用口か
ら建物の外に出ると道路を隔てた向かいには福祉センターの建物が見えるはずだ
が、それもビル風に舞い上げられた粉雪にかすんでいる。
　傘は到底役に立ちそうもなく、しかも高遠はスカート姿だ。これでは駅まで辿
りつけるのか心もとない。足元を見つめているとあわてて俺に向かって弁解を始
めた。
「だって、朝、出かけるときはこんなひどくなるとは思っていなかったんです。
でも以前に病院に持ってきたままだったスノーブーツを引っ張り出して履いてい
ますし、タイツは二重です。だから大丈夫です」
　別に言い訳なんか必要ないし、何よりぐずぐずしている暇はなさそうだから、
とにかく二人してコートのフードを立てて舞い上がる雪の中を歩き出した。よう
やく地下鉄の駅にたどり着くと、ありがたくも電車がちょうどホームに滑り込ん
できて、これ幸いと乗り込んだ。乗り込んだはいいが横浜の地下鉄は街の中心か
ら外れると地上を走っていて、そこを雪に直撃されることになった。俺たちが乗
った電車はのろのろ運転を繰り返した挙句あげく、とうとう仲町台の駅で立ち往生して

　
　　
しまった。
　そこは自分の最寄駅だからと、電車を降りかけた高遠が俺を振り返った。
「先生、雪は小止みになってきました。歩きましょう。雪の中を歩くのはきっと
ロマンチックです」
　高遠は足元をスノーブーツで固めて強気だし、俺もトレッキングシューズを履
いて来ているから、確かに雪の中でも歩ける出立いでたちだ。それでも一応、抵抗して
みた。
「おいおい、高遠はここが最寄り駅だからいいけれど、俺の降りる駅はまだ一つ
先だ。まるまる一駅歩くことになるんだ。それに」
　と付け加えた。
「高遠と一緒に雪の中を歩いても、とてもロマンチックとは思えそうもないぞ」
「そんなこと言わないで」
　高遠は俺の腕を掴んできて、ほとんど引きずり降ろされるようにしてホームに
降り立った。相変わらず粉雪が降り続いているが先ほどまでの風は収まり、木々
や建物が街路灯に真っ白に輝いている。幻想的な街を歩いて、高遠を母親と住む
マンションまで送り届け、そこから改めて自分の家まで歩いて帰った。

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第二話　ホワイトクリスマス

　それでロマンチックだったかというと、おしゃべりに夢中で足元に注意の行き
届かない高遠が何回も転び掛け、そのたびに俺は手を伸ばして支えるの忙しくて
風情ふぜいを楽しむどころではなかった。

　結局、その晩、娘たちと一緒にクリスマスケーキを楽しむことは叶わなず、お
まけに翌日、ホワイトクリスマスの日に病院中を人探しに駈けずり回ることにな
るとは思いもよらなかった。
　
　
　
　
　
　
　
　
　

　
　　

　２　藤峰の失踪

　翌二十五日の朝、大都会の交通網は大混乱だった。前日から大雪を降らせた低
気圧はさっさと東に抜けて空は思い切り澄みわたり、冷たい西風と一面の銀世界
を置き土産にして去っていった。街中が雪に埋もれ、近代的なはずの交通機関は
軒並ダウンしている。もちろん横浜だけではない。テレビのニュースはしつこく
東京の状況を流して続けていた。
　ここまでの大雪ならこれは居直るしかない。俺は午前中くらいは寝ていられる
と期待していたのに、横浜の地下鉄はほかの交通機関に先駆けて真っ先に動き出
し、朝の早いうちに出勤可能となってしまった。こんな機会は滅多にないのだか
らそんなに頑張らなくてもいいものを。
　出勤可能になったといっても自宅から最寄り駅までの道は雪に埋もれ、寒さで
凍りついて危険極まりなかったし、地下鉄を降りた後も一苦労だった。いつも通
る商店街裏の路地は到底歩くことができず、商店街を辿ってようやく一時間以上

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第二話　ホワイトクリスマス

遅れて病院にたどり着いた。
　病理部に向かう間、全館放送が診察の遅れを繰り返し伝え、陳謝していた。こ
の様子では医者や職員だけでなく予約していた患者も病院にたどり着けないのだ
から、そんなに謝らなくても何とかやりくりして対応できるだろう。どうせ世の
中、会社も役所も商店も街はみんな同じように雪に埋もれているのだ。
　こういうとき病理の仕事はありがたい。別に患者を待たせているわけではない
から、病理診断の報告が遅れても大して問題はない。なにしろマッペに並べられ
た顕微鏡標本は決して俺に向って文句を言ってこない。その代わり病理部の忙し
さはいつもと変わらない。検鏡しなくてはならない標本は病院がまったく通常に
稼動していた三日前に提出されたものだから。
　病理部にたどり着いていつものようにカンファランス室に顔を出した。当番の
技師も出勤が遅れているだろうから自分でコーヒーを淹れようとしたのだ。とこ
ろが大きな机の上には既にいつものようにコーヒーが用意されている。気配を察
知して大友さんが事務コーナーから顔を出し、俺を見ると意外そうな顔をした。
「あら、神城先生、早いのね。地下鉄は動いているみたいだけど、こういうとき
は無理しないでいいのよ。コーヒーは淹れておいたわ」

　
　　
　俺なんかよりは大友さんこそ無理をする必要はないのに、まさしくこういうと
きこそ張り切るらしい。
「大友さんも地下鉄通勤か。夕べの地下鉄にはひどい目にあったけど、今朝は頑
張っていたな。こんなに早く動き出すなんて迷惑な話だ」
　そこへ明るい顔でうきうきとした高遠が現れた。
「大友さん、神城先生、お早うございます。凄い雪ですね。ホワイトクリスマス
なんて初めてです。横浜でこんなに雪が積もるなんて思ってもみませんでした。
わくわくしちゃいます」
　大友さんがじろりと高遠を見た。
「高遠さん、そんな子供じみたのは駄目よ。滑って転んだり、酷い怪我している
いる人もいるんだから」

　大友さんにたしなめられても高遠は首をすくめるばかりだ。
「だって、大友さん、今朝は街中が真っ白できれいですし、昨日の晩は神城先生
に家まで送っていって貰ったんです。二人で真新しい雪の中を素敵な話をしなが
ら歩いて帰りました。雪の街は街灯にきらきらしとてもロマンチックでしたよ」

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第二話　ホワイトクリスマス

　なんてことを言うんだ。一緒に雪の中を歩いて高遠の家まで送って行ったのは
本当だが、そういう羽目になったのは大雪に見舞われた地下鉄が途中で立往生し
てしまったからだ。しかも駅から高遠の家までの道のりはとてもロマンチックと
言えるような状況ではではなかったぞ。どこをどう弄いじくるとそういう話にデフォ
ルメされるんだ。それなら俺も少し話を脚色しよう。
「送っていったのはその通りだが理由が違うよ。高遠をひとりで帰すと途中で遭
難しそうだったからだ。横浜の街中まちなかで雪に埋もれて若い女が遭難なんて、病理部
の不名誉だからな」
「先生、ひどい。スノーブーツに暖かいコートでしたから、あんなところで遭難
なんかしません」
　俺に向かってむきになる高遠に、ようやく集まり始めていた技師や医師から笑
い声が上がった。

　笑いが収まったところで大友さんが高遠からおしゃべりの主導権を奪い返しに
かかった。
「私も遅れたけれど、ＪＲと京浜急行組みはひどいようね。技師さんたちは軒並

　
　　
み遅刻だわね。副院長からはさっき午前中は無理だろうって電話があったわ」
　病理部長兼副院長の仲西は東京住まいなのだ。
「それに今日は院長が出張でいないから、一日中、院長代理をするのよ。午後は
それで市議会に行かなくてはならないから、せっかく顔を出してもすぐに出かけ
ることになるわねえ」
　と、大友さんは付け加えた。
　言いあっているうち武村係長が出勤してきた。係長もＪＲのはずだが職責上、
無理をしたに違いない。医師も技師もまだ何人か出勤していないようだが、頃あ
いをみはからって係長がそろそろ仕事にしましょうと言って席を立ち、技師たち
も持ち場に戻っていった。俺も自分の分の顕微鏡標本を持って小部屋に戻ること
にした。


　昼前に俺の小部屋の入り口にすたすたと足音がして誰かが入ってきた。足音は
聞きなれたものなのに様子がいつもと違う。戸惑っているうちにやはり高遠が現
われ、前振りなしにいきなり話し出した。

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第二話　ホワイトクリスマス

「先生、臨床検査部の藤峰ふじみねさん、どこにいるか知りませんか？　生理検査の係長
が私に知らないかって電話で訊いてきました。少し前から検査部で見た人がいな
いんだそうです」
「藤峰？　ああ、高遠の先輩か。朝からいないんじゃ、この天気だ、病院に来て
いないんじゃないのか」
「朝はちゃんといたって聞きました」
「俺は朝からこの部屋にずっといるんだ。よその部の技師の居所なんか知らない
な。ましてや噂の美人なんか俺にはトンと縁がない」
　そう答えると、そうですかと素直に俺の部屋を出てい行こうとする。部屋に現
われたときと同じであまりに率直すぎる。
「まてまて、それならまずは病院中に蜘蛛くもの巣を張りめぐらしているヌシの大友
さんに訊いてみよう」
　とたんに高遠が足を止めて振り返った。
「よかった。先生なら一緒に探してくれると思いました。でも大友さんが何で蜘
蛛の巣のヌシなんですか」
　俺は教えてやった。

　
　　
「知らないか、蜘蛛は巣の中央に待ち構えていて、糸を伝わって来る振動で巣に
獲物が捉えられたと知ると、飛びかかってむさぼり食うんだよ」
「ああ先生、酷い。大友さんがかわいそうです」
　高遠はあわてて笑いかけた口元を隠している。

　大友さんが取り仕切っている事務コーナーに二人で足を運んだ。高遠が藤峰を
探していると伝えると、蜘蛛の巣と病理部のヌシを兼ねる大友さんが待ってまし
たとばかり話し始めた。
「私もついさっき、その話を聞いたわ。臨床検査部の鈴木さんが私に訊いてきた
のよ。藤峰さんを見かけなかったかって。知っているでしょ、新しく来た秘書の
人。あの人いろいろと私に頼ってくるのよ。検査部の人があまり教えてくれない
って言って。彼女ってどこかのいい女子大を出て、ほとんど仕事の経験がないま
ま結婚して子供もできて、それからずっと専業主婦だったらしいわ」
　何かを言うとき、ついでにそれ以外のことを一緒に話したがるのは大友さんの
素敵な悪い癖だ。いろいろと病院の裏情報が入ってくるのはありがたいが、今は
さっさと肝心な事を話して欲しい。一緒に来た高遠も焦じれている。

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第二話　ホワイトクリスマス

「それで、大友さん、藤峰がどこにいるか知っているの？」
　俺の催促に大友さんがじろりと見返してきた。
「そんなに急かさないで。しばらく前から藤峰さんが困っているっていう噂があ
るわ。若いドクターに二股かけているうちにどちらも抜き差しならぬ状態になっ
て困っているという話よ。何か関係あるんじゃないの」
「藤峰さんはそんな人じゃないです」
　隣にいた高遠が大友さんの藤峰評に言い返した。
「はじめ少し付き合った人と性格が合わなくて直ぐに別れたというのは耳にした
ことがありますけど、二股なんか掛ける人じゃないです」
　病院中から集めた情報を集めるのが趣味なのは分かるが、大友さんももう少し
空気を呼んで欲しいものだ。いやこれは空気を読めないのではなくて、読んでい
るくせに俺達が焦れているのを楽しんでいるのだ。
　何とか肝心なことを話してくれと俺と高遠がヌシに迫っているところに、武村
係長が事務コーナーに現れた。
「良かった、情報通の三人がいるわ。誰か藤峰さんの居場所知らない？　少し前
からいないらしいのよ」

　
　　
　つい今しがた臨床検査部の腰野こしの課長代理から電話があったというのだが、これ
はいったいどういうことだ。高遠、大友さん、それに武村係長と別々に藤峰の行
方を訊いてくるとは、臨床検査部はまったく統率が取れていない。
「今、高遠さんと私にも同じように藤峰さんを知らないかって訊いてきたわ。で
も私は知らないわよ。少なくとも朝からこれまで病理部に顔を出したことはない
わよ」
　真っ先に大友さんが答えた。そんな簡単に答えられるなら、俺たちにもさっさ
とそう答えて欲しかった。
　高遠と俺も知らないと伝えると、係長はそれならしょうがないわ、と突き放し
たような様子だ。どうやら武村係長と腰野課長代理の間にはなにか微妙なものが
あるらしい。
「藤峰さん、朝は本当にいたのか」
　俺が確認してみると朝はいたと言う。
「私が朝、出勤簿に判子押したときには藤峰さんの判子もちゃんと押してありま
した」
「顔をちゃんと見ているのか？　顔を見ていないんだったら、判子だけ押して逃

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第二話　ホワイトクリスマス

げちゃったんじゃないか」
　俺がうっかり口にすると係長も高遠も怖い顔をして俺を睨んできた。
「ドクターじゃあるまいし、そんなことはしません」
　いやいや、これはまずい。技師の矜持きょうじにかかわることらしい。
　幸いにそれ以上追及されることもなく、皆の意識はまた藤峰の失踪に戻った。
高遠が心配で顔を曇らせている。
「藤峰さんに何かあったんじゃないですか、心配です。探しましょう」
　この夏まで親切に指導してくれた先輩を気遣う高遠を、大友さんが溜息混じり
に戒いさめた。
「高遠さん、そういうのは筋を通さなくては駄目なのよ。探すんだったら臨床検
査部の芦田あしだ部長に許可を取った方がいいわ。そうしておかないと後でいろいろと
苦情を言われて煩うるさいわ」
　戒められても高遠は納得できない様子だ。
「でも、芦田先生って藤峰さんにとても冷たかったです。ちゃんと探さない気が
します」
　今度は武村係長が溜息をついた。臨床検査部には俺の知らない問題がいろいろ

　
　　
あるようだ。俺の疑念を察して大友さんがわざわざ忠告してくれた。
「神城先生ね、臨床検査部には気をつけたほうがいいわ。もともと臨床検査部と
病理部が一緒で中央検査部と言っていた時代には、仲西先生が中央検査部長を務
めていたから問題なかったのよ。臨床検査部と病理部が別れて芦田先生が臨床検
査部の部長になってからいろいろあるのよ。それに藤峰さんのことなら余計に気
をつけたほうがいいわ」
　何が問題なのかは触れないし、なんで藤峰が特別なのかも言わず、なんとも歯
切れが悪い。武村係長もそのことは分かっているようだ。まあいい、おいおい分
かって来るだろう。
　芦田部長の了解が必要だという話が持ち上がったところで、皆んなが白けてし
まった。そのまま係長が仕事に戻りましょうと言って解散となった。
　解散になっても高遠だけは俺の部屋に居残り、口元を引き締めてなにか考えて
いる。ふむ、これはこのあと何かをやりだす気だ。いいだろう、好きにするさ。
何か訊き出して来てくれれば藤峰探しだけでなく、臨床検査部を知る手助けにな
るだろう。

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第二話　ホワイトクリスマス

　大雪で交通網が混乱しているにもかかわらず昼までには病理部の職員は全員が
揃い、カンファランス室でいつものように昼食を摂とっている真っ最中に病院内に
緊急放送が入った。臨床検査部でシステムのトラブルがあり、検査データが電子
カルテに送れないという。急ぎの場合は電話で対応する由の説明が流れ、食事に
集まっていた技師や医師がそれを聞いてざわついる。ここのところ臨床検査部の
システムが不調のようで、そういえば一週間ほど前にも同じことがあった。
「ああ、それで腰野さん、さっきつっけんどんだったのね。大雪の上にシステム
トラブルじゃしょうがないわね」
　係長が病理部に藤峰はいないと連絡をしたとき、課長代理の対応がいかにもぞ
んざいだったらしい。
　集まっていた病理の技師がてんでに臨床検査部ではシステムもちゃんと動かな
いのか、駄目だなあ、と口にしているが深刻さはない。なにしろよその部門での
ことだ。それにしても何か様子が変だと思ったら、集まっている中に高遠がいな
い。やはりそうか。高遠は失踪した藤峰を探し始めたのだ。

　一時近くなり、技師や病理医がカンファランス室から持ち場に戻り始めた頃、

　
　　
高遠が眉を寄せ険けわしい顔をして現れた。ぶすっとして不機嫌な顔つきのまま席に
着き、弁当の入っている小さな手提げ袋を机の上に置いた。立ち上がりかけてい
た係長が声をかけた。
「高ちゃん、どうしたの、怖い顔して」
　声をかけられて高遠が一気に不満を吐き出した。
「臨床検査部はあんまりです。何も追い出すことはないと思います」
　係長が苦笑しながら高遠を宥なだめにかかった。
「あんまりのめりこまないで、大丈夫よ。それに神城先生に手伝って貰うといい
わ。結構、藤峰さんに興味があるみたいですし」
　武村さんは俺を振り向いてにこやかな顔を見せてよろしくと言い、仕事に戻っ
ていった。
　やれやれ結局こうなるのか。念のため言っておくと、美人の藤峰に特別な興味
があるわけではない。高遠の子守役というのがこの秋以来の俺の宿命なのだ。
　高遠は眉をよせたまま箸を使っている。
「おおい、高遠紀和子、そんな顔していると、せっかっく作ってもらった弁当が
まずくなるぞ」

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第二話　ホワイトクリスマス

　高遠がむっとした顔を俺に向けた。
「このお弁当は自分で作ったんです。今日は私の当番なんです」
　へえ、これは意外だ。
「うちでは母と私が代わりばんこに二人分のお弁当を作ることになっているんで
す。覗き込まないでください」
　俺は別に人様の弁当を覗く趣味はないが、目の前に広げてある弁当を見るなと
いうのが無理というものだ。それにしても高遠は随分と不機嫌だ。
「臨床検査部で冷たくあしらわれて、それで不機嫌なのか」
「不機嫌じゃありません。これが私の地です」
　俺は噴き出してしまった。なんという臍まがりの言い草だ。釣られて高遠も笑
い出した。
「もう、神城先生は。せっかく不機嫌モードに浸っていたのに」
不機嫌モードだと？　何だ、それは。
「酷いんですよ、神城先生。藤峰さんのことをもっと教えてもらおうと思って生
理検査の津山係長のところに行ったんです。でも彼女、カリカリしていて相手に
なってくれないんです。係長って今朝は電話で私に藤峰さんのことを訊いてきた

　
　　
のにあれはあんまりです」
　どうやら、不機嫌モードは終わったようだ。
「それで何も聞けなかったのか」
「佳子けいこちゃんやほかの人からやっと訊き出しました」
　高遠が口にした佳子ちゃんというのは同期の親友という小平佳子のことだ。今
は臨床検査部で検体検査を担当している。
「藤峰さん、朝は九時半ごろには何とか出勤してきていて、ベテランの深山ふかやまさん
と一緒に心電図の検査を担当したんです。彼女は朝から熱があって体調が悪かっ
たみたいです」
「それじゃ、朝は頑張って仕事をしていたじゃないか。いったい、いつからいな
くなったんだ」
「そのあとです。病院に来なかった患者さんがいたので深山さんが藤峰さんを休
ませていたら、暇してるなら手伝うようにって課長代理に言われたんです。それ
で藤峰さん、出勤できていない人の代わりに検体検査の仕事をしたんです」
　高遠はしばらく弁当に集中し、また話を続けた。
「仕事をしている最中に気分が悪くなって、藤峰さんは一度、トイレに行ってい

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第二話　ホワイトクリスマス

ます。体調の悪いまま何とか仕事をしていたんですけれど、あまりに調子が悪そ
うなので、嶋村しまむら係長が藤峰さんに薦めたんです。具合が悪いならどこか臨床検査
部から離れたところで休むか、半休を取って帰宅したほうがいいって。藤峰さん
は少し休めば大丈夫だって答えたんですけれど、その後から彼女を見た人がいな
いんです」
「課長代理は越野さんか。随分と藤峰に冷たいな」
「越野さんは芦田部長の影武者です。私がいろいろ訊いていたら、わざわざ私の
ところに来て、混乱しているときに邪魔しないでって言われました。私は追い出
されました」
　そう言えば、臨床検査科の課長代理は芦田部長のお気に入りだと、大友さんが
言っているのを聞いたことがある。どうも『女の敵は女』という警句を地でいっ
ているようだ。　
「それであの顔だったのか。でもおかげで大分様子が分かってきたな。それなら
藤峰さんはどこかで休みを取って寝ているんじゃないか。病院に昼間に休めると
ころはないのか」
　高遠はようやく弁当を片付けてお茶を飲み始め、一息入れたところで溜息をつ

　
　　
いた。
「以前は和室があって、そこでお茶とか生け花教室を開いていたらしいですが、
病院が新しくなってからそういう余裕は何もなくなったって大友さんが嘆いてい
ました。そこが休憩室にもなっていたんです」
「それならどこか都合のいいところを見つけて眠りこけているだけかもしれない
な。いなくなってからまだ、二、三時間だろう。思いついたところがあったら探
しておきたいが、取りあえず切り出しをしよう。今日は高遠の当番だから、手早
く終えて時間を作ろう」
「ああ、そうでした。それで聞き込みを切り上げて戻ってきたんです」

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第二話　ホワイトクリスマス

　３　臨床検査部長

　手術材料の切り出しをしている脇で、介助に入っている高遠がひっきりなしに
しゃべっている。
　臨床各科から病理に提出される組織検体のうち、生検材料みたいな小物は技師
が処理して顕微鏡標本にしてくれるが、癌の手術検体のように大きな材料は病理
医が必要な部分を切り出しをする。それを生検材料と同じように顕微鏡標本にす
ることになっている。その切り出しの際に技師が一人手伝ってくれるのだ。
　俺を手伝う高遠は今度は吐き出しモードに切り替わり、カセットに病理の番号
を書きながら藤峰の身の上を教えてくれた。
「藤峰さんも結構大変なんですよ。お父さんは、仕事人間でほとんど家にいなく
て、お母さんは小さいときから勉強しろってうるさかったらしいです。何とか私
立の中学校に進学したら勉強についていけなくて、藤峰さんは自分で落ちこぼれ
だったと言っていました。あっ、先生違います。そっちじゃなくて、こっちの番

　
　　
号に入れてください」
　こんなにひっきりなしにしゃべりながら、よく俺の手元をちゃんと見ているも
のだ。俺は高遠の話に相槌を打つ余裕だってろくろくない有様なのに。
「しかも、彼女の弟さんが優秀で名門の私立中学校に進学して、おかあさんの気
持ちがすっかり弟さんのほうに行ってしまい、彼女は凄く疎外された気分になっ
たって言ってました。普通の成績なら高校へは自動的に進学できるのに、彼女は
結構危なかったんですよ。高校生のとき、彼女はすっかりワルになっていたみた
いです」
「それにしちゃ、彼女、ずいぶん地味な仕事に就いているじゃないか。更生した
のか」
　俺は手を止めて高遠を振り返り、訊いてみた。
「ああ、先生、手を休めないでください。早く終えて藤峰さんを探さなくちゃな
らないんですから。それで藤峰さん、高校三年生まで遊んでばかりいたらしいん
ですが、さすがに大学進学の時に考えたんです。母親にはすっかり愛想をつかさ
れてしまっていたので、見返してやろうって考えて、病院勤めをしてお医者さん
と結婚することに決めたんだって言っていました。それで臨床検査技師を養成す

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第二話　ホワイトクリスマス

る課程のある大学に進学したんです」
「ずいぶん不純な動機だな」
　俺は高遠に急かされ、おまけに興味深い話に耳を傾けながら切り出しを続けて
いた。なんだか変だなと手を止めると高遠の声が降ってきた。
「駄目ですよ、先生。その検体は進行癌じゃないんですから、そんな簡単な切り
だしじゃ」
　そうだった。進行癌は癌の範囲は分かりやすいから標本は少なくていいが、早
期癌は範囲を確認するため沢山の標本を作るんだった。俺は溜息をついた。
「高遠、何でそんなに喋りながら切り出しの介助ができるんだ。俺は話を聞いて
いるだけで頭が一杯だ」
　俺は高遠をつくづくと眺めた。
「え、何ですか？　そんなに顔を見ないでください」
「顔じゃないよ、頭を見ていたんだ。頭が二つあるんじゃないかと思ったけれど
一つしかないから、高遠、脳味噌が二つあるんじゃないか」
「ああ、ひどい。そんなことないです。脳味噌が二つもあったら化け物じゃない
ですか。パソコンのマルチタスクシステムみたいに仕事を同時にこなせる回路が

　
　　
あるだけです」
「人間の思考回路は普通一つだぞ。やっぱり化け物じゃないか。背中に眼もつい
ているみたいだし」
「そんな、ひどいです。先生の頭の中のコアが古いんです」
　俺のコアが古い？　いやそうかもしれない。以前はパソコンの中枢を担うのは
ＣＰＵと言っていたが、今ではコアと言うようになっている。コアという言葉に
違和感を覚えるようでは確かに古いのだろう。
　仕方なく足りない部分の切りだしを追加して、その作業をようやく終えること
ができた。まあ、無駄な仕事を増やしたわけではないから、技師の不興を買うこ
ともなかろう。
　高遠に急かされたおかげで、その日の切り出しはいつもより大分早く終えるこ
とができた。
「それじゃ、残っている標本を見終わったら藤峰の居そうなところを一緒に捜そ
う。それまではその素晴らしい頭脳を使って調べておいてくれ」
「分かりました。ここを片付けたら早速調べます。でも」
　と、高遠が切り出し室を出ようとしている俺に余計なことを言ってきた。

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第二話　ホワイトクリスマス

「先生、そんな露骨なほめ方しても駄目です。ほめてくれるほど私の頭はよくな
いです」
「思考回路が二つあるんだろう。その分速く考えられるだろう」
「二つあったって、スピードが半分になるんです」
　半分であのスピードか。それにしてもまったく、口の減らない奴だ。

　三時過ぎには検鏡作業に区切りがついた。高遠はどうしているかと思ったとこ
ろに、本人が俺の小部屋に現れた。今度も前振りなしにいきなり話し始めた。
「先生、やっぱり藤峰さんは見つかりません。私は切り出しが済んだ後に臨床検
査部の当直室と倉庫、五階の女子トイレ、医局の談話室を調べましたが、どこに
も居ませんでした。藤峰さん、臨床検査部の中にはいないんだと思います」
「よく調べられたな。さっき、追い出されたんじゃないのか」
「これでも一年以上、検査部を回っていましたから。それにいまはシステムトラ
ブルで臨床からの問い合わせが殺到していて、課長代理も私を構う余裕がなかっ
たみたいです」
「彼女、家に帰っているんじゃないだろうな」

　
　　
「藤峰さんの家にはさっき、電話しましたが誰も出なかったです。それから携帯
電話は、電波が届かないかスイッチが切ってあるという案内でした」

　俺の見通しはどうも甘かったようだ。藤峰が普通に休息しているだけなら高遠
の捜したところで見つかっていいだろう。そこにいないというなら、嶋村係長に
言われたとおりにどこか臨床検査部から離れたところに行って、そこで休んでい
る可能性が高い。
「これはちゃんと捜した方がいいな。いなくなってからもう、五、六時間は経っ
ている。体調が悪くて休んでいるにしては長すぎるだろう」
「それなら探しに行きましょう。早いほうがいいです」
　高遠が俺を急かしてきた。
「待て待て、その前にやることがある」
　俺が院内ＰＨＳを取り出して臨床検査部の部長秘書に電話をかけると、高遠が
不審の眼を向けてきた。
「先生、芦田先生は今日の午後、外勤で病院にいない日ですから自分では藤峰さ
んを探せないです。わざわざ電話はいらないんじゃないですか」

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第二話　ホワイトクリスマス

「高遠の言う通りだよ。だけどここは大友さんが言うように取り敢えず形だけで
も筋を通しておこう」
　高遠は相変わらず眉根を寄せてわざとらしく俺に不満な顔を見せている。そん
な顔をするな、俺だって少し考えがあるのだ。
　部長秘書は大友さんのいうとおりで不慣れな様子だったが、それでもようやく
芦田の外勤先の電話番号を見つけ出して教えてくれた。電話をかけるとしばらく
待たされてから不機嫌な芦田の声が聞こえて来た。
『ああ、神城先生か。何か用？　こっちは忙しいんだ。午後になって患者が押し
寄せているんでね』
「芦田先生、先生のところの藤峰さんが午前中から行方不明なのを知っているか
な。朝から体調が悪かったらしいんだ。検査部はシステムトラブルがあって余裕
がないようだから、さっき副院長が私に捜してくれるように頼んでいったんだ。
いなくなってもうかなりの時間が経っているからら本格的に捜そうとしていると
ころだ」
『藤峰だって？　知らないよ、そんなこと。藤峰ってさ、以前から時々いなくな
るって言われていたよ、若い研修医とちゃらちゃらしてさ。今度もそうじゃない

　
　　
の。黙っていなくなったんなら病院にとってはいい機会じゃない』
　まったく体調の悪い自分の部署の職員をそこまで悪し様に言うか？　腹が立っ
たがとにかく今は堪こらえることにした。
「芦田先生、まあ、先生が外勤に行けるくらいですから、システムトラブルも大
した問題じゃないと思いますけど、とにかく藤峰さんはこっちで探します。それ
でいいですね」
　『ああ、いいよ好きにして。私だってそっちにいたいんだけど、こっちの病院
をすっぽかすわけにもいかないんだよ。検査部の技師は使わないでよ、この大雪
で人手が足りないところにシステムのトラブルなんだから。申し訳ないけどこっ
ちの病院が済んだらその足で研究会に行くから、今日は病院に戻れないよ』

　電話を切って高遠を振り返ると驚いた顔をしている。
「先生、すごい。そんな嫌味入りの電話を出来るんですね」
　まったく高遠、俺だって伊達だてに歳を食っているわけではないのだ。嫌味入りの
話くらい出来るさ。少しは敬意を払ってくれ。
「それより先生、仲西部長はもう市議会に出かけていると思います。本当に連絡

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第二話　ホワイトクリスマス

を取って、藤峰さんを探すように言われたんですか？」
　俺はにやりとした。
「いまや藤峰失踪は緊急事態だから、市議会に出かけている仲西部長を捕まえて
いる余裕はないよ。芦田に電話をしたのはどんなことを言うか知っておきたかっ
たんだ。それにあまり使いたくない手だけれど、あのくらい言わないと探してい
いと言わないかもしれないからな」
　高遠がますます眼を丸くした。高遠の顔を見ているのは面白いが、それより電
話の芦田の態度がずいぶんと変だ。
「芦田は藤峰に冷たいどころか、いい機会だとばかりに藤峰を追い出したいよう
な言い方だったぞ。何かあるのか」
　高遠は一年半の間、臨床検査部を回っていたのだし、最後は藤峰と同じ生理検
査で仕事をしていたのだから、何か知っているだろう。
「私が生理検査にいた頃から部長が藤峰さんに冷たかったのは知っています。芦
田部長と何かあったらしいことはわかりますけど、具体的には知りません。検査
部ではだれもそれに触れたがらないんです。生理検査に行く前までは何も知りま
せんでした」

　
　　
　臨床検査部ではその話はタブーということなのか。大友さんも藤峰のことには
気をつけろと言っていた。あれは芦田と藤峰の関係に気をつけろということだっ
たのか。
「まあいいよ。とにかく藤峰を探すのが先だ。まず、藤峰が病院にいるのは確か
なのか？　なにかの理由で外出していることはないか」
「技師が仕事中に黙って出かけることはないと思います。確認するのでしたらロ
ッカーを調べましょう。白衣のままでは病院から出られないですし、この雪では
朝、着てきたコートや靴が残っているか調べればすぐにわかります」
　なるほど、これはいい思いつきだ。
「よし、それなら高遠、事務に行って鍵を借りてきてくれ。藤峰のロッカーを調
べよう」
　言い終わらないうちに高遠は俺の小部屋を飛び出していった。やる気満々なの
はいいが、いくら気が急せいているにしても一つ忘れていることあるだろう。
　しょうがない、高遠の代わりに武村さんに断りを入れておこう。技師検鏡室に
向かうと、途中の包埋室で作業をしている係長を見つけた。部屋に入っていくと
苦笑しながら出迎えてくれた。

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第二話　ホワイトクリスマス

「高ちゃん、凄い勢いで出て行きましたけど藤峰さんを探しているんですか。大
丈夫です。彼女の今日の仕事は組織班で午後は包埋をする予定でしたけど、ご覧
のとおり、私が一人でやっています」
　高遠め、このところ少しは落ち着いてきたかと思っていたのに夢中になると他
の事に気が回らなくなるのは相変わらずだ。
「今日の午後、高遠を使わせてもらうよ。今、藤峰さんのコートと靴が残ってい
るか調べようと、ロッカーの合鍵を借りに行ったところだ」
「彼女じゃ駄目ですね。事務は私物の入っているロッカーをそんな簡単に見させ
てくれません。たぶん追い帰されてきます」
　係長はいとも簡単に結論を下したが、それにしては高遠はなかなか戻ってこな
い。
　自分の部屋に戻って待とうかと思ったちょうどそのとき、高遠がパタパタと小
走りで帰ってきた。包埋室を通り過ぎかけて俺と係長に気がつくと、足を止めて
不満顔のまま部屋に入ってきた。
「神城先生、あ、それに係長。ロッカーの鍵は借りられませんでした。係長は私
物の入っているロッカーを簡単に調べるわけにはいかないって言うんです。藤峰

　
　　
さんが行方不明だといっても、神城先生の名前を出してもやはり駄目でした」
　武村さんが可笑しそうにしている。なるほど、これが病院勤続二十二年の実力
なのか。
「いまちょうどその話をしていたところだわ。神城先生に一緒に行って貰いなさ
い。副院長の名前を出さないと無理かもね」

　高遠を伴って総務課に出向くとカウンターの向こうで係長が首を振っている。
「無理ですよ、神城先生。私物検査なんて到底できないです」
　私物検査なんかではない。ロッカーの扉を開けるだけで済むことだ。それなら
仕方ない、やりたくない手をもう一度使うことにした。
「係長、緊急事態なんだ。体調を崩した検査部の技師が少し休むと言ったきり行
方不明だ。仲西副院長からは必要なことは何でもやって捜すようにと言われてい
る。警察沙汰になる前に見つけ出せってね」
　藤峰の体調が悪いこと強調して、副院長の名前と俺がアドリブで付け加えた警
察沙汰の仄めかしは効果があった。係長は自分じゃ判断できないと言って課長を
呼んだ。

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第二話　ホワイトクリスマス

　奥の机から現れた課長は係長の話を聞いて少し考え込み、俺と副院長に責任を
押し付けてきた。
「それじゃ先生、何かあったら神城先生と副院長で責任とって下さいね」
　そう念を押して女子更衣室のロッカーの合鍵を手にしたが、渡してくれる前に
総務課の女性をひとり呼んだ。課長はその女性に俺と高遠の監視役をするように
指示し、やっと鍵を高遠に渡してくれた。やれやれと事務室を出ようとしたとこ
ろで課長に呼び止められた。
「神城先生、その行方不明の藤峰は臨床検査部の技師なんでしょう。それでした
ら、その事案は臨床検査部から技師を管轄している総務に連絡があがってくるの
が筋だけど、課長代理からは何も連絡がないですよ。どうして病理の先生が探し
ているんですか」
　合鍵を渡してくれたときに納得したものと思ったが、事務屋の本能が頭をもた
げてきたようだ。俺はじりじりしながら検査部のトラブルとさっきの話を繰り返
した。それでもまだ納得しないようだ。
「それに神城先生、その技師は無断職場放棄ですね」
　引っかかるのはそちらか。職員がひとり体調を崩して病院内で行方不明になっ

　
　　
ているんだぞ。俺の表情に気づいて高遠が白衣の袖を引っ張って囁いてきた。
「先生、駄目ですよ。とにかく探しましょう」
　高遠の囁きが聞こえたのか俺達が事務室を出ようとすると、課長が態度を和ら
げて譲歩してきた。
「神城先生、先生が心配なのは分かります。言うとおりなら警察なんかを入れる
前に自力で探せるだけ探さなくてはなりません。仲西副院長の指示があれば総務
もすぐに動けるようにしておきます。場合によったら今晩は事務が総出で彼女を
探す準備をしますから」

　何とか合鍵を借り出したから俺たち三人は、早速エレベーターで地下に降りて
女子更衣室に向かった。エレベーターのなかで高遠が俺を諌いさめてきた。
「先生、先生は喧嘩がはや過ぎます。総務課長は悪い人じゃないです。先生みた
いに気になる事があると、何も考えず真っ先に口にするなんて野蛮なトレーニン
グはされていないだけです。それより藤峰さんを探しましょう」
　俺は振り返って高遠をまじまじと見てしまった。こんな大人びた口を利くとは
思わなかった。野蛮だというのは余計だが。一緒に付いて来ているお目付け役の

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第二話　ホワイトクリスマス

女性もくすくす笑っている。
　本館のエレベーターを降りたあと一階分だけ階段を降り、三人は折れ曲がった
廊下を辿って救急棟の地下にあるロッカールームに辿り着いた。
　高遠がテンキーの番号を打ち込んでロッカールームに入り、続いて俺も入ろう
とすると高遠が振り返った。怖い顔をしている。
「先生、先生は駄目です。ここは女子ロッカー室です。私たち二人で調べます。
待っていてください」
　言われるとおりだが、それならそうと降りてくる前に言って欲しかった。仕方
なく、俺は女子更衣室の外の廊下でぶらぶらしていたが二人はなかなか戻ってこ
ない。病院で働く職員は看護師も検査技師も圧倒的に女性が多いから、女子更衣
室が広いのは当然としても時間がかかりすぎているな、と思い始めたとき、よう
やく二人が更衣室から出てきた。

「藤峰さんは病院にいます。彼女のロッカーには上着とコート、それに雨靴も皆
んな残っていました」


　
　　


　４　捜　索

　総務課長は副院長の指示があればを捜索に参加すると言っていたから、病理部
に戻るとまずは副院長と連絡を取ることにした。部長は既に横浜市議会に出かけ
ているというので携帯に電話をかけてみたが連絡がつかない。スイッチが切られ
ているか電波が届かないというつれない案内が出るばかりだった。
　それなら大友さんに連絡方法を教えてもらおうと思って、俺は事務コーナーに
足を運んだ。
「大友さん、仲西先生と連絡を取りたいんだ。市議会の連絡先を教えてくれ」
　ところが病理部長兼副院長を尊敬してやまない大友さんは、大事な市議会へ出
ているんだから邪魔しちゃいけないと言う。
「市議会の委員会は流れそうだって言っていたけど、きっと誰かえらい議員さん
と話しているのよ。議会に出かけたときはできるだけ余計な連絡はしないルール
にしているの」

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第二話　ホワイトクリスマス

　大友さんも厄介なルールを作ったものだ。藤峰捜索のために副院長からの指示
が必要だと俺は食い下がった。それでも散々抵抗したあと、ようやく大友さんが
市議会の事務局に連絡を取ってくれたが、副院長はつい今しがた市庁舎を出てし
まったという。
「もう向こうを出たって言っているわ。携帯電話に繋がらないんじゃ、連絡のし
ようがないわね」
　俺がじろりと睨んでも大友さんはどこ吹く風、と素知らぬ振りをしている。こ
れでは病理部長が病院に戻るまでは俺と高遠とで探すより手がなくなった。やむ
なく連絡がつき次第、仲西部長に藤峰失踪のことを伝えるように頼んでカンファ
ランス室に戻った。
　高遠が早速、首尾を聞いてきた。
「仲西先生の了解は貰えましたか？」
「いや、駄目だった。というより連絡がつかないんだ。ちょうど市庁舎からこち
らに移動中らしくて、携帯電話の電源を切ったままらしい」
「ああ、もうこういうときに限ってそうなんですね」
　まったくその通りだ。俺も同じで、しばしば奥さんに叱られている。


　　
「それなら藤峰さんの気分になってどこで休むか考えて見ましょう。副院長が戻
るまで私たちで探すよりないです」
　そう言ってメモを一枚、俺によこした。それには二人で探せそうな一階のメデ
ィカルモール、待合室、採血室、次の段落には四階の生理検査部門、第三段落に
は五階の臨床検査部と倉庫、図書室、六階の売店と食堂が書き出してある。最後
には各階の女子トイレと追加してあった。
「トイレなんてそんなところで、眠りこけていられるのか？」　
「個室は泣くのに都合のいいところですから、寝ることだってできるはずです。
でもこの五階のはさっき調べました。食堂なら端っこの方で休んでいる人は時々
います。図書室なんて眠りこけるには一番いい場所です。でもこのうちさっき調
べたところがありますし、採血室はさすがに無理ですね」
　そう言いながら高遠がボールペンでリストのいくつかに線を引いて削除した。
残った中では図書室が一番有力だ。俺も昔から図書館や図書室でしばしば寝てい
たから良く分かる。
　二人で病理部から廊下に出て、突き当たりにある図書室に向かった。もともと
は専任の司書がいたのに何年か前にその人が退職したのを機会に派遣社員の司書

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第二話　ホワイトクリスマス

に切り替えられている。しかも病院の建て替えを機にさらに縮小されてしまった
という。これだけの大病院には悲しいほどの狭い図書室だが、使用頻度が低いの
が縮小する理由にされたのだ。インターネットの発達で、学術雑誌は実物がなく
ても読めるし、そもそも忙しくて図書室で調べ物をする時間など、医者にもコメ
ディカルにもろくろくないのが実情だ。それでも検索用のコンピューター端末が
置いてあり、何台かの閲覧用の机が用意されている。奥には何列かの書架に学術
雑誌のバックナンバーが収容されていた。
　俺たちは一通り図書室を見てまわったが、藤峰はおろか司書以外に人影はなか
った。俺の憮然ぶぜんとした顔つきに高遠が応じた。
「休むのにはいいかもしれませんが、寂しいですよね。少しは新聞とかジャーナ
ルが置いていないとますます足が遠のきます」

　可能性が一番高いと考えていた図書室に藤峰がいない上に、効率一点張りにな
ってしまった侘わびしい風景に俺は憂鬱ゆううつになった。
　効率主義は必ず人を追い詰め、追い詰められた人は思わぬ行動に走る。大友さ
んが言いかけた臨床検査部の問題というのも気にかかる。臨床検査部の部長と課

　
　　
長代理に追い詰められていたのなら、藤峰も思いもよらぬ行動を取っているかも
しれない。それに藤峰を見つけ出しても問題が残ったままになりかねない。
　図書室を出て考えながら歩いていると、足は無意識に病理部に向かっていた。
俺が上の空でいるのに気づいた高遠の叱責の声が降ってきた。
「先生、そっちじゃありません。次は食堂を探すんですから階段です」
　なんだか知らないが今日は高遠によく叱られる日だ。世間ではクリスマスだと
いうけれど、俺の厄日に違いない。
「それに元気を無くすのは早すぎます。まだ、探していないところがたくさんあ
ります」
　と俺を元気付けようとする。癪しゃくだから少し反論してみた。
「たくさんあればいいってものでもないぞ。リストの残りは可能性が低い」
「でも、そうやって探していけば、残る部分の可能性が高まっていきます」
　藤峰捜索でテンションの高くなっている高遠に議論では到底勝てそうもない。
言うとおりだ。
　とにかく可能性のあるところを探すより手はない。それなら次は食堂だ。
　病院には食堂と喫茶部が合計四ヶ所ある。六階には一番大きな食堂があり、同

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第二話　ホワイトクリスマス

じ階のすぐ隣に売店と誰でも利用できるラウンジがある。
　俺と高遠は階段をあがって六階の食堂に行った。この食堂は来客と職員の両方
が使うから、スペースを二つに分けてある。
　午後の中途半端な時間帯ということもあって、数人の職員と医者、それに少数
の客がいるばかりで、それほど広くない食堂に藤峰の姿はなかった。すぐ隣のラ
ウンジは一目で全体が見渡せる。客はこちらのほうが食堂より多いくらいだが、
やはり藤峰の姿はない。
　俺と高遠は二階の喫茶部、正面玄関から入ったところにあるメディカルモール
の一角にあるカフェを順に見ていったが、どちらにも藤峰はいなかった。
　モールから五階に戻るエレベーターの中で、高遠も厳しい表情をしている。楽
観的な状況ではないと悟ったのだ。

　病理のカンファランス室に戻って来ると仲西部長兼副院長が市議会から戻って
きていた。大友さんがいそいそとお茶を入れてサービスに務めながら苦言を呈し
ている。
「先生、議会に出ているんじゃないなら、ちゃんと携帯電話のスイッチをいれて

　
　　
おかなくちゃ駄目じゃない。携帯電話の使い方、いい加減に覚えて下さいな」
　それでも副院長は意に介さない。まあまあ、と言いながら俺と高遠に藤峰捜索
の首尾を尋ねてきた。
　俺と高遠がかわるがわる捜索の状況を伝えた。先ほどの総務課長とのやり取り
を伝えると、お茶を飲みながら耳を傾けていた部長がしばし考え込み、やおら立
ち上がった。
「事務部長と総務課長と相談して善後策を立ててきましょう」
　副院長は出かけたきりすぐには戻って来なかった。戻ってくるのを待つ間、代
わりに大友さんが市庁舎での活躍を伝えてくれた。
「院長代理が市議会の委員会室にいくと、厚生委員会の委員長が既に出て来てい
たらしいわ。とても委員会がひらける状況ではないというので流会になったのだ
けど、委員長や登庁できた委員会の幹部といろいろ話してきたって言うのよ。こ
ういうときのほうが話を良く聞いてくれるって」
　大友さんの長々とした 贔屓自慢ひいきいじまん を聞き流しているところにようやく仲西部長
が戻ってきた。
「病院全体で捜索してくれることになったんですか？」

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第二話　ホワイトクリスマス

　高遠は期待したが、副院長はいやいやと否定した。
「事務部長と総務課長の意見では、今は就業時間中ですから大勢の人を動かすの
は無理だということでした。それですときちんと記録を残さなくてはいけません
から、うまく見つかっても藤峰さんに何らかの責任を取らす必要が出てくるかも
しれないということです。彼女の為にならないだろうってね」
　要するに事務部は事を大きくしたくないのだ。事態が深刻な状況になっている
のに危機感がなさすぎだ。藤峰の身を案じて高遠の顔が曇っている。
「でも、先生、藤峰さんどこかで倒れているかもしれません。佳子ちゃんの話で
はひどい熱だって言ってました」
「心配なのは分かりますが、事務方との協議の結論は通常業務が済んだら人を集
めて探し、見つからなかったら明日、公式に探すということになりました。今晩
中なら何とか命にかかわることもないでしょう」
「神城先生と私だけでは大して探せないです。四階と五階にも隠れられそうなと
ころがいくつもありますし、病棟だったらとても二人だけでは調べ切れません」
「大丈夫です。臨床検査部から何人か、総務部からやはり何人か人を出してもら
います。もちろん病理部からもです。病棟は看護部に調べてもらうことにしまし

　
　　
た。終業時刻が過ぎたら、ここに集まってもらう手はずになっています。それま
では今までどおりに二人にまかせましょう。とにかく少し院長代理の仕事をして
きますよ。六時になったらここに集まってください」
　そう言い置いて仲西部長は副院長室に行ってしまい、大友さんも自分のテリト
リーに戻っていった。

　既に四時半を過ぎていた。これからどうするかと俺は高遠とカンファランス室
で冷めたお茶をすすりながら顔を見合わせた。
「さて困ったな。これで明日になって大掛かりの捜索になったら、場合によった
らそれこそ藤峰さんはこの病院には居られなくなるぞ」
「それはかわいそうです」
　と高遠が眉をひそめている。午後に電話をした時の芦田の様子もそうだし、大
騒ぎになったらこれ幸いと藤峰さんは芦田と越野課長代理に追い出されることに
なりそうだ。
　俺と高遠が考えこんでいると病理部の入り口のほうでしわがれ声が聞こえ、し
ばらくするとペタンペタンとサンダルの足音が響いてきた。高遠が嬉しそうに振

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第二話　ホワイトクリスマス

り向いた。手術着に白衣を引っ掛けた石田だった。今晩は当直で、当直医と看護
師とのミーティングが終わったところだという。
「藤峰さんがいなくなったんだって？」
　例によって簡潔に訊いてくる。高遠が朝からの事情を説明した。
「いや、実はね、病棟の看護師さんから聞きこんだ話があるんだ。神城先生、し
ばらく前に高遠さんが頬っぺたをひっぱたいた宮地っていう若い医者を覚えてい
るでしょう」
「ああ、良く覚えているよ。あれは素晴らしい活劇だったな」
　俺の隣で高遠が口を尖らせた。忘れるわけがない。
「もう、忘れてください。思い出すと顔がほてります」
「いや、あれは痛快でよかったよ。何より宮地はあれがきっかけでまともになっ
たんだ。まじめな医者になろうとしているみたいだよ。その宮地だけれど、今日
のお昼ごろ、ナースステーションでちょっと話題になっていてね。そのときの話
では、昨晩、宮地は藤峰をクリスマスディナーに連れて行ったというんだ」
　ほお、宮地もやるじゃないか。そういえば藤峰はデートに誘われているって言
っていたはずだ。俺が横にいる高遠を振り返って見ても驚いた様子はない。

　
　　
「高遠、知っていたのか」
「ええ、知っていました。先月、藤峰さんと話をしたときに、彼女はいろいろ噂
されているけど本当に付き合ってもいいと思っているのは宮地先生だって」
　藤峰は複雑な家庭事情の名門に生まれた宮地の境遇と自分を重ねあわせたらし
い。石田は頷いてしわがれ声で話を続けた。
「私は宮地が病院内の誰かと付き合っているというのは知っていたんだが、藤峰
さんとは思っていなかったんですよ。それが、昨晩、藤峰さんは宮地にディナー
に誘われていて、今日、行方不明でしょう。何か関係があるのかなって思ったん
ですよ」
「それなら、石田、宮地の話を聞こう。何か知っているんじゃないか」
「いや、それがね、宮地は今日の午後から外勤で出かけているし、そのままそこ
の病院に当直なんだ。あいつはこの病院では研修医扱いされているけど、本当は
前の病院で初期研修は済んでるんでバイトができるんだ。どっちみち、連絡を取
ってみるよ」
　高遠がすまなそうな顔をした。
「そうですね、藤峰さんが昨日、宮地先生とデートしていたって言っておけばよ

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第二話　ホワイトクリスマス

かったです。でも、始めのうちは藤峰さんのこと、こんなに大騒ぎになるとは思
っていませんでした。実を言うと午後に切り出しが済んだ後、宮地先生と連絡を
取ろうとしたんです。でも、もう外勤に出かけた後でした」
　宮地も何か関係しているのか。藤峰失踪は芦田部長と藤峰の問題、係長から聞
きそびれた臨床検査部の問題も絡んでいては随分と複雑だ。

　石田が宮地と連絡を取るためにＰＨＳを取り出そうとしたとき、大友さんが事
務コーナーから顔を出し、珍しく余計な事を言わずに話しだした。
「ねえ、思い付いたことがあるんだけど」
　俺より先に高遠が応じた。
「思いついたって、大友さん、何ですか。それは」
「藤峰さんが隠れられるところよ。この病院と隣の福祉センターが昔は地下通路
で繋つながっていたって知っている？」
　俺も高遠も知らなかったが、石田が聞いたことがあるという。
「たしか大分前から倉庫にして使っているんじゃないかな」
「高遠さんと神城先生は二人とも知らないわよね。この病院の隣にある市の福祉

　
　　
センターの建物は以前、病院の第一本館で、こちらに第二本館があったのよ。そ
の間に地下の連絡通路があったの。十年以上前に医学部が金沢区に移転したとき
にこっちの第二本館が建て変えられ、元の第一本館は福祉センターになったの。
地下通路はちょうど道路の真ん中ん所ところで仕切られて、病院と福祉センター
がそれぞれ倉庫にしたはずよ」
　病院はそのあと今年にも増改築されている。高遠は去年、俺は今年の秋に始め
てこの病院に勤め始めたのだから、そんな昔のことを知る由もない。
「本当ですか？」
　高遠が身を乗り出した。
「あそこは事務やいろいろな部署が古くなった書類や何かを詰め込んでいるはず
だわ。女子更衣室は同じ地下にあるんでしょう。藤峰さん、何かでそれを知った
んじゃないかしら」

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第二話　ホワイトクリスマス

　５　連絡通路

「おお、怖い」
　大友さんが病理解剖室に繋がる廊下を足早に通り過ぎ、反対側の突き当たりに
向かった。解剖室に入る廊下にはテンキー付きの錠がかけられているから、死ん
だ人の霊なんか出て来られないよ、という俺の意見は相手にされなかった。
　一緒に来てくれた石田が、大丈夫、悪霊がいても生きている人間に悪さはでき
ないよ、もしそんなことができるんだったら自分の体を切りきざんだ病理医は今
頃、真っ先に皆んな取り殺されているはずだからと、笑い飛ばしている。大友さ
んは石田にくっつくようにして進んで行った。
　ようやく病理解剖室に一番近い廊下を通り過ぎたところで、石田の当直医用の
ＰＨＳが鳴りだした。これは石田に呼び出しが掛かったに違いない。頷きながら
聞いていた石田が大友さんに伝えた。
「申し分けない。いま、急患が救命センターに着いたと連絡があった。今日はほ

　
　　
かの患者も多くて、私にも応援してくれっていうから行かなくちゃならなくなっ
た。大友さん、後は頼みます」
　石田はさっさと今来たばかりの廊下を引き返していった。大友さんは事情が飲
み込めなかったのか石田を見送っていたが、石田の姿が見えなくなったところで
はっと気がついた。
「やだわ、石田先生がいなくちゃ私、怖いわ」
「いまさら遅いよ、大友さん。それともひとりで解剖室の前を戻っていく？」
　俺の脅しに大友さんが恨めしげに見上げてきた。

　地下通路を実際に知っているのは大友さんだけだったから道案内を頼んだのだ
が、彼女が嫌がったのだ。その古い地下通路に行くには病理解剖室の前を通らな
くてはならず、彼女に言わせるとその廊下には病理解剖された人たちの霊が漂っ
ているというのだ。
「地図を書いてあげるから二人で行ってきて。嫌よ、あそこに行くのは」
　しり込みする大友さんを俺は藤峰の命が懸っているかもしれないと、おだてた
り宥めたりしたが、あそこの廊下には霊がふわふわ漂っていると言い張って、頑

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第二話　ホワイトクリスマス

として聞き入れなかった。
　まったく大友さんにも困ったものだ。俺たちのやり取りを面白そうに聞いてい
た石田が口を挟んできた。
「大友さん、それなら私も一緒に行きますよ。どうせ救命棟にあるＩＣＵに顔を
出さなくちゃならないんで」
　石田の影響力は凄い。彼を尊敬してやまない大友さんはたちまち一緒に来てく
れることになった。それなのに、その頼りの石田がいなくなって弱気になってし
まったのだ。
　あわてて高遠が大友さんを励ました。
「大丈夫です、大友さん。いざとなったら私が人魂と戦ってあげます。負けませ
んよ。いろいろなアイテムを持っています」
　ゲームじゃないんだから、アイテムを出しても人魂に勝てるとも思えないが、
まあいいだろう。
　あきらめて大友さんは恐る恐るという態ていで進んでいく。俺と高遠がそれに続い
た。つき当たりはＬ字路になっていて、角には組合の小さな事務室があり、右手
に折れると廊下は暗く、床磨き機やら掃除用具が壁に立てかけられて、すっかり

　
　　
物置状態だ。壁にあった照明スイッチを入れると、少し先にある仕切り壁とそこ
にノブの付いたドアが見えた。
　雑然と置かれた道具類の間に藤峰がいないことを確かめながら進んで行き、俺
たち三人は仕切り壁に達した。
　高遠がドアノブに手を掛けたところで、大友さんがまた余計なことを言い出し
た。
「何か気配を感じるわ。病理の解剖室から漂ってきた霊がここに溜まって漂って
いるののよ。それじゃなかったら藤峰さんの霊かしら」
　高遠がノブを掴んだまま俺を振り返った。幽霊だの人魂だの、大友さんは面倒
な人だ。俺は高遠に頷いて見せた。
「大丈夫だ、高遠。昼からまだせいぜい半日だろう。何かあっても命にかかわる
ほどのことはないはずだ」
「そうですよね。入ります」
　高遠がノブを回すとドアは少しきしんだだけで開いた。高遠が壁のスイッチを
探り、かちりという音とともにうす暗い蛍光灯が点灯した。そのうち一本の管は
ついたり消えたりしている。

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第二話　ホワイトクリスマス

　薄暗い明かりに照らし出された部屋にはサイズのまちまちな古いスチールキャ
ビネットや書架が壁と直角方向に並び、少しでも収容力を増やそうしている。い
つからのか分からないファイルがぎっしりと詰まっていて、それ以外にもはみ出
た書類がダンボールの箱に詰められて書棚の脇に積み上げてあった。
　足元に気をつけながら三人で藤峰がいないか確認しながら進んで行った。
「今、通ってきたところもそうだけど、ここもなんか凄いわねえ。世間ではしゃ
れた病院、横浜一の病院と言うことになっているけど、裏を見るとこんなものな
のよねえ」
　大友さんには答えず、高遠は書棚の間や積み上げられたダンボールの間を少し
づつ奥に入っていく。
「これでも結構、利用しているんですか。それなりにきれいにしてあります」
　高遠の言うとおり、雑然としてはいるがそこそこの秩序はある。
「事務っての人たちは同じようなことが起こると、以前どう処理したかって結構
気にするのよ。だから古い書類を大事に取って置いて、時々見にくるらしいわ」



　
　　
　藤峰の姿を見つけられないまま三人は細長い倉庫の一番奥にたどり着いた。そ
こは少しひらけていて、書棚も設置されていない。その代わりに突き当たりの壁
ぎわには何かの会議や集会の際に使う木の枠やら、古い移動式の投影用のスクリ
ーン、部屋仕切りのパネルが雑然と置かれている。どうしてそんなものがここに
あるのか分からないが、どこかの部屋からはずしてきたらしい扉まで立てかけて
ある。
　ごたごたと立てかけられた突きあたりの壁に平行して床にひびが入っていて、
わずかな段差ができている。壁側がほんの数ミリ沈んだいるようだ。ひびは壁に
平行に一直線に走り、脇の壁まで続いていた。東日本大震災の後遺症だろうが修
復されないまま放置されているのだ。
「いないわねえ」
　大友さんがつぶやくと、藤峰が見つかるに違いないと意気込んできた高遠は、
俺の脇で唇を噛かんだ。
「これで行き止まりですか？」
　高遠は納得できないようだ。
「この仕切りの先は隣の市の福祉センターが使っているのよ」

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第二話　ホワイトクリスマス

　大友さんの説明に高遠が振り返った。
「それならそっちも調べてみましょう」
「ここから向こうには行けないわよ。まさか抜け道なんてなさそうだし」
「そうですけど、万一ということもありますから、反対側からも調べておきまし
ょう」
　そう、藤峰が福祉センター側にいる可能性は低いが、探せるところは探して置
かないと先に進めない。

　救急棟の玄関に出たとにきは既にあたりはすっかり暗くなっていて、病理部長
が召集をかけた六時を過ぎていた。俺たちはかまわず福祉センター側の地下通路
を調べに行くことにした。救急棟の玄関から外に出ると、病院の建物の中とは別
の世界で、街は一日たってもまだ雪に埋もれたままだった。玄関前にある大きな
桜の木も根元がすっかり雪に埋もれている。
　道路を挟んだ福祉センターに続く横断歩道も、福祉センターの正面から地下鉄
の駅に向かう商店街の歩道と同じで人が一人通れる分だけ除雪され、その脇には
雪が積み上げられている。病院が面する病院前通りだけはかろうじて除雪されて

　
　　
自動車が走っている。この状況では体調の悪かった藤峰がここを通って福祉セン
ターに行ったとは到底思えないが、とにかく道路を渡って福祉センターにたどり
着いた。
　その時刻には福祉センターの業務は終了していたが、それでも何かの催し物が
あるらしく、ロビーには何人かの人がいて、受付にいる女性が対応してくれた。
しかし昔の地下通路を見たいという俺たちに申し出に困惑している。
「済みません。私たちじゃ分かりません。誰か責任者に許可を貰わないと」
　大友さんが自分の携帯電話を取り出し、それなら仲西副院長に連絡を取るわと
言っている。それを横目に高遠が受付の女性の説得にかかった。
「緊急事態なんです。病院の職員が一人、行方不明になっていて探しています。
もしかしたら昔あったこの建物と病院をつなぐ地下通路のどこかにいるんじゃな
いかって調べているんです。ですからなんとかこちら側からも調べさせてくださ
い」
　しかしその受付の中年の女性はすっかり困っている。
「でも、そんなのは私には分かりません。どこにあるかも知らないし、許可もな
く探させるわけにはいかないように思います」

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第二話　ホワイトクリスマス

　幸いに大友さんが副院長をつかまえた。病院の院長代理が電話に出ていると言
って、携帯電話を受付に手渡した。受付の女性が話している脇で大友さんが、わ
ざとらしく院長代理は夕方に市の管轄課に許可は貰ってあると、俺に話しかけて
きた。受けつけ女性は急に態度を改めて、はいはい、と電話に答えている。大友
さんもやるな、というよりこれは副院長のやり口を真似ているのだ。大友さんの
手管てくだはまんまと効を奏し、俺たちは地下通路を探して良いという許可を貰って階
段に向かった。
　高遠は勢い込んで先頭に立ち、階段を駆け降り始めた。まてまて、それは急ぎ
すぎだ。
「高遠、地下道が仕切られて使われているんなら、こっちはきちんとしているか
ら鍵が掛かっているかもしれないぞ」
　足を止めた高遠が階段の下から俺を恨めしげに見上げて来た。せっかく無駄な
労力を省いてやったのにそんな顔はないだろう。幸いに大友さんは階段の上にい
るから守衛室に行って鍵があるなら借りてくるように頼んだ。
俺が階段をゆっくり降りていくと高遠は待ちきれずにさっさと地階に降りて左右
に伸びている廊下を曲がって行った。ただ、曲がって行ったのは逆方向だ。声を

　
　　
掛けようとしたがどうせ戻ってくるだろう。俺は構わず右方向、つまり正しい方
向に進んで行った。
　後から大友さんが追いついてきた。
「ああ、いたわ、良かった。もう、先生、あの階段の所で待っていてくれればい
いのに」
「大友さんなら大丈夫だと思ったんだ。ちゃんとこちらに来る筈だって」
　そこに廊下の反対方向に向かいかけていた高遠も、あわてて戻ってきた。俺が
にやりとすると高遠が口を尖らせた。
「こっちなんですか、本当に」
　もちろんこっちだ。高遠は方向音痴なのか。からかうにはもってこいのネタだ
が今はそれどころではない。三人は廊下を進み、すぐに目的の扉の前に着いた。
大友さんから受け取った鍵を鍵穴に差し込んだ。ドアを開いて壁のスイッチを押
すと明るすくなった部屋に高遠が足を踏み入れた。扉のすぐ内側の床には病院側
にあったものと同じひび割れと段差が見えた。この段差は東日本の大震災のとき
に道路全体がその幅で僅かに沈んで、病院や福祉センターの敷地との間に出来た
らしい。

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第二話　ホワイトクリスマス

　中に入ってみると病院の方の地下通路とは違って、こちらは整然と書棚と書架
が並んでいる。
「こちらは片付いていますね。簡単に探せそうです」
　そう言いながら高遠は書棚と書棚のあいだを進んでいった。俺と大友さんがそ
れに続いていく。人が隠れられるようなキャビネットはないし、片付いているか
ら調べるのは簡単で、突き当りまでたどり着くのに思ったほどの時間はかからな
かった。地上にある道路の中央だと思われる突き当りには、仕切り壁に寄せて大
きな書棚が置いてあるけれど、それは大して使われていない。
「これでおしまいですか、意外と短いですね」
　そう言いながら高遠はその書棚の扉をあけて中を覗き込み、さらにそれに手を
掛けて動くかどうか試している。勿論、簡単に動かせるようなものではない。
「いないわねえ」
　と呟つぶやく大友さんは疲労が隠せない。その傍らでは高遠が眉間にしわを寄せてい
る。

「藤峰さんどこへ行ってしまったんでしょう」

　
　　

　重い足取りで病理部に戻ったときは召集時刻をとっくに過ぎていた。カンファ
ランス室に向かう途中で技師検鏡室の前を通りかかると、武村さんが一人で何か
の書類仕事をしていた。高遠と大友さんをそのまま先に行かせて部屋に入ってい
くと、武村さんが顔を上げた。
「神城先生、お疲れ様です。集まった人たちは少し前に藤峰さんを捜しに出て行
きました。その様子ですと地下連絡通路にも藤峰さんは見つからなかったんです
ね」
「ああ、病院だけじゃなく、道路の向こうの福祉センター側もしらべたけれどい
なかったよ。捜索部隊は十分集まったのかな」
「そうですねえ、病理部は部長を別にして、五人ですけど臨床検査部はなんだか
随分と少なかったです。事務も同じですね。わたしも申し分けないですけれど、
もう少ししたら帰ります」
　今日は朝の始動が遅かった分、残って仕事をしているらしいが、武村さんも家
庭持ちだから、これでもかなり無理をしているようだ。
　カンファランス室に俺が戻ったときは、高遠と大友さん以外では病理部長と庶

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第二話　ホワイトクリスマス

務係の若い男だけが残っていた。大友さんは地下通路の捜索で疲れてぐったりと
椅子に沈み込んで、高遠がコーヒーを淹れていた。
　仲西部長はちょうど看護部からの連絡を受け終わったところだった。しばらく
前に藤峰が病棟にいないか調べるように看護部に指示を出していたのだ。院長代
理の威力は絶大で、十二ある病棟の看護師控え室や藤峰が休めそうなところはわ
ずか小一時間で全部調べられて、その報告が届いたのだ。藤峰は病棟のどこにも
いなかった。
　看護部からの報告を受けた後、病理部長は俺達から連絡通路の捜索の結果を聞
いて頷いた。
「そうですか。地下通路のことは知っています。大分前に、病理の標本を置く場
所がなくなって、どこかに置く場所はないかと探したことがありましてね。その
ときに地下通路が空いているかと思ったのですが、もう事務が占拠していて使え
ませんでした。今は仕切りまで作って使っているんですか。藤峰さんが捜し出せ
なかったのは残念ですが、とにかくご苦労でした」

　部長は俺たちに捜索隊が戻るまで待つように言い、大友さんには夕食の出前を

　
　　
手配するように指示した。
　高遠の淹れてくれたコーヒーを手に大友さんに確認してみると、副院長の召集
に応じた人数は期待していたよりずっと小規模だった。病理部では歳にもめげず
大友さんや若手の町田と友永和美も捜索に加わっているというのに、肝心の臨床
検査部は生理検査の津山係長と若手二人が捜索に参加しているだけだという。高
遠と仲のいい小平佳子が捜索隊にいるかと思ったが、今晩は当直で捜索には参加
できないという。システムのトラブルは夕方には解決したはずなのにたったそれ
だけか。これが臨床検査部の実態だ。
　臨床検査部の熱意のなさに焦れているのは俺だけではないようだ。俺と大友さ
んのやり取りを黙って聞いていた高遠が病理部長に詰め寄った。
「仲西先生、芦田部長と越野さんって、藤峰さんをちゃんと探そうとしていませ
ん。見捨てているように思えます。もう、半日以上も藤峰さんは行方不明のまま
なんです」
　疲れているはずの大友さんが急に椅子に座りなおして高遠をたしなめた。
「そういうことは副院長に言うもんじゃないわ。芦田先生のやり方には問題があ
るけれど、よその部署の事に口を出すのはいろいろ揉め事の元になるわ。やめた

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第二話　ホワイトクリスマス

ほうが身のためよ」
　大友さんをまあまあと牽制けんせいして、部長は泰然としている。
「高遠さんの言うとおりですよ。私も臨床検査部を束ねていましたから、検査技
師の扱いには随分と気を使っていました。芦田部長のやり方に問題があるのは分
かっています。ただ、そういう問題は病院の幹部会に任せてください。それなり
のことは考えています。それより捜索隊が戻ったら、神城先生が話を聞いておい
てください。藤峰の母親が病院に向かっていますから、事務方と対応を協議をし
ておきます」
　部長は俺に捜索隊の相手を任せてカンファランス室を出ていった。








　
　　

　６　デッドスペース

　やがて捜索隊のメンバーが次々と病理部に戻ってきた。報告はどこも同じで、
藤峰は見つからなかった。最後に病理部の捜索部隊が帰ってきた。彼らは宛てが
われた捜索場所に加えて病理解剖室も調べてきたが、やはり藤峰はいないと報告
してきた。
　不首尾な報告が続くにつれて重苦しい空気が広がるなか、用意された出前の夕
食をとりながら病理部の町田が愚痴ぐちっている。
「こんな人数じゃこの病院を全部捜すのは到底無理だよ。早く警察に入ってもら
って捜すのがいいと思うな」
　そこに大友さんが追い討ちをかけた。
「藤峰さん、どこにもいなかったのよ。これはやはり警察に任せた方がいいわ」
　捜索の結果はどこも不調だし、自分たちの持ち場は済ませたのだと、捜索隊の
士気はすっかり落ちてしまい、藤峰捜索ははやくも放棄されかかっている。

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第二話　ホワイトクリスマス

　臨床検査部の若い技師は手持ちぶたさというよりは不機嫌に大机の前に座って
いるし、庶務係から参加している若い職員も盛んに記録をつけているが、不承不
承残っているのがみえみえだ。大きな机の上には食べ終えた出前の食器が乱雑に
放置してある。
「私もそろそろ帰りたいわ。ここまで探したんだからいいでしょう」
　疲れた表情の津山係長が俺に向かって言いにくいこと口にした。正式な業務で
はないし、俺に引き止める権限はない。
「まだ藤峰さんはみつかっていないし、副院長もじきに戻るだろうから、一応、
それを待ってくれないかな」
　そう言うのが精一杯だった。それにしても自分の部門の技師を捜すのに臨床検
査部からたった三人しか参加していない上に真っ先に放棄しようとするのか。
　これでは藤峰行方不明事件は危機管理の失敗の見本になりかねない。不祥事を
内部だけで何とかしようとしているうちに、いい加減なことを繰り返して手に負
えない状態にしてしまうというやつだ。

　捜索隊の愚痴をを無視してさっきから考え込んでいる高遠に倣ならって、俺も考え

　
　　
始めた。病院内のどこかに藤峰が身を隠している場所があるはずなのにいい考え
は思いつかない。考えあぐねて疲れた肉体と頭をリフレッシュしようと、コーヒ
ーを淹れなおすことにした。
「藤峰さん、何とか捜し出したいです……」
　コーヒーを準備している間もずっと黙り込んでいた高遠が呟いた。俺は黙って
頷いた。高遠の思いは正しいのだ。藤峰は周りから言われているような娘ではな
い。美人ゆえの妬みや反発があって、いろいろな噂も立てられているのだろう。
それ以上に芦田部長の意のままにならないというだけで病院から追い出されてい
いわけがない。
「ああ、もちろんだ。何とか探し出そう。藤峰は病院の中にいることは間違いな
いんだ。病院は広いが、藤峰がそうやたらなところに行っているとは思えない」
「どこか考え落としているんですよね。もう一度捜したときの様子を思い出して
みます」
　捜したところのどこかに見落としがあるのだろうか。新しく淹れたコーヒーを
高遠のカップに注ぎ足してやっても、高遠は相変わらず考えに耽っている。

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第二話　ホワイトクリスマス

　漸く高遠がカップに手を伸ばし、もうさめてしまったコーヒーを一口飲んで口
を開いた。
「神城先生、引っかかっていることがあるんですけど」
「引っかかっている？　何が引っかかっているんだ」
「あの地下連絡通路です。倉庫に使っている元の通路を両方から見ましたが、調
べ終わったとき、短すぎると感じませんでしたか」
　通路を仕切った倉庫が短かった？　高遠の言葉に俺も地下通路の捜索を思い起
こしてみた。病院側と福祉センター側の倉庫を両方ともつぶさに調べたけれど、
その奥行きは考えもしなかったし、短すぎると感じもしなかった。
「倉庫の奥行きが短いっていうのか。本当に短いと感じたのか」
「さっき、福祉センター側から地下通路の倉庫を調べたとき、つきあたりの壁の
先にもう少し部屋が続くんだと思っていました。壁には戸棚が置いてあリました
けれど、感覚的にあの向こうにもう少しスペースがあると感じたんです。ですか
ら、突き当りの書棚を調べました」
　そういえば確かにあの時、高遠は突き当たり戸棚の扉を開いて覗いたり、棚を

　
　　
押したりして盛んに調べていた。俺に高遠のような感覚は無かったが、一つだけ
気が付いていたことがあった。
「連絡通路の途中に、大震災でできたらしいわずかな段差があったな。しかも、
病院側と福祉センター側の両方だ。あれは病院と福祉センターを隔てている道路
全体が沈んで敷地の境にできたんだろう。それなら病院側の倉庫の壁は道路の真
ん中まで届いていないぞ」
　高遠が頭を昂然と振り上げ、眼を輝かせた。
「それです、先生。そうに違いないです。病院側の段差は倉庫の突き当たりの壁
の直ぐ手前でした。部屋は道路の真ん中には到底届いていないです」
　福祉センター側の倉庫の突き当たりは道路の幅のちょうど中間くらいに位置達
しているのに、病院側の倉庫の突き当たりは道路の中間には届いていないという
のか。高遠の言うとおりなら、両方の倉庫の間にデッドスペースが残っているこ
とになる。病院側の地下通路は長いから、壁は当然、道路の中間に達していると
思い込んでいたのか。俺はまじまじと高遠の顔を見つめた。
「探しましょう。きっとあの先にもう一部屋あるんです。病院側の書類倉庫のつ
き当たりにはいろんなものが置いてあって、壁を直接確認してはいません」

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第二話　ホワイトクリスマス

　高遠は眼鏡の奥から確信に満ちた眼で俺を見つめてきている。いいだろう、俺
は何も思いつかなかったのだし、現実は小説よりもミスティリアスなものだ。高
遠は今までも俺では思いもつかぬ発想で驚かしてくれている。今までの捜索で藤
峰は見つけられなかったのだから、それに賭けてみよう。
　それなら誰か手伝いはいないかと振り返ってみたが、部屋にいる捜索隊のメン
バーは既に気力をなくしている。俺たちの話に興味を示していないし、誰も動こ
うともしない。高遠は椅子から飛び上がるように立ちあがって俺を急かした。
「大丈夫です。そんなに人手はいらないですから行きましょう」

　もう夜も大分遅くなっていたが高遠は新たな可能性で気負いたっている。二人
して急ぎ足で廊下に出た。ほとんど小走りでエレベーター室に向かっていくと、
曲がり角の向こうからペタンペタンとサンダルの音が聞こえてきた。
「石田先生ですね、いいところに来ました」
　現れた石田はあいも変わらず青い手術着に白衣を引っ掛けてサンダル履きだ。
石田め、まったくいいタイミングで現れるやつだ。
「どう？　その様子じゃ藤峰さんはまだ見つかっていないみたいだな。あわてて

　
　　
どこに行こうとしているの。二人ともえらく緊張しているじゃない。緊急手術は
終わったから、何か手伝うよ」
　現われた石田は俺たちとは別世界の呑気さで声をかけてきた。
「先生、ちょうどよかったです。一緒に来てください。藤峰さんの居所が分かり
ました」
　高遠はもう藤峰を探し出した気でいる。もちろんこれで見つからなければあと
は病院を挙げての大捜索しかない。
「石田、これから最後の所を探しに行くところだ。見つけた時に藤峰の体調をき
ちんと判断できる人間が必要だ」
　石田はもちろんいいよと引き受けてくれた。エレベーターを降りて、三人はさ
っき一度探した病院の地下にある連絡通路に向かった。階段を降りて行くと嫌が
上にも緊張が高まってくる。高遠は急ごうとするが、その足元が危なっかしい。
俺がそんなに急ぐなと手を伸ばすと、よろめいた高遠があわてて俺の腕を掴んで
立ち止まった。腕を掴む手を通じて高遠の緊張が伝わってくる。俺たちの後につ
いてくる石田が暢気のんきに俺たちの様子をからかってきた。
「おう、お二人さん、いい感じだね。二人の夜中の冒険に私が割り込んじゃ、お

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第二話　ホワイトクリスマス

邪魔かな」
　石田の軽口に高遠が言い返した。
「もう、石田先生。そんなに茶化さないでください。心臓が喉から飛び出そうな
気分なんですから」
　石田はしわがれ声で、わはははと高遠を笑い飛ばし、あいも変わらずペタンペ
タンとサンダルの音を響かせながらついてくる。それでも石田の気遣いは役に立
った。高遠は俺の腕を離して、ふたたび決然と階段を降り始めた。
　病理解剖室の前を通り過ぎて地下の連絡通路への角を曲がり、掃除道具置き場
に入ると、そこには夕方に来たときよりもっと多くの道具が戻ってきている。そ
こを通り過ぎて事務の書類倉庫に入った。
　途中も確認しながら進んで行き、とうとう一番奥にたどり着いた。そこも先ほ
どと変わらずに使われなくなった雑多な道具が立てかけてあるばかりだ。

　高遠が唇を噛み、その行き止まりの壁を見回している。その壁の手前の床には
さっきも見た病院の敷地と道路の境目を示すひび割れが走っている。
　この壁の向こうに、本当にもう一部屋あるのだろうか。俺たち三人の前の壁に

　
　　
はどこかの部屋の扉とパーティションが立てかけてあり、その手前には古い金属
の机が置かれていて簡単には動かせそうもない。扉もけっこう重そうな代物で女
性の力で簡単には動かせそうもない。
　それでも確認してみようと俺と石田が立てかけてある扉に手を伸ばしたとき、
脇をすり抜けて高遠が扉の隣においてあるパーティションの裏に回りこんだ。そ
こには人が通れるほどの隙間があり、どこかから持ってきたらしい病室の仕切り
カーテンが垂れ下がって、壁を隠している。
　高遠がそのカーテンを跳ね除けて奥を覗き込み、はっと息を飲んだ。その気配
に俺と石田も作業の手を止めて高遠の脇からカーテンの奥を覗き込んだ。
　連絡通路を仕切るために作られた壁に、低いくぐり戸が嵌はめ込んであった。そ
れを凝視して高遠が喘いでいる。
「こんなところに……」

　間違いない。連絡通路の突き当たりと思われた壁に用意された出入り口だ。
　高遠が俺を振り返った。俺が頷くと高遠がドアノブに手を掛け、そこで躊躇ちゅうちょ
している。

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第二話　ホワイトクリスマス

「大丈夫、高遠の推理どおりに見つかったじゃないか。ここしか考えられない。
入ろう」
　俺に促されて高遠がノブを回して戸を押し開いた。
　こちらの部屋の光がくぐり戸から流れ込み、高遠が体をかがめてそのくぐり戸
から入っていった。それに続いて俺と石田も足を踏み入れた。部屋の中は机の上
に置いてある暗い常夜灯にぼんやりと照らしだされているだけだ。
　二歩、三歩と足を運んだ高遠は足を止め、薄暗い部屋を見回している。かすか
に照らし出された机の向こうに何かを見つけ、あっ、と小さく声を上げ、机の陰
の闇に向かって転びそうになりながら突き進んで行く。
「玲菜さん、藤峰玲菜さん」
　高遠が机の向こう側に回ってソファーの前に跪ひざまづ き、黒く横たわる影に手をか
けゆすっている。
「起きてください、藤峰さん。お願いですから眼を開けてください」
　俺は壁にあるはずのスイッチを探ったが、なかなか探り当てられない。石田が
高遠に続いて黒い影に駆け寄っていく。ようやく入り口近くの壁にスイッチを探
り当てた。

　
　　
　ぱぱっと明るくなった部屋では、高遠がソファーの前で毛布を被って横になっ
ている若い女性を抱き起こそうとし、石田が今までの暢気そうな様子をかなぐり
捨ててすすっと近づいてその女性の顔を覗き込んだ。
　高遠が女性を抱き起こし、体を揺するとその女性は薄目を開き、焦点の定まら
ないまま視線をさまよわせた。ようやく高遠の姿を捕らえたのだろう、かすかに
高遠の名前を口にした。
「高遠…さん……」
　しかし、それで力尽きたかのようにまた眼を閉じてしまった。
「玲菜さん、藤峰玲菜さん。良かった、本当によかった……」
　高遠は藤峰を抱き抱え、そのままソファーに沈み込んでしまった。


「少し熱があるようだけど、脈も呼吸もしっかりしているし、多分、薬を少し余
計に飲んだだけだろう。救急センターで点滴して、一晩休ませれば藤峰さんは元
気になるよ」
　そう言って石田が高遠から藤峰玲菜を引き取り、スリムな身体に似合わず、軽

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第二話　ホワイトクリスマス

軽と抱き上げ、俺を振り返った。
「神城先生はここで高遠さんの面倒を見てやってください。立ち上がれないみた
いだから」
　高遠を俺に任せて石田は藤峰を抱え、救急棟の地下通路に向かった。そこに捜
索隊が担架を用意して駆けつける手筈になっている。
　石田は部屋を出る前に振り向いて、俺に目配せしてきた。何か問題のものはな
いか、確認するようにと促しているのだ。俺もそれに頷き返しておいた。高遠が
座り込んでいるソファーの前には小さな事務机があり、そこには蛍光灯のスタン
ドが載っている。何かの薬剤の箱とコップのほかに雑誌が雑然と置いてあり、そ
の間にも幾つか落ちている。
　視線を巡らせるとすっかり気の抜けた高遠がソファーで呆ほうけている。それでも
俺が手を差し出すと、それに掴まってようやく立ち上がって俺の手を両手でしっ
かりと握リしめてきた。その手を握り返してやると，疲労の色の濃い高遠の顔に
は安堵とともにこぼれるような笑みが広がった。
「良かったです、玲菜さん、本当に良かったです」
　いいだろう、高遠紀和子。その笑顔に免じて昨日の陳腐で独創性がないという

　
　　
言葉は取り消そう。藤峰を探し出したのは紛れもなくお前だ。俺は今しばらく手
を握ったままでいたい誘惑に駆られたが、高遠にはやってもらうことがある。高
遠の背に手を回し、二人して地下連絡通路の秘密の小部屋から救命棟の地下の廊
下に出た。石田が藤峰を担架に横たえ、若い町田と友永、それに臨床検査部の若
い技師が担架を運び始めたところだった。石田がそれに付き添っている。
　俺はまだよろけている高遠の背中を押してやった。
「高遠、お前がいたほうがいいだろう。付いていってやれよ」
　俺に促された高遠が俺を一瞬振り返り、それから担架を追いかけていった。

　担架を見送った後、俺は藤峰のいた秘密の小部屋に戻った。机の上をもう一度
確認して下熱剤の箱と空の薬剤パックを拾い上げ、机の脇に置いてあるごみ入れ
の中を覗いた。なかにはほとんどごみは無く、薬剤パックから落ちたらしい二、
三個の小さな丸いプラスチックが捨てられていた。
　ソファーの上に取り残されていた藤峰のハンドバッグを手にすると、下に隠れ
ていたブリスターパックが現われた。
　よし、これで藤峰捜索は終了だ。あとはこのバッグを返せばいい。

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第二話　ホワイトクリスマス

　７　アフターXmas

　翌朝、俺は寝不足の眼を瞬しばたかせながら一昨日の大雪の名残が残る病院前通りを
抜けて半時間ほど遅れて出勤した。昨晩は二晩続けてくたびれ果てて深夜に家に
辿り着き、あきれ顔の奥さんに迎えられた。ありがたくも用意されていた風呂に
入ってさっさと眠り込んだが、それでも疲れは十分取れていない。
幸い、少々出勤が遅れたからといって病理標本は積み上げて置けばいい。何か言
ってくるのは臨床の医師だが、昨日の大雪の後だ。今日は臨床も文句をつけてく
るほどの余裕はないだろう。病院の中で病理医だけの特権だし、夜中まで人探し
をした翌日くらいいいだろう。
　病理部の技師室では技師たちが既に仕事についていたが、覗いてみても高遠は
いなかった。目ざとく俺に気づいた武村係長が挨拶してきた。
「お早うございます、神城先生。昨晩はご苦労様でした。何か信じられないよう
なところで藤峰さんを見つけ出したんですって？　先生、なんか随分ひどい顔で

　
　　
すけど、大丈夫ですか」
　俺は少しも大丈夫でない声で、なんとか無事だよと答えた。
「あんまり無事な顔に見えませんけど。高ちゃんなら藤峰さんの病室に行ってい
ます。今朝、遅刻して出勤してきて、しかも藤峰さんの顔を見たくて落ち着きが
ないので、そのまま仕事をさせて事故を起こすよりはと病室に行かせました。あ
まり長居しないように言っておきましたから、そろそろ戻ると思います」
　相変わらず良く気の回る人だ。係長の気遣いに技師室の奥で町田が不満そうな
声をあげた。
「高遠さんは得だなあ。僕だって昨日の夜、藤峰さんを探したんですよ。どうし
てこんなに待遇が違うんでしょう」
　隣の机で細胞診のスライドガラスを顕微鏡で見ていた友永和美が、お姉さん顔
で町田をたしなめた。
「町田君、君はいいの。君が藤峰さんの所に行ったって様になんないよ」
　技師室に明るい笑い声が広がった。技師たちの笑い声をあとにして俺はカンフ
ァランス室にたどり着いた。
　有り難くもいつものようにコーヒーが用意してあり、俺は自分のカップになみ

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第二話　ホワイトクリスマス

なみとコーヒーを注ぎ、それにインスタントコーヒーの粉末を足して強化コーヒ
ーを作った。気配を察して事務コーナーから現れた大友さんが、強化コーヒーを
見てあきれた。
「先生、良くそんなものが飲めるわね。私だったら胃が痛くなるわ」
　俺は眼をしょぼつかせ、溜息をつきながらそれでも意地を張った。
「大丈夫だ。俺の胃袋は大友さんの毒舌に耐えられるように鍛えてあるから、こ
れくらいならなんともないさ」
「神城先生も言うわねえ。ひどい顔している割には口は無事なようだわね」
　大友さんも負けていない。どうやら早く退散したほうがよさそうだとコーヒー
カップを手にしたところに、病理部の入り口のほうから高遠の興奮した声が伝わ
ってきた。確認しておきたいことがあるが、この興奮した高遠の相手をするのは
いささか危険だ。俺はさっさと自分の部屋に引きこもろうとしたが間に合わなか
った。まだ私服のままの高遠が眼を輝かせて現れた。
「ああ、神城先生、昨日の晩は有り難うございました。おかげでしっかり眠れま
した」
　高遠が殊勝にも挨拶をしてきた。夕べは藤峰に付き添って病院に残っていた高

　
　　
遠を待って、一緒にタクシーで帰ったのだ。さすがに疲れきった高遠を深夜に一
人で帰すわけにはいかなかった。
　それでも高遠は一晩でどうやら元気を回復したようだ。俺のほうは高遠の相手
をできるほど回復しているとは言いがたい。どうせなら技師室で引き止めてくれ
ればいいものを、元気になって興奮している高遠の相手を俺に押し付けてきたよ
うだ。
　
「それでどうだったんだ、今朝の様子は」
　しょうがない、俺はコーヒーカップを持ったまま高遠に訊いてみた。俺だって
藤峰が今朝はどうしているか気になっている。高遠は今しがたの殊勝な仮面を脱
ぎ捨て、待ってましたとばかり、はじけるように話しはじめた。
「大丈夫です、眼を覚ましました。二人は凄く情熱的だったんですよ。ああ、そ
ういえば朝の挨拶をしていませんでした。お早うございます」
　おいおい、話しがあちこち飛び散っているぞ。
「そんなにあわてるな。コーヒーでも飲みながら落ち着いて話してくれ」
「ああ、どうして先生はそんなに落ち着き払っていられるんですか」

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第二話　ホワイトクリスマス

　俺の忠告はとうてい効果があったとは言えないが、それでもコーヒーを飲む気
にはなったようだ。コーヒーポットから注ぐ高遠の手元は藤峰の様子を話したい
あまり注意が行き届かず、危なっかしいことこの上もないがどうやら無事に注ぎ
終わった。
「眼を覚まして私の前で二人して抱き合って、すっかり当てられちゃいました。
はらはらして一晩付き添っていて、抱き合ってキスしたんです」
　俺はあわてて口を押さえ、噴出しそうになったコーヒーを飲み下した。
　いくら興奮しているからってひどい話し方だ。二人がキスしたこと以外は何も
分からないぞ。慌てん坊とはいえ普段はそれなりに賢く見えるのに、今はただの
阿呆な女の子だ。しょうがない、こちらから理詰めの尋問をしよう。
「ちょっと待て、まず血相を変えて飛び込んで来たのは誰で、いつの話だ」
「だから宮地先生です。昨日の夜、十二時過ぎに当直を別の先生に代わってもら
って病院に戻ってきたんです。藤峰さんは無事かと看護師さんに何度も何度も訊
いたそうです」
「じゃあ、宮地が病院に飛び込んで来た時、藤峰は眼を覚ましていたのか」
「飛び込んできたのは昨晩で、寝ていたそうです。ベッドの脇で藤峰さんって、

　
　　
呼んだら眼を覚ましたんです。転寝うたたねしていたのに、眼を開けたら急に玲菜、玲菜
って呼んで抱きついたんです」
「高遠、頼むから主語をちゃんと言ってくれ。誰がいつ何をしたのかわけが分か
らないぞ」
「ああ、だから、今朝、私が藤峰さんの病室に行ったときには、ベッドの脇で転
寝していて、私が藤峰さんに声をかけたら、急に眼を覚ましたんです。そのまま
二人は抱き合ったんです」
　俺たちのやり取りを傍で聞いていた大友さんも話に割り込んできた。
「転寝していたのは宮地先生よね。それで藤峰さんも一緒に眼を覚ましたのね」
「覚ましました。眼を覚ましても少しの間、ぼっとしていたんですが、名前を呼
ばれて体を起こしたところに宮地先生が抱きついたんです。もう、私はあわてて
部屋を出ました」
　そうか、高遠は生のラブシーンに反応しているのか。
「いきなりそれじゃあ高遠には刺激が強すぎたか。まだ子供だものな、高遠は」
　俺がからかうと高遠がそれはひどいと抗議してきた。
「そんなことはありません。私だってちゃんと大人です」

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第二話　ホワイトクリスマス

「でも、キスシーンに興奮したんだろう。高遠はのっぽなばかりで……」
　と言いかけたところで大友さんが隣から厳しく俺をたしなめてきた。
「だめよ、神城先生。そんなこと言っちゃセクハラよ」
　俺はそんな事を口にするつもりはなかったし、高遠も別にセクハラと受け止め
た様子はないが、それより子供っぽいと言われて自分の胸を見下ろして口を尖ら
せて反論した。
「これでも最近大きくなって来たと思っているんです。ほら、胸だってそれなり
に……」
　高遠は胸をそらした。この仕草は前にも見た記憶があるが、ちょっと待て、二
人とも誤解しているぞと言う暇はなく、俺の脇からまたしても大友さんの非難の
声が飛んだ。
「高遠さん、何てことしているの。はしたないわ、いくら神城先生の前でも」
　大友さんまでひどい言い方だ。たしなめられて肩をすくめた高遠が俺に向って
舌をぺろりと出した。
「そうでした、ごめんなさい。神城先生も一応、男でした。でもこれくらいで動
揺するようじゃ先生のほうが余ほど子供っぽいです」

　
　　

　まったくひどい奴らだ。いくら病理部は女性が多いからって、これはまるで女
子高校の乗りだ。だいたい私服姿で厚着しているこの時節じゃ胸を反らしたって
たかが知れている。高遠の突拍子もない行動で話が脱線してしまった。高遠を仕
事に戻したほうが良さそうだが、その前にひとつだけ確かめておきたかった。
「そうか、それじゃ昨日預けた藤峰のハンドバッグは渡せていないのか」
　俺は強化コーヒーを一口飲んで何とか落ち着いたところで聞いてみた。
「いえ、それは渡しました。藤峰さん、入院の用意がなかったでしょうから、病
室から飛び出して病院一階のコンビニで最低限の洗面用具を揃えて、病室に戻っ
たときにハンドバッグと一緒に渡しました。藤峰さんのお母さんは今朝早くに家
に帰って、どうしても午後にならないと来られないと言っていましたから。その
とき、藤峰さんの様子が変でした」
　藤峰のどこが変だったのか訊いて見たかったが、大友さんの前ではないほうが
いいだろう。
「気が利くな。それで病室に戻ったとき、もう宮地と藤峰は抱き合っていなかっ
たのか？」

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第二話　ホワイトクリスマス

「さすがに抱き合っていませんでした。私の顔を見たら、宮地先生、ばつの悪そ
うな顔をして、藤峰さんに退院が決まったら教えてくれって言って部屋から出て
行きました」
「ばつが悪かったんじゃなくて、またひっぱたかれると思ったんじゃないか」
「そんな、違います」
　高遠は俺に怖い顔をしてきたが、まあ、いいじゃないか。話がひと段落したと
ころで高遠はやっと仕事に戻っていった。


　残っていた疑問もその日のうちに解決した。
　地下連絡通路は大友さんが言っていた通りで、三十年以上も前に第一本館と第
二本館をつなぐために作られたものだ。十数年ほど経って医学部と附属病院が移
転した際に第二本館は取り壊されて高層化され、同時に第一本館だった建物は市
の福祉センターに模様替えをしたのだ。そのときに連絡は閉鎖されて道路の真下
で仕切りが作られたのだそうだ。
「その後、どういう経緯で病院側の連絡路の一番奥にあんな小部屋が作られたの

　
　　
かは記録にないらしいわ。あの程度の仕切りパネルとくぐり戸はいとも簡単に据
え付けられるから、病院に出入りしていた掃除を担当する業者が作ったんじゃな
いかって。その業者は今では廃業していて、担当者はまったく不明だということ
だったわ」
　業者が変わったときにその小部屋の存在は一度は忘れられてしまったが、最近
になって作業員の誰かが気づいたらしく、少人数の秘密にして、そのメンバーだ
けで使い出したらしいという。
　それを藤峰が何かの折に気づいたらしいが、それは高遠が聞きこんでいた。
「藤峰さんはロッカールームの廊下で何人かの女性が立ち話をしていたのを耳に
して知ったんだそうです。それをクリスマスの日、熱があってどこかで少し休み
たいと思ったときに思い出したんです。そのときも入り口はうまく隠されていた
と言っていました」
　大友さんが話を継いだ。
「そうそう、副院長から教えてもらったわ。あの小部屋はせっかくだから書類倉
庫の手前に移動させて、あのまま使えるようにすること決まったって。掃除のお
ばさんやおじさんの休む場所がないから、ちょうどいいという事になったらしい

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第二話　ホワイトクリスマス

わよ」
「本当ですか、それは良かったです。でもあそこではさすがに生け花の稽古はで
きそうもありませんけど」

　イブの晩の様子も高遠が藤峰から聞いてきた。
　藤峰はクリスマスイブの日は朝から熱があり、ホテルに着いた時はすでにかな
り体調が悪かったそうだ。ディナーがホテルで、しかも宮地が部屋を予約してい
ることも心配だった。それでも年に一回の日だし、もしかしたら大事な日になる
かも知れずホテルに出かけたという。宮地はディナーの途中で藤峰の体調不良に
気がついたという。ホテルのフロントで解熱剤を貰って飲ませ、帰ろうしたとき
には既に雪がひどく、タクシーは動けないという事態になっていた。やむなく宮
地の予約していた部屋に泊まることになったのだが、その晩は藤峰がベッドに寝
て宮地は毛布を被って床に寝たという。
「へえ、宮地もいいとこあるじゃないか。結局、藤峰を大事にしたんだ」
　俺が感心すると高遠はまた翌朝の事を思い出したらしく、眼を輝かせた。
「ドラマチックですよね。朝早くに藤峰さんは何とかタクシーを捕まえて一旦、

　
　　
家に帰って、解熱剤の用意と着替えをしてから病院に出勤したんです。相変わら
ずひどい熱でしたけど、それでも休むわけにはいかないって。でもやはり二人と
もちょっと気まずくなったので、その日はお互いに連絡も取らずにいたって言っ
てます」
　なるほど、これであのクリスマスの日の騒動に繋がるわけだ。
「ひどいホワイトクリスマスだったけれど、おかげで宮地先生の本当の気持ちも
分かったし、わだかまりも解けて、とても喜んでいました。ロマンチックです。
憧れます」

　午後になると石田が病理部に現れた。
「宮地の話は藤峰さんの話を裏付けてくれるだけだったよ。あいつは大丈夫、ま
っとうな医者になれるよ。私と話していても、もう反抗期は終わりだなって感じ
だったから」
「ええ？　あの歳で反抗期だったんですか？」
　高遠が驚いている。
「あいつの親父さんは名門の家柄で大学教授だろう。厳しく育てられて、父親と

230

231

第二話　ホワイトクリスマス

同じように立派になれってうるさかったらしい。ろくろく反抗期なんてなかった
って自分で言っていた。医者になるのも嫌で、今までは仕事も投げやりだったっ
て言っていたよ。でも、高遠さんにひっぱたかれたことと藤峰さんと知り合った
ことで、ちゃんとしなくちゃという気になったらしい。
　今度の騒ぎも前日のことで気まずい気分だったんで、クリスマスの日は藤峰さ
んを避けていたらしいんだが、夜になって俺からの電話で驚いて飛んで帰ってき
たんだ。当日の夜中に当直を急に交代なんて普通は考えられないが、必死に昔の
同級生に電話を掛けまくったらしい。つくづくと良かったって言っていたよ」

　俺が気に掛けていた臨床検査部の問題というのは係長と大友さんからようやく
聞くことができた。芦田は部長に就任直後、経費削減のためにと、いきなり技師
数を減らそうとしたことがあるというのだという。それもターゲットにしたのは
独身女性のベテラン技師で、数人を他の部署に追いやったのだ。大友さんの話で
は行き場のない技師を病理部で預かったり、慣れない事務職をやらされて、欝うつ状
態になって結局は仕事をやめた人もいたという。
　院長が交代したのをきっかけに強引な技師の異動はやめることになったはずだ

　
　　
ったのだが、しばらく前から気に入らない技師をまた追い出そうとし始めたのだ
という。
「藤峰さんも狙われたらしいのよ。最初はセクハラみたいに猫かわいがりしてい
たのに、自分の思うようにならないからって冷たくあしらうようになったの。ほ
かにも依怙贔屓えこひいきがあって、いま臨床検査部は問題が多いのよ」
　そういういきさつを仲西部長も知っていて、病院としては警察沙汰にもならな
かったし、原因は体調の悪い藤峰を休ませなかった臨床検査部の健康管理上の問
題という結論になった。芦田部長は病院長から譴責けんせき処分を受けることになるだろ
うという。

　その日の夕方、熱の下がった藤峰が退院することになった。もう一日、二日は
仕事を休んで様子を見ることになったが、とにかく、入院している必要はないと
診断されたのだ。
　退院する前に藤峰と宮地が病理部に現れた。病理部長、それに俺と高遠には挨
拶しておきたいということらしい。既に院長と事務局長のところには挨拶してき
たという。

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第二話　ホワイトクリスマス

　大友さんに呼ばれてカンファランス室に行くと、高遠が嬉しそうに藤峰玲菜と
話をしている脇で、居心地のわるそうな顔をして宮地が立っていた。部長は席を
外しているがすぐ戻ってくると大友さんは二人に告げ、それまでに俺と高遠に挨
拶をしておくようにと言ったらしい。
　高遠と話し込んでいる藤峰はなるほど噂どおりだ。地下通路の小部屋で見つけ
た時の白衣姿の彼女とは別人のようで、薄く化粧して私服に着替えた姿ははっと
するような美人だ。噂になるのが良く分かる。
　そこに副院長が戻ってきて、藤峰を伴って自室に入っていった。宮地と一緒に
行くのかと思っていたらそうではなく、一応、当事者は藤峰自身だけだというこ
となのだろう。
　俺と高遠に顔を付き合わせる格好になった宮地が、口ごもりながらお世話にな
りましたと、頭を下げ、それにあわせて高遠もあわてて頭を下げている。
「ふーん、それで高遠、どんなお世話をしたんだ。ほっぺたを思い切りひっぱた
いた事か」
　高遠は真っ赤になるし、宮地はあわてて違う違うと首を振っている。それを見
ていた大友さんが笑い声を上げた。

　
　　
　部長室から戻ってきた藤峰が改めて病理部の面々に挨拶して、母親が用意して
くれたという大きなお菓子の箱を置いて、宮地に大事そうに付き添われて退院し
ていった。


　これで終わりだと思っていた。少なくとも俺については疑問は残っていない。
後は文字どおり積み残しになってしまった仕事を年内にけりをつければいい。
　十二月の二十九日、仕事納めの翌日だから本来なら年末の休暇なのに、藤峰捜
索で遅れた分の仕事を取り戻すためにその日も病院に出てきていた。朝、出掛け
に俺の奥さんは愛想良く「年内に大掃除をよろしく」とにこやかに送り出してく
れた。これは帰りがけに大好物の福砂屋のカステラでも買っていく必要がありそ
うだった。やれやれ、夫婦生活とは気を使うものだ。
　いつもと同じ時刻に出勤した俺は誰もいない病理部のさらに奥の小部屋で、朝
から夢中になって標本を見始めた。静まり返った病理部は何処かで冷凍機のコン
プレッサーの音がかすかに響いて来るだけだ。そのうち余計な音は一斉耳に入ら
なくなり、仕事が面白いように捗はかどった。

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第二話　ホワイトクリスマス

　昼ごろになってようやく積みあがっていたマッペの山が俺の机の上から消えた
ころ、俺の部屋の入り口に聞きなれたぺたんぺたんというサンダルの足音と聞き
なれない足音が響いてきた。サンダルの足音は石田だろうが、もう一人分の足音
は聞き覚えがない。女性の足音だが、病理部の女性技師はナースサンダルをはい
ているからすぐわかる。それでもこんなときに石田と一緒に病理部に現れるのは
高遠以外にいない。俺は振り返らずに声をかけた。
「高遠紀和子か？」
「あれ、やっぱり分かるんですか。先生は私の足音で聞き分けているんだと思っ
ていました。今日はいつものナースサンダルじゃないから分からないかと思った
んですけど」
「それで正解だよ」
　俺は椅子を回して振り返った。石田はいつもの手術着に白衣姿だが、俺の目の
前にすらりとしたなんともスタイルのいい高遠が立っていた。ハイネックの柔ら
かな白いセーターにジーンズスタイルで、しっかりしたレースアップの靴を履い
ている。さっきの聞き慣れない足音はそれだったのか。それよりもセーターの胸
が魅惑的に膨らんでいて、視線がつい、そちらに行ってしまう。それを悟られな

　
　　
いように話を続けた。
「その格好じゃ当直ではなさそうだな。とすると高遠も何か残った仕事で出て来
ていたのか」
「藤峰さん捜索の後遺症です。今日はコンピューター仕事でしたから、私服のま
まなんです。ようやく終わりました。先生も後遺症ですか」
「ああ、俺もどうやら終わったよ」
　高遠の隣では石田が俺に向かってにやにやしている。俺は無理やり視線を石田
に移した。
「それで、二人揃って何かあるのか」
「いやね、今、そこの廊下で高遠さんに会ったら腑ふに落ちないことがあるって言
うんだ」
　腑に落ちない？　高遠め、何かに気づいているのか。なかなか面倒な奴だ。石
田は嬉しそうににこにこしている。
「腑に落ちないって、何が？」
　話を振られた高遠がきっと俺を見据えた。
「あれで終わりなんですか？　藤峰さんの事件」

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第二話　ホワイトクリスマス

「終わりだろう。なにか不満なのか」
「不満ではないですが、納得できないことがあります」
　俺は高遠の脇に立つ石田を見た。
「高遠さん。きっと、神城先生がすっきりさせてくれるよ」
　待て待て、それじゃ事が露見するぞ。俺は高遠をとりなすことにした。
「これでいいじゃないか。高遠紀和子の独創的な発想で見つけ出した秘密の小部
屋から、見事に藤峰玲菜嬢を救い出したんだ。それで大団円。高遠探偵の大手柄
だよ。それで十分。世の中には知らないほうがいいことだってあるんだよ」
　高遠は口を尖らせた。しまった、口を滑らせたか。これは逆効果だ。
「神城先生、お世辞でごまかさないでください。何を隠しているんですか」
　高遠が迫ってきた。
「高遠さん。さっきの廊下の話をもう一度言うのがいいよ」
　石田が俺の苦境を救おうと割り込んできた。いや違うな、これは。高遠をけし
かけてどういう結末になるか単に楽しんでいるだけだ。
「あの日の翌朝、病室で眼が覚めた藤峰さんにハンドバックを渡したら、あわて
てハンドバッグの中を探していました。それで何かなくなっているのか訊いたん

　
　　
です。藤峰さんはそうじゃないけど、一応、お財布を確認したんだと言っていま
した。でも違うと思うんです。財布なんてすぐ見つかりましたし、それでもやは
り不安な様子で、もう一度バッグの中を探していました。何か紙切れを拾ってそ
れを見ていました」
「藤峰さん、なにか言ったのか」
　俺は訊いてみた。
「いいえ、何も言いませんでした。でも、その紙切れのメモを読んで、やっと安
心したみたいです。大体、市販の解熱剤だけであんなに眠り込んじゃうものなん
ですか？　それに後から考えたんですけど、神城先生は私が藤峰さんに付き添っ
ていったとき、一緒に来ませんでした。あれは何か変でした。私を追い出して、
後にひとり残って何かしたかったんでしょう。違いますか」
　藤峰のことに気を取られていると思ったのに、まったく余計なことに気の回る
奴だ。
「そこまで考えているんなら俺に訊くまでもないだろう。ミステリー好きの高遠
の推理を聞きたいね」
　石田も頷いている。高遠はそれなら俺と石田の前で下がり掛けていた眼鏡をぐ

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第二話　ホワイトクリスマス

いと押し上げた。
「ええと、それじゃ」
　そのまま少し考えてから話し出した。
「こうなんじゃないかと思います。あの地下通路の小部屋に私が入ったとき、机
の上に薬の箱と何か錠剤の空パックみたいなものが置いてありました」
「高遠も気がついていたのか」
「後から思い出したんです、何か変だと思ってから。そういえば机の上に何かあ
ったのを思いだしたんです」
　石田はにこにこしながらい頷いている。
「神城先生、高遠さんは賢いね。ごまかそうなんてしないほうがいいよ」
　まったくいい気なものだ。最初にそうしろと促してきたのは石田だろうが。口
には出さず目配せしてきただけだが。
「あれは問題ないさ。翌朝、副院長に説明したときにも見せたよ。藤峰が自宅か
ら用意してきた市販の解熱剤だった。藤峰だってそれを飲んだって言っているん
だろう」
「それはそうですけど、藤峰さん、やはり何か隠しているんだと思います。宮地

　
　　
先生から別な薬を貰ったんじゃないですか。藤峰さんは用心してそれをハンドバ
ッグに隠したんだと思います」
　石田は興味深げに高遠の推理に耳を傾けている。高遠は一息つき、俺の顔をき
っと見据えてきた。
「隠してあった薬はなんだったんですか」
「神城先生、隠し事は良くないよ」
　石田が無責任に言った。
　いいだろう、今では問題ないと分かっている。俺は机の引き出しの奥に押し込
んでおいたものを取り出した。まだ、二粒ほど錠剤が残った銀色のブリスターパ
ックだ。これはいずれ石田に渡して宮地に返してもらおうとしていたのだ。
「高遠の推理の通りだよ。俺には正確にどれほどの効果があるのか分からないけ
れど、このパックにはＴｗＤＰ２と略号が打ってある。ネットでこの略号を調べ
たらジアゼパムのゾロだった。少なくとも市販薬ではないし、ハンドバッグの下
にこれが裸で置いてあったところをみると、藤峰さん自身が処方されたのではな
いと思う」
　手渡された薬をつくづくと眺めていた高遠が眉を寄せて溜息をついた。

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第二話　ホワイトクリスマス

「ジアゼパムですか。それって向精神薬ですよね。藤峰さん、もし自分が処方さ
れたんじゃなかったらどうやって手に入れたんでしょう」
　相変わらず気楽な風情の石田が高遠の疑問を引き取った。
「ほうら、やはり神城先生が言ったとおりだ、高遠さん。知らないでいるほうが
幸せだって」
「でも、やっぱり知りたいです。本当のことが分かっていたほうがきちんと対応
できます」
　薬を俺に返しながら藤峰を心配して高遠は顔を曇らせている。俺は受け取った
薬を石田に渡した。
「大丈夫だよ。神城先生にその話を聞いたんで、昨日、宮地に確認しておいた」
　それまでニヤニヤしていた石田が医者らしい顔つきに戻って、請合った。
「薬の事を訊いたら、宮地はしばらく前にトラブルを抱えて不眠がひどかったと
きに医者に通っていたんだ。その薬は精神安定作用もある睡眠薬で、通っている
病院で処方されたものだそうだ」
　石田の話をきいて高遠がぱっと顔を輝かせた。　
「本当ですか、その話。宮地先生に確認したんですか？　それなら本当に良かっ

　
　　
たです」
「まあ、自分に処方された薬を誰かに譲るのは褒ほめられることではないけれど、
残った抗生物質の使い回しなんてざらにあることだろう。藤峰の体調が悪いと知
って、翌朝、別れ際に入眠剤のほかにこれを渡したんだそうだ。仕事は休んで寝
ているように言ったんだ。その薬なら眠れないときには良く効くからって。その
とき、人には言わないようにって念を押したらしいんだが、どうもそれを藤峰さ
んが誤解したみたいだな」
「病院のを持ち出したんじゃないんですね」
「大丈夫だよ。宮地も藤峰さんもそれほど考えなしじゃなかったってことだ」
　その後は俺が引き取った。
「俺と石田も一応それを心配していたんだ。だからまあ、薬は俺が預かって隠し
ておいたんだ。向精神薬は病院では管理がうるさくて、きちんと数を確認してい
るからな」
「もう、本当に心配していたんですよ。本当に良かったです。でもひどい、それ
なら私にも話しておいてくれれば心配しないですんだのに」
　薬に問題ないと分かって安堵したはずなのに、高遠はそれだけでは気がすまな

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第二話　ホワイトクリスマス

いらしく、俺に詰め寄ってきた。
「でも、それじゃハンドバッグに入っていた紙切れは何だったんですか」
「それは俺が入れた手帳の切れ端だろう。薬は預かっておくから何も言うなって
書いておいたんだ」

　俺と石田の話に高遠はどうやら納得したが、自分だけ知らされていなかったこ
とに大いにむくれた。俺にきつい一瞥を投げかけ、それから石田を責めた。
「謎は解けましたがこれはあんまりです。私だけ心配していたんですよ。それに
神城先生はともかく、石田先生まで片棒を担ぐなんてひどいです」
　おいおい、それは聞き捨てならない台詞だ。なんで俺はともかくなんだ。石田
を見やるとさすがに病棟で美しき女豹めひょうのごとき看護師たちと日々対決しているだ
けのことはある。少しも動じず、からからと笑っている。
「まあまあ、高遠さん、そう怒らずに。また三人組みで解決にたどりついたんだ
から、事件解決のお祝いとお詫びをかねて昼飯でも一緒に食べに行こうか。着替
えてくるからここで待っていて」
　そう言って石田は立ち上がって部屋を出て行った。

　
　　

　それを見送った高遠はそれでもしばらくの間はむっとしていたが、ようやく顔
つきが和らいだ。つくづくと安心したようだ。
「良かったです、藤峰さん。本当に心配したんですよ。もし、病院の薬を持ち出
したんだったら、それこそ宮地先生も藤峰さんも病院にいられなくなってしまい
ます」
　そう言いながら高遠は心配していたときを思い出したのか悪夢を払うように頭
を振って身震いし、息を大きく吐きながら自分の腕で身体を抱きすくめた。いつ
もと違って束ねられていないセミロングの髪がふわりと揺れて肩に纏まとわりつき、
交叉している腕で胸の膨らみが素敵に強調されている。

　高遠が俺の視線に気づいた。
「ああ、先生、どこを見ているんですか。この間は子供っぽいって言っていたく
せに」
　あわてて両手で胸を隠す仕草は余計に意識させてくれる。まったく高遠、大人
並なのはお前の胸だけだろう。性格はまるで女子高生だ。そんな事をする前に俺

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第二話　ホワイトクリスマス

だって男だという事を少しは意識してくれ。俺の胸のうちを知ってか知らずか、
高遠が追い討ちを掛けてきた。
「先生って、エッチですけべです」
　俺が絶句しているところに、ありがたくも石田の足音が聞こえてきた。













　
　　

　
　　
　
　
　
　
　　
　病院は謎だらけ
　第三話　レッドドラゴン
　
　
　
　
　
　

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第三話　レッドドラゴン

　１　ジンクス

「消化器内科から病理解剖の依頼でーす」
　技師検鏡室で鳴り響いた病理受付の電話を取りに行った町田由樹まちだよしきが、語尾を引
張って病理解剖の依頼を告げると、カンファランス室に集まって昼食を摂ってい
た病理医と技師が黙ったまま互いに顔を見あわせた。たったいま大友さんが病理
部長と病理部のジンクスに触れる話をしていて、まさにそのジンクス通りになっ
たのだ。
　町田の声が響き渡ると、素知らぬ振りをして大友さんが席から立ちあがった。
部屋に集まっていた人たちの視線がさっと大友さんに集中したが、それにも気づ
かぬ風を装っている。
「それじゃ、私は仕事に戻るわ」
　部屋にかけてある時計を見あげると、まだ昼休みの終わる時間ではない。大友
さんは技師たちの冷たい視線を振り切って自分の事務コーナーに去っていった。

　
　　
　病院にはいろいろなジンクスがある。臨床科なら誰それの当直の日にはやたら
と急患が押し寄せるだの、入院患者が急変するだのである。それどころかもっと
縁起でもないジンクスもある。ある医療ものの小説の主人公はまさにこの『惹ひき
の誰それ』の見本で、夏目漱石にかぶれた内科医が救急当直の晩には患者がその
オーラに引かれて押し寄せてきて、病院の救急部は戦場のような有様になると描
かれている。
　ジンクスなら病理部にだってあるが、それはささやかなものだ。病理医の解剖
当番は曜日で決めてあるから、誰それの当番の曜日は解剖依頼がよく入るという
ものだ。以前はそういう『惹く病理医』の当番日には複数の病理解剖依頼が入る
というものだった。
　その病理解剖も俺が先輩から伝え聞いた以前に比べると今では激減してしまっ
た。昔は一人で一日に五体も解剖をしたという豪傑がいたらしい。
　病理解剖の件数が減ったのはいいことなのかそうでないのかは難しい。はっき
りしているのは病理部の医師と検査技師にとっては有難いということだ。一件の
病理解剖は大変な労力を食うからだ。
　だから自分が解剖当番の日に病理解剖の依頼がないにこしたことはない。そこ

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第三話　レッドドラゴン

で新しいジンクスが生まれた。解剖依頼がない日が続いているときは、解剖の事
を思い出してはいけない、もともとそんな業務はない振りをしているのがよい、
というものだ。せっかく病理解剖がないなら、そんな仕事はすっかり忘れてしま
っているのがいい。うっかりここのところ解剖がないなあ、なんて口にするのは
禁句とされていた。

　三月も終わりに近づいていたその日の解剖当番は俺が当たっていて、介助に入
ってくれる技師は武村係長と高遠の予定だった。俺は勿論、病理解剖のことはす
っかり忘れた振りをして午前中は病理学教室にいた頃の研究を何とか論文にしよ
うとデータの整理に励んでいた。
　昼食時にカンファランス室に行くと既に大友さんや技師と医師が集まって食事
をしていた。そこに現われた木下さんが先に来ていた友永さんの昼食をつくづく
と見て言った。
「和美、今度は何をやっているの？」
　友永和美の前にはサラダと肉料理が並んでいて、ご飯やパンは一斉ない。友永
さんに代わって武村さんが教えてくれた。

　
　　
「今度は炭水化物を全然食べないダイエットらしいわよ。そんなんじゃ力が出な
いって言っているんだけど」
「でも、今度の方法は凄く有効だって。この前テレビの特集で夢蔵ゆめぞうさんが言って
いたよ、凄いんだって。一ヶ月で十キロ痩せたって言うんだから」
　見た目に友永さんがダイエットをしたがる理由は分からない。それなのに本人
は自分だけが知っている十年前の体型を夢見て、俺が去年の秋にこの病院に勤め
始めて以来、既にいくつものダイエットを試みている。
「テレビのダイエット番組って、そんなに信用できるのか？」
　突っ込みを入れると木下さんがだみ声で追い討ちをかけた。
「あんなの嘘っぱちか宣伝よ。あんなのが効果があるくらいならこんなに次々と
新手のダイエット方法が出てくるわけないでしょ」
　旗色は悪いが友永さんはそれでもめげずに防戦している。そこに大友さんが参
戦してきた。
「友永さん、炭水化物ダイエットなんて効かないわよ。それより岩盤浴のほうが
よく効くわ。汗が出て代謝もよくなるし、私はあれが一番いいと思うわよ」
　これは援軍なのどうか分からないが、大友説に友永さんは大いに喜び、元気づ

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第三話　レッドドラゴン

けられた。
「岩盤浴は有効です。マッサージしてもらうからとても気持ちいいですし、私も
三キロ痩せました。でもあれはお金がかかってしょうがないのよ。それでやめて
こっちにしたんだ」
「いつだかは減肥茶と言うのやっていたでしょう。あれはどうなったの？」
　また、木下さんが追求した。
「あれはお金があまりかからないからいいんですけど、効果がなかったです」
　やっぱりねえ、と女性技師たちの間から、ああしたらいい、こうしたらいい、
とさまざまな痩身法について意見が飛び出し、誰も自説を曲げようとしない。そ
のうち痩せ薬に話題が及んだところで木下さんは手厳しい評価を下した。
「あれは危ないわよ。だいたい、中国製の痩せ薬には何か危ない劇薬が仕込んで
あって、それで死にかけた人だっているんでしょ」
「そんな危険なものには手を出しません」
　友永さんは必死に防戦に努めているが、木下さんは容赦ない。
「痩せたかったら食べなければいいのよ。そうじゃなかったら昔ながらの日本食
を食べていれば高ちゃんみたいになるわ。ほら、高ちゃんのお弁当を見てご覧な

　
　　
さいよ」
　木下さんのひと言で、みんなの視線が一斉に高遠の弁当に集まった。確かに高
遠の弁当はいつもの通りで芋の煮っ転がしだの、金平牛蒡きんぴらごぼうだの、ほうれん草のお
ひたしだのと日本の伝統的な惣菜が詰っている。
「ああ、駄目です。見ないでください。今日のお弁当は夕べの残り物です」
　そう言って高遠は片手でおにぎりを握り、もう一方の手で目の前に広げた自分
の弁当を覆い隠そうとした。
「あれはとても無理です。あれだけ背が高ければいくら食べても関係ないです。
何を食べていたらあんなに背が伸びるんですか。高ちゃんは特異体質です」
　友永和美が高遠を見ながらため息をついた。
　これだけ何やかやと言われているのにそれでも高遠は話題に乗ろうとしない。
俺の隣で静かに金平牛蒡をカリカリと食べている。
「おい、どうしてこの楽しいバトルに参戦しないんだ」
　俺が迫ると、高遠は俺の耳に口を近づけて囁き返してきた。
「内緒です」
　それならと俺も高遠の耳に口を近づけて囁いた。

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第三話　レッドドラゴン

「内緒だと言われれば余計、聞きたくなるぞ。潔くさっさと吐いたほうが身のた
めだ」
「嫌です。黙秘権を行使します」
　わざとらしくそっぽを向く高遠の横顔を見ていたら、大友さんが俺に話を振っ
てきた。
「神城先生、先生も何か言ってよ。友永さんはお金の無駄遣いだわ」
　これはいささか危険な状況になってきた。俺のような朴念仁ぼくねんじんにはいまや入り
こめる状態ではない。周りを言葉の銃弾かミサイルが飛びかっているような状況
だ。先輩の誰かが俺にこの手の話に首を突っ込むな、とつくづく言っていたのを
思い出した。女性の多い職場では気をつけないと収拾がつかなくなるぞ、と。そ
の先輩は美しき女性たちの危険な真実を熟知していたのだ。
「いいじゃないか。友永さんは独身だし、給料をたんまり貰って親の家にいるん
ならお金は溜まるばかりだ。功徳を施すと思ってせっせと使えばいいさ」
　と言うのが精一杯だった。
　このバトルは時間切れまで続くのだろうなと思っていたら、鉄砲玉とミサイル
の飛び交う戦場に仲西病理部長がしゃれた包みの弁当を手に提げてふらりとカン

　
　　
ファランス室に現れた。部長の威力は絶大で、国連の事務総長が休戦を斡旋した
みたいに痩身法バトルはあっという間に休戦になった。その代わり危険なジンク
スに触れる話題に移っていった。
「少し会議が長引きましてね」
　そう言いながら席に着き、手にしていた弁当を広げた。今日も東京駅で買って
きたらしい弁当は茶巾寿司だ。それを見て美味しそうねえと、大友さんが言いな
がらいそいそとお茶を淹れ始めた。そのついでに言わなくてもいい、畏おそれ多い事
を口にした。
「仲西先生、お弁当は美味しそうなのはいいですけれど、今日も解剖依頼が入っ
ていないのよ。こんなに解剖がないと去年と同じになりそうだわ。もうひと月も
依頼がないのよ」
　バトルが休戦になって手持ち不沙汰にしていた技師達がはっと息を呑み、一斉
に互いに顔を見合わせた。それに構わず部長は悠然と持ってきた弁当をうまそう
に食べ始めた。
「あと一カ月もないですが、今年度の解剖数は足りている筈ですよ。とくに内科
の症例は二月の終わりにちゃんと数えました。昨年度みたいに解剖が足りなくて

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第三話　レッドドラゴン

最後に慌てるのはごめんですから」
　禁忌破りの発言に固まっていた技師の中で、最初に金縛りが解けたのは木下さ
んだった。一呼吸を置いて口を開いた。
「あーあ、言っちゃった、大友さん。解剖依頼が入ったら二人に恨まれるわよ」
　禁句を口にしたからって実際に解剖依頼が入るとは限らない。それに解剖する
ことになってもさすがに俺は恨みはしないが、デューティーのない一日が終わり
になるのは残念だ。どうせなら今日はこのまま解剖なしで終わる事を願った。解
剖依頼が入ったら恨む筈のもう一人はというと、ジンクスは知っているようだが
俺とは真逆の反応だった。
「私は早く次の解剖の介助に入りたいです。ここのところ解剖がなくて、せっか
く覚えた手順を忘れそうです」
　高遠は病理部に配属された昨年から熱心に解剖の介助に入リ始め、係長や木下
さんから必要な技術を熱心に習っている。だからここしばらく解剖がないのが残
念なのだ。
「高遠、諦めろ。ここまできたんだから、今日は解剖なしでいこう」
　俺が期待を込めてそう言った途端に、病理部の受付電話が鳴り響いたのだ。

　
　　

　打合せた時刻に地下の病理解剖室に降りて行くと、珍しく先に臨床医が二人、
カンファランス室で待っていた。主治医が俺に挨拶してきた。
「神城先生が担当してくれるんですか。それは有難いです。先生の名前で病理診
断が帰って来ているんで、こちらの病院に移ったのは気がついていたのに、声を
かけるチャンスがなかったです。こんな形で会うことになって済まないです」
　律儀な挨拶をしてきたのは服部はっとりという俺と同期の内科医で、肝臓病を専門とし
ている。もう一人は研修医だと紹介してくれた。
「こちらこそ、服部先生、随分久しぶり。ほとんど卒業して以来かな。ここの病
院の肝臓の患者は一手に引き受けているんでしょう。活躍していますね」
「いや、そうでもないんです。肝臓は消化器内科ではやはり主流じゃないですか
ら」
　積もる話は後にして、早速、患者の臨床経過を簡単に説明してもらうことにし
た。病理解剖を始める前には患者の病歴や検査結果を主治医に説明して貰い、レ
ントゲンやＣＴの画像を見せてもらうことになっている。
　服部が研修医を振り返って説明を促そうとしたとき、長い使い捨ての青いガウ

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第三話　レッドドラゴン

ンを着て、帽子と大きなマスクをした背の高い姿の技師が現れた。ご丁寧に眼に
も透明の防護用のゴーグルをしている。今日は高遠と武村係長が介助に入ってく
れることになっているから、その二人のどちらかなのだが、背が高いのは係長も
結構高いから区別がつかない。
「先生、係長と区別がつきませんか？」
　この声は高遠だ。そう思ってよく見るとゴーグルの下にはメガネが見える。
「まったくなあ、女は化けるというが、この化け方は尋常ではないな」
「そんなことより先生、解剖承諾書と死亡診断書は確認しましたか？」
　そうだった。解剖をする前には主治医の死亡診断書と遺族の解剖承諾書を確認
することになっている。服部に教えられながら研修医が持ってきていた書類から
二枚を選んで渡してくれ、臨床歴をたどたどしく話し始めた。
「えーと、この患者さんはもとは建設労働者です。しばらく前から肺気腫と肺炎
という診断で近医でフォローされていました。それがえー、経過中に肝機能障害
が見つかって、調べたら肝硬変と肝結節があって、肝硬変肝癌だろうという診断
で当院を紹介受診しました」
　いつのことかと聞いてみると半年ほど前の九月半ばだという。

　
　　
「当科で調べて見ると紹介状のとおりで、えーと、Ｃ型肝硬変肝癌でした。針生
検で低分化の肝細胞癌と診断がでています」
　研修医の説明を服部が補ってくれた。
「その生検は神城さんがこちらの病院に来る少し前で、確か、仲西先生の診断で
す」
「手術の適応はなく、本人もあまり積極的な治療はいいと言うので、肝庇護剤ひございを
投与したり、肝性脳症が出たら、対症療法をするだけでした」
「解剖承諾書に家族の名前じゃなく、院長の名前があると言うことは？」
　研修医が眼を白黒させている。またも研修医ではなく服部が答えてくれた。
「この患者さん、身寄りがないです。しばらく前から生活保護を受けていて、関
口御殿下町の簡易宿泊所で生活をしていました。そういうわけで院長の承諾によ
る病理解剖です」
　この横浜中央病院は横浜の下町というか、関内の近くにある繁華街、昔の花街
の近くに位置し、その上、すぐ近くに簡易宿泊所がいくつも軒を連ねている関口
御殿下地区がある。そこには職にあぶれた人、故郷や家族から離れて身寄りのな
い人たちが、社会の矛盾を一身に背負って孤独に生きている。そういう人たちが

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第三話　レッドドラゴン

人生の最後にこの病院に辿り着くことがしばしばある。今日の解剖の症例もそう
いう人たちの一人なのだ。

「それじゃ画像を見せてください」
　臨床経過が一通り説明された後、俺が促すと研修医は机の上に設置されている
電子カルテの端末を操作して、モニターに患者の画像を呼び出した。研修医が自
信なさそうにに肺の結節影を説明し、胸水もあるようだと付け加えてくれた。そ
の研修医も肝臓の画像が表示されると急に元気になった。
「肝硬変が強く、肝臓には強い萎縮があり、腹水が貯留しています。えーと、こ
この部分が最大の結節です」
　ひととおりの説明を受けたあと、俺は傍にいた高遠を含めて疑問点があるか尋
ねた。高遠がそれならと聞いてきた。
「感染症は大丈夫ですか。まずＣ型肝硬変ということですけれど、肝炎は感染性
ですか？」
「えーと、ＨＣＶ抗原が陽性ですからＣ型肝炎は感染の危険があると思います。
結核は大丈夫です。ほかに危険な感染症の記録はないです」

　
　　
　Ｃ型肝炎は傷口から血液が入ると感染の危険性があるから、病理解剖は怪我を
しないように気をつけなくてはならない。高遠と武村さんの厳重な解剖着姿は正
しい判断というわけだ。

　病理解剖が始まると高遠はてきぱきと介助をしてくれた。病理解剖は順調に進
んでいき、患者の身体から必要な臓器を取り出して、俺は順に所見を読み上げて
いった。それを研修医がもたつきながら記録用紙に書き留めていく。所見の大部
分は亡くなる前の臨床診断をなぞっているだけだったが、ひとつだけ思わぬこと
が見つかった。左右の肺に肝癌の転移結節が見られたのはいいとして、それ以外
に雰囲気の明らかに異なる結構大きな白い病変が左肺に見つかったのだ。色合い
が肝臓癌の転移とは違うこともあり、肺癌という雰囲気だった。
「服部先生、これは肝癌の転移じゃなくて原発の肺腺癌みたいですね。ほら」
　俺が肺の割面を差し出すと服部が研修医と一緒に覗き込んできた。高遠も覗き
込んできた。
「組織標本を作って顕微鏡で確認しますよ」
「そうですか。両側の多発性の結節なんで、てっきり全部が肝癌の転移かと思い

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第三話　レッドドラゴン

ましたけど。いや、解剖してみるもんですね。勉強になりました」

　病理解剖はもう、ほとんど終了しようとしている。俺は後ろにいる係長に話し
かけた。
「高遠って、結構使えるようになってるじゃない」
「ええ、何とか役に立つようになりました」
　俺を介助している高遠の背後でサポート役をしている係長が嬉しそうに高遠を
褒ほめた。高遠は解剖の介助に入るようになって半年だが、既に十体以上の解剖の
介助に入っている。
「高ちゃんは最近にない拾い物です。物覚えが凄く早いです。先生もいろいろ教
えてやってください。これから病理部を支えてくれると思います」
　去年の秋と比べると随分な褒めようである。俺と係長の話を高遠が嬉しそうに
聞いている。
「良かったな、高遠。拾い物らしいが、それなら例のすけべ議員に感謝しなくち
ゃな」
「ああ、ひどい。係長、私はやっぱり拾われ物なんですか。悲しいです」

　
　　
　係長はくすくす笑っている、多分。何しろ目元しか見えないのだ。それはそれ
として、と高遠は俺を睨んだ。こちらも顔はほとんど見えないが、防護マスクと
眼鏡越しの眼が俺を見据えている。
「もう、神城先生はそんなことばかり覚えているんですね」
　高遠の口元が尖っているのだろう、多分。
「まあいいじゃないか、とにかく有望株だって褒められているんだから」
　高遠の返事はなかった。ちょっとの間だけ俺の顔を防護マスク越しに見たが、
その目つきなら納得したのだろう。

　病理解剖は所見のまとめを告げて終了となった。俺が先に更衣室に向かおうと
すると服部が躊躇しながら俺を呼び止めた。
「神城先生、迷惑かも知れないですがお願いがあるんです。夕方、時間取れない
ですか」
　服部からの依頼が激症肝炎患者にまつわる事件だった。

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第三話　レッドドラゴン

　２　劇症肝炎

　その日、終業時刻が過ぎてしばらく経った頃、服部が隣の医師検鏡室に現われ
た。顔を出すまでに少し時間がかかったから、俺の小部屋が分からず、検鏡室に
いた誰かに教えてもらったのだろう。部屋に招き入れると椅子に座りながら書棚
を羨ましそうに見回している。服部は昨年、講師になったのに独立した部屋は貰
えず、使える机をわずかに広くして貰っただけだと言う。書類やら書籍を置く場
所が十分なくて困っているというのだ。俺の部屋だって扉はないし、ちゃんとし
た部屋ではないと言うと、服部はそれでも十分だと言う。
「消化器内科の医局はドクターの割りに部屋が狭いです。とても講師に一部屋は
割り当ててくれないです」
　と嘆く。しばらく雑談を交わした後、服部が用件を切り出した。
「それで、解剖室でお願いしたことなんです」
　その時、部屋の入り口に高遠が現れた。コーヒーの入ったカップを載せた小さ

　
　　
なお盆を持っている。気が利く、というよりちゃっかりしている。カップは三つ
あるのだ。高遠はボランティアでコーヒーを淹れたわけではなかった。
「高遠、お前はハイエナのような奴だな。どこで匂いをかぎつけたんだ」
「もう、神城先生は言い方がひどいです。その言い方はハイエナに失礼です」
「それじゃ何で、匂いをかぎつけたんだ」
「だって、服部先生が病理解剖のとき言っていたのが聞こえました。相談に乗っ
て欲しいって」
　コーヒーカップを手にした服部は別にかまわないと言う。
「高遠さんって言いましたっけ。いいですよ。今日、一緒に解剖に入ってくれた
んでしょう。それに聞いていますよ、去年のあの大雪のクリスマスの日に行方不
明の技師さんを探し出したんでしょう」
「高遠、病院の中じゃ随分有名人になっているようだぞ」
「もう、やめてください。そういうつもりで藤峰さんを探したわけじゃありませ
ん」
　それはそうだが、結果的には病院中にあの話は広がっているようだ。それじゃ
ついでにもう一つ、聞いて見ようか。

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第三話　レッドドラゴン

「服部先生さ、それじゃもう一つの素敵な話は聞いていない？」
　俺が何の事を口にしようとしているのか悟った高遠が慌てた。
「ああ、その話は駄目です、先生」
　幸いに俺がわざわざ口にする必要はなかった。
「知っていますよ、高遠さん。去年の秋に宮地っていう研修医をひっぱたいた話
でしょう。僕のいる病棟の看護師の間でしばらく話題になっていましたよ」
「ああ、もう。その話は忘れてください」
「別に悪い話じゃないですよ。それに事件を解決したんでしょう」
　服部が口を尖らせ気味にまじめ腐って言う。看護師たちがいうには、憎たらし
い研修医や、大して知りもしないの知ったかぶりをする若い医師を、たまには思
い切りひっぱたいてやりたいと言っているのだそうだ。

　ようやく服部が本題に入った。
「今、私が担当している患者で一人、劇症肝炎の人がいるんです。もともとＢ型
肝炎でよその病院でフォローされていて、しばらく前に急に具合が悪くなって入
院したんです。状態が悪くてこちらに転院して来たときはもうひどい状態で、よ

　
　　
れよれでした」
　一緒に話を聞いていた高遠が顔を上げた。何かを期待している表情だ。
「解剖になるんですか？」
　こらこら、不謹慎な言い方をするな。患者はまだ生きているぞ。とは言うもの
患者の容態は厳しそうだ。
「服部先生、それじゃ手の打ちようがないのか」
「今のところ人工透析と血液浄化療法で凌しのいでいますが、結構厳しい状況で救え
るかどうか五分五分ですね」
「初期感染の肝炎ならともかく、慢性期でも劇症化することがあるのか？」
　いや、普通はないと言う。
「劇症化するのはウィルス肝炎の再燃のことが多いです」
　話を聞いていた高遠がそれは聞いたことがあると言う。
「何か、白血病の薬じゃないですか。グリベックか何かを投与するとＢ型肝炎が
再燃するって聞いたことがあります」
　確かに聞いたことがある。
「高遠さん、良く知っていますね。その通りです。ただ、この人は白血病はない

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